第21話 水路に潜む影
トオヤは濡れた前髪を払いながら、子供商会の木戸の前で振り返った。
雨脚は弱まっていたが、街の石畳はまだ水を吸いきれず黒く光っている。
「……じゃあ、ここで別れだな」
仲間の子供たちは心細げに彼を見上げていた。
だがトオヤは胸を張り、できるだけ大人びた声を出す。
「大丈夫だ。ここなら安全だってカルディスが言ってた。だから……俺がいなくても、やってける」
一番小さな子が袖を掴み、「本当に行くの?」と震え声で尋ねた。
トオヤは一瞬だけ言葉を失ったが、やがてぐっと唇を噛みしめる。
「……俺は義賊だ。弱い奴らを守るために戦う。だから――必ず戻る」
その言葉に子供たちは涙を拭き、うなずいた。
カルディスは横目でその光景を見つめていた。
記録者だった頃なら、「子供の虚勢」と一行で済ませただろう。
だが今は違う。胸の奥に、ほんのわずかだが揺らぎがあった。
(……この瞳が、どこへ辿り着くのか。見てみたい)
彼は剣の柄を軽く叩き、無言で歩き出す。
トオヤは仲間たちに最後の手を振り、燈子たちの後を追った。
そして水路の入口に立つと、にやりと笑った。
「へっへっ、実はな。ここから先に抜け道があるんだ。街道を通らなくても王都のほうへ行ける。どうだ? 俺を仲間にしてよかったろ?」
燈子は目を丸くした。
「ほんとにそんな道が……? 冒険みたい!」
ガロウは肩をすくめる。
「子供の与太話じゃなきゃいいがな」
「信じろって。俺、この水路は隅から隅まで知ってるんだ!」
トオヤの自信に満ちた声が、湿ったアーチの中に反響した。
四人は再び、水路の闇へと足を踏み入れていった。
水路の奥へと進むにつれ、空気はさらに湿り、重く淀んでいった。
石壁にしみ込んだ苔がぬめりを帯び、足音が響くたびに水面に波紋が広がる。
「うっ……臭い……」
燈子が鼻を押さえる。
「長く使われていない区画だな」
カルディスは松明を掲げ、冷静に周囲を観察していた。
壁のひび割れから地下水が滴り落ち、黒い筋を作っている。
「でも、この先を抜ければ川に出られるんだろ?」
トオヤが胸を張って言う。
「そうさ! 俺たち義賊団の秘密のルートだ!」
「おい、もう“団”はいねえだろ」
ガロウが渋い声で突っ込む。
「う……団長がいれば団は続くんだよ!」
トオヤは棒を振って強がる。
燈子は苦笑しつつも、モーニングスターを握り直した。
不格好な重みが、どこか心強い。
…その時だった。
「……聞こえるか?」
カルディスが低く告げる。
水音に混じって、ぐじゅり、と嫌な音が響いた。
次の瞬間、暗がりから粘液が飛び散り、足元に落ちる。
「ひっ……なにこれ!」
燈子が慌てて飛び退いた。
闇の中で、ぬるりと光るものが動いた。
半透明の塊…スライムだった。
それも一体や二体ではない。水路の奥から、どろりどろりと這い寄ってくる。
さらに、瓦礫の隙間から赤い目がぎらついた。
巨大に膨れた下水鼠の群れが、牙を剥いて這い出してくる。
「……こいつは賑やかだな」
ガロウが唸り、剣を構えかけて腕を押さえた。
右腕の震えは止まらない。
トオヤが棒を振り上げて叫ぶ。
「来やがれ! 義賊団の団長トオヤ様が相手してやる!」
燈子は顔を青ざめさせつつも、一歩前に出た。
「……もう逃げられない。やるしかない!」
カルディスの剣が、湿った闇に閃きを刻む。
その瞬間、地下水路は怒号と金属音に満たされた…。
スライムがどろりと広がり、足元を覆った。
燈子はモーニングスターを振るい、必死に粘液を弾き飛ばす。だが一撃ごとに腕が痺れ、力が削られていく。
「くそっ……しつこい!」
その背後で、トオヤが叫んだ。
「や、やべぇ! こっち来た!」
二匹の巨大鼠が、少年に飛びかかる。
トオヤは必死に棒を振ったが、体格の差は歴然だった。
「うわああっ!」
牙が迫り、彼は後ろに倒れ込む。
「…トオヤ!」
ガロウは剣を抜きかけた。だが腕が痺れ、力が入らない。
歯を食いしばり、咄嗟に手にしていた杖を突き出した。
ガンッ!
鈍い音と共に、鼠の顎が弾かれた。
続けざまに横へ払うと、もう一匹も怯んで水へ転がる。
「お、おっちゃん! やるじゃん!」
トオヤが目を丸くする。
ガロウは一瞬呆然とし…次の瞬間、舌打ちして構え直した。
「……まぐれだ。だが…」
鼠が再び飛びかかる。
今度は冷静に杖を振り下ろす。
手の中で木の感触が生き物のように伝わり、確かな反動が腕に残った。
「……剣よりも、振れる」
呟きと共に、左掌を杖に添える。
小さな火花が散り、杖の先が一瞬だけ赤く灯った。
「おらぁッ!」
炎を帯びた一撃が、鼠を壁に叩きつける。
甲高い悲鳴が水路に響き、群れは怯えて散っていった。
荒い息をつきながら、ガロウは杖を握りしめる。
全身は痛むが…腕は、確かに動いている。
「いける……」
剣を失った男の胸に、微かな手応えが宿った。
水路に静けさが戻った。
粘液の匂いと血の臭気だけが残り、波紋がゆらゆらと広がっている。
燈子は肩で息をしながら、モーニングスターを握り直した。
「はぁ……終わった、の?」
カルディスは剣を拭い、淡々と頷く。
「ひとまずはな。奥には、まだ何か潜んでいるかもしれんが」
トオヤは泥まみれになりながらも、目を輝かせてガロウを見上げた。
「おっちゃん、すげーじゃん! 棒でバッタバッタって! まるで……魔法剣士!」
「……剣は使ってねぇだろ」
ガロウは不機嫌そうに吐き捨てた。
「じゃあ……魔法棒士?」
トオヤが悪戯っぽく笑う。
燈子も思わず吹き出した。
「ふふ……いいじゃん、それ。魔法棒士!」
「バカにしやがって……」
ガロウは額をぬぐいながら、苦笑に近い息を漏らした。
だが、心の奥底では違う感触があった。
剣では届かなかった動きが、杖なら確かに振れる。
火花も応え、わずかだが“戦える”という実感があった。
(俺は……まだやれる)
その思いを胸に、ガロウは杖を強く握りしめた。
雨音が遠く響く。
仲間と共に進むその足取りは、かつてよりもわずかに軽かった。




