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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
20/40

第19話 通報の義務と鐘の音

焚き火の残り香がまだ漂っていた。


黒く崩れた薪、土に染みこんだ血の匂い。夜風は湿り気を含み、戦いの余韻を容赦なく鼻腔に押し込んでくる。


燈子はモーニングスターを握ったまま、膝に手をついて肩で息をしていた。


「……はぁ、はぁ……まだ、心臓がばくばくしてる……」


剣より重たい鉄球。その重みで腕が痺れているのに、なぜか手は離れなかった。


(剣よりも不格好なのに……でも、どうしてだろ。しっくりする……)


カルディスは剣を収め、街道を冷ややかに見渡した。


焚き火の跡から伸びる血痕、乱れた足跡、倒れ伏した影。


「……足止めにはなったが、夜が明ければ追っ手が来る。ここは長くはいられない」


言葉は冷たかったが、それは三人を生かすための決断の声でもあった。


ガロウは剣を杖のように突き立て、肩で荒く息をしている。


右腕は痙攣を繰り返し、包帯の奥からじわじわ血が滲む。


だが、その目には光が戻っていた。


「……まだだ。まだ歩ける」


自分自身に言い聞かせるように、噛み締める声。


燈子は顔を上げ、泥だらけの笑顔で言った。


「ねぇ、おっちゃん。すごかったよ!」


「……誰がおっちゃんだ」


苛立ち混じりの返答だったが、その声には苦笑が潜んでいた。


カルディスは二人のやりとりを横目に流し、結論を告げた。


「北は塞がれている。討伐隊は必ず布陣する。……川沿いを東へ、水の都へ入る」


「水の都……」燈子は小さく呟き、まだ握るモーニングスターを見下ろした。


(強くなれる武器を持て……師匠が言ってた。……私、ちゃんと強くなれてるのかな)




夜が白み始めるころ、三人は草を踏んで歩き出した。


遠くで川の光が揺れ、かすかに鐘の音が響く。


「街が近い」カルディスの声が低く響く。


しかし街へ入る前、小さな集落を抜ける必要があった。


石壁の家並み。井戸で水を汲む女たち。走り回る子ども。


表向きは静かな朝だったが、壁に貼られた一枚の紙が、その空気を濁していた。


【偽りの聖女 通報の義務】


【討伐隊指揮:神殿】


【報奨:銀貨十枚】


燈子は足を止め、顔色を失った。


「……通報の、義務……?」


紙に名前はない。だが「聖女」という二文字だけで十分だった。


群衆が「奇跡」と呼び、「邪神」と罵った声が甦る。


胸が締めつけられる。


「偽りの聖女……私のことだ」


燈子の指先が震える。


「おかしいよ……私、そんな……」


カルディスは目を逸らさず告げた。


「彼らにとって真実か偽りかは問題ではない。必要かどうかだ」


背後でガロウが低く吐き捨てる。


「通報の義務、ねぇ。……銀貨十枚で売れるなら、俺らはどこにいても獲物だ」


集落を抜けるあいだ、いくつもの視線が彼らを追った。


まじまじと見つめる者、慌てて目を逸らす者。


母親に腕を掴まれ、指を伸ばしかけた子どもが泣き出す声もあった。


燈子はうつむき、モーニングスターの柄をぎゅっと握る。


(わたしを見てる……違う、見てるのは“聖女”って言葉……)


胸が痛くなる。生き延びることそのものが罪に変わるようで。


「顔を上げろ」カルディスの声が飛ぶ。


「俯けば怪しまれる」


「で、でも……」


「偽りの聖女と気づかれる前に、通り過ぎろ。人の目は一瞬だ」


ガロウは苦々しい笑みを浮かべる。


「言うことが冷てぇな」


「冷たい方が、生き残れる」カルディスは表情を変えない。



石畳を抜け、裏通りに入った。


湿った木箱が積まれ、魚の匂いが漂う。


そこは市場の裏腹のように薄汚れ、しかし人目からは隠れられる路地だった。


笑い声が響いた。


子どもたちが数人、袋を抱えて駆け抜けていく。


裸足が石を打つ音が、雨水の残る地面に跳ねた。


その中に、一人だけ痩せた少年がいた。


薄い上着、鋭い黒い瞳。


彼は走り抜けながら、ほんの一瞬、燈子たちを見た。


燈子は思わず息をのむ。


(あ……)


少年の目は、彼女の手にあるモーニングスターに止まった。


次の瞬間には群れに紛れ、影のように消えていった。


ただ――


地面に落ちていた銅貨を拾う手つきだけが、不思議に鮮やかに残った。


カルディスはその一瞬を逃さなかった。


「……あの子…確か……」


「ただのガキに見えたけどな」ガロウが鼻を鳴らす。


燈子は振り返ったが、もう路地には影も残っていなかった。


「銀貨を知る孤児か……」カルディスの声は独り言のようだった。


燈子は胸にわずかな引っかかりを覚えながらも、歩を速める。



路地の向こうからは別の音が近づいてきていた。


金属の擦れる音。


甲冑の節が、規則正しく鳴っている。


「……討伐隊だ」カルディスの声が鋭くなる。


角笛の低い響きが街の奥に反響し、集落全体が緊張で軋む。


燈子は思わず背筋を正し、モーニングスターを握り直した。


川沿いの道に出ると、空はすでに群青から薄明へと変わっていた。


水面は灰色の光を映し、遠くに街の塔が黒い影を落としている。


角笛が二度、三度と鳴り響く。


討伐隊の足音が規則正しく重なり、甲冑の匂いが風に乗って近づいてきた。


その音は迷いがなく、ただ標的を締め上げるための律動だった。


カルディスは立ち止まり、耳を澄ませた。


「……南から十。東から五。囲い込んでいる」


「数えたの?」燈子が振り返る。


「鉄と革の音は違う。……それだけだ」


冷静な答えに、燈子は唇を噛む。


ガロウは肩を押さえながらも笑った。


「便利な耳だな。だがよ、ここで止まってられねぇだろ」


「無理をするなと言ったのはお前だ」カルディスが返す。


「戦わねぇとは言ってねぇ」


血に濡れた右腕を押さえつつも、ガロウの瞳には炎が残っていた。


燈子は二人の間に割って入る。


「いいから! わたしたち、まだ生きてる! だったら前に進むの!」


声は震えていたが、その手はモーニングスターを離さなかった。


街の入口が見えてきた。石橋を渡った先に、水の都の塔が朝の光に浮かぶ。


だがその橋のたもとにも、兵の影が立っていた。兜の縁に、朝の一筋の光がかすかに反射する。


「もう来てる……!」


燈子の背に冷たい汗が流れる。


カルディスは剣を抜き、短く言った。


「潜り込む。戦うのは避ける」


「どうやって?」


「雑踏を盾にする。人の目は、逆に隠れ蓑になる」


ガロウは鼻で笑った。


「なるほどな。戦場じゃねぇが……俺たちの得意分野だ」


角笛の音がさらに重なり、街の奥からも応答が返る。


包囲は迫っている。


燈子は息を吸い込み、胸の奥で呟いた。


(強くなれる武器を持て……そうだよね、師匠)


三人は顔を見合わせ、足を速める。


石橋を渡ると同時に、街の鐘が重く鳴り響いた。


その音は、水の都の目覚めを告げるものか。


それとも、彼らを呑み込む罠の合図なのか。


答えは、まだ霧の向こうにあった。

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