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第1話 盗賊の嘲笑、バジリスクの咆哮

神は見ている。

だが、救わない。


与えられるのは、生きる苦しみと、死に至る過程だけ。

それでも足掻く姿こそ、私が観測するに値する。


街道は夜に沈んでいた。

月は薄く、星は砂埃にかき消される。

背広の袖は埃にまみれ、手には安物の弁当袋。


それはもう遠い記憶だ。

光に呑まれ、気づけばこの世界にいた。

どこを見ても知らない空、知らない土。

頼りになるのは、この細い体と、帰れぬ後悔だけ。


彼は歩いていた。

遅すぎる帰路をたどるように。

靴底は土に沈み、呼吸は荒れ、胸には後悔が渦を巻く。


観察者である私は、ただ見届ける。

この男が積み上げてきた日々も、これから訪れる結末も。


やがて。


路地を曲がった先に、黒い影が揺れていた。

五つ、六つ。

鉄の匂いが夜気を割り、縄と刃が月光に鈍く光る。


男は足を止める。

ここから先が、彼の帳簿に新たな行が刻まれる場所だ。


縄が鳴った。

乾いた音と共に、女の手首が荒々しく縛られる。


「やめてください!」

声は張り上げられても、震えが隠せない。


彼女は異質だった。

銀糸のような髪。わずかに尖った耳を布で隠していたが、盗賊の眼は誤魔化せない。

異世界において、エルフは「商品」だった。


「ほら見ろ。耳がいい形だ」

「女の方が高値で売れる。旦那は安物だな」

嗤い声が闇に散る。


.…彼女を守れる者はいなかった。

少なくとも、この場には。


男は息を呑んだ。

ただのサラリーマン。

安月給に喘ぎ、妻と子を養うために耐え続けた。

その足が、気づけば前に出ていた。


「やめろ!」


叫んだ瞬間、刃が閃いた。

盗賊の短刀が彼の腹を浅く裂き、赤が飛び散る。

膝が崩れ、弁当袋が砂に落ち、中身が無惨に散らばる。


「ぐっ……!」

痛みに顔を歪めながらも、手は伸びた。

縛られた女を救おうとするかのように。


だが笑い声は止まらない。


「安い旦那だな。血付きでも売れやしねえ」

「いいや、女の抱き合わせなら多少は買い手がつくだろ」

嘲弄が続く。


彼は呻き、砂を掴んだ。

この手は、本当に何かを守れるのか?


観察者としての私は告げる。

…守れはしない。

人間は、救われない。

だからこそ面白い。


男は震えながら、吐き出した。


「また……俺は何もできないのか」


その声は夜気に溶け、ただ残酷な月だけが聞いていた。


視界が滲む。

痛みのせいか、恐怖のせいか。

男は膝をついたまま、遠い記憶を思い出していた。


…蛍光灯の下。

書類の山に沈む夜。

「もう少しで落ち着くから」と、同じ言葉を何度も繰り返した。

妻の腹には、新しい命があった。

まだ顔も知らない娘に、彼は「葵」と名付けたかった。


帰宅はいつも深夜だった。

台所には空の弁当箱。

寝室には妻の横顔。

その度に、掠れた声で「すまない」と呟いた。

それが彼の現実だった。


…光に呑まれた夜。

気づけば、世界はねじれ、彼は異世界に放り込まれていた。

途方に暮れ、飢えに苦しみ、孤独に押し潰されかけた。

そんな時だった。


彼女に出会ったのは。


森の中で倒れていた彼を助けたのは、一人のエルフだった。

銀の髪を布で覆い隠し、余計な詮索を嫌うように言葉少なだったが、

彼女は焚き火を分け、木の実を差し出してくれた。


「立てるか?」

低い声だった。

彼女の瞳には、冷たさではなく、慎重な優しさがあった。


その日から、彼女は支えだった。

言葉は多くなかったが、食べ物を分け合い、雨を凌ぎ、

わずかな時間を共にすることで孤独が薄らいだ。


彼は気づいていた。

彼女が自分に好意を寄せていることに。


だが答えられなかった。

…地球には妻がいる。

まだ見ぬ子がいる。

「俺には守らなきゃいけないものがあるんだ」


その言葉を口にしたことはない。

けれど彼女の視線から目を逸らすたびに、胸の奥で呟いていた。


……だから、今ここで彼女を奪われるわけにはいかない。


視界が現在に戻る。

縄に縛られた女の叫び。

血で濡れた自分の腹。

砂に落ちた弁当袋が赤に染まる。


刃が砂に突き立ち、月光を跳ね返した。

その刃先が、月光を受けて冷たく光る。


男は震える手でそれを掴んだ。

か細い指先が、鉄の感触に震える。


「……俺が、やるんだ」


彼は立ち上がった。

背広の裾は裂け、血が滴り、足は震えていた。

それでも、その手には確かに刃があった。


砂を蹴り上げ、彼は立った。

その姿に、盗賊たちは一瞬だけ息を呑む。

だがすぐに笑いが広がった。


「見ろよ、安物の旦那が英雄気取りだ」

「刃なんか握ったことねえ手だな」


確かに、その手は震えていた。

剣術の心得もない。

握っているのは落ちていた安物の短刀。


だが、彼は引かなかった。

血を吐き、足を震わせながらも、女の前に立ちはだかる。


「……俺は、逃げない」


声は掠れていたが、確かに響いた。

一瞬、盗賊たちの動きが止まる。


…その時だった。


地の底から這い上がるような咆哮。

空気が震え、砂が舞い上がる。

森の影から、黒い巨体が現れた。


「な、なんだ……あれは」

「バジリスクだ! 逃げろ!」


盗賊たちの顔から血の気が引く。

人を獲物としか見ていない怪物が、月光を反射する鱗を光らせながら迫っていた。


男は刃を握りしめたまま、言葉を失った。

震えは止まらない。

恐怖で足が動かない。


——人間は無力だ。

抗おうとも、世界は容赦しない。

だから面白い。


「走って!」その声が夜に響いた


だが、彼は動けなかった。

頭をよぎるのは妻の笑顔。

まだ見ぬ子の未来。

そして今目の前で縛られているエルフの横顔。


「……俺は、まだ何もできていない……」


声が震え、刃が砂に落ちた。

その瞬間、バジリスクの咆哮が夜空を裂いた。


…そして、彼の帳簿に新たな行が刻まれた。

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