第15話 偽聖女と邪神の夜明け
目覚めの声
まぶたの裏が、まだ赤く灼けていた。
炎に呑まれたはずの感覚が、皮膚の奥でじりじりと残っている。
燈子は浅い呼吸の中で、夢と現の境を漂っていた。
——夢の中で、声があった。
「記すことはできない。だが、共に歩むことはできる」
不思議なほど優しく、けれど苦しげな響きだった。
父の声でも、仲間の声でもない。
けれど確かに、誰かが自分にそう告げていた。
(……夢だよね? でも、なんで……胸が、こんなに温かいんだろう)
瞼が震え、光が差し込んだ。
最初に目に映ったのは、泣き腫らした顔のユアンだった。
「燈子っ! お前……生きて……!」
彼の手が強く握られる。血に濡れた掌が震えていた。
燈子は掠れた声で答えた。
「……ユアン……? ここ……は……」
彼が何かを言おうとした瞬間、広場に響き渡ったのは怒号だった。
「偽りの聖女を討て!」
「邪神の手先を生かしてはならん!」
振り返れば、かつて仲間だったはずの農民兵たちが槍を構え、神父に導かれるように押し寄せていた。
群衆は二つに割れ、歓喜と恐怖が入り混じった叫びが石畳を揺らしている。
ユアンが必死に燈子を抱き寄せる。
「立てるか? ここは危険だ……!」
そのとき、群衆の喧騒を割るように、低い声が背後から響いた。
「……急げ。ここに留まれば呑まれる」
振り返った燈子の目に映ったのは、一人の男。
黒い外套に身を包み、まだぎこちない手つきで剣を握っている。
けれど、その瞳は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「あなたは……?」
問いかけた瞬間、男は短く言った。
「記すことはできない。だが、共に歩むことはできる」
燈子の胸が跳ねた。
(……夢の、声……!)
思わず息を呑む。
目の前の存在が、夢で聞いた言葉の主だと直感で理解してしまった。
「……あなただったんだ……!」
群衆の叫びが再び迫り、炎の残滓が宙を揺らす。
その中で燈子は震える声を絞り出した。
「……お願い……一緒に……」
男は短く頷き、剣を構え直した。
「行こう。まだ終わりではない」
こうして“夢の声の主”と“生き延びた聖女”は、初めて現実で歩みを共にする。
だがその背に、狂気に染まった神父の叫びが迫っていた——。
広場の外へ逃れようとした瞬間、
群衆の中から突き出された槍が石畳に突き立った。
「逃がすな! 偽りの聖女を討て!」
血走った目の農民兵たちが、次々と武器を構えて迫ってくる。
その顔に、燈子は覚えがあった。
つい昨日まで共に戦い、背を預けていた者たち。
泥だらけで笑い合った仲間たち。
「やめて……! わたしです! 一緒に戦った——!」
燈子の声は、彼らの耳に届かない。
「お前はもう聖女じゃない!」
「邪神に魅入られた裏切り者だ!」
目に宿るのは信仰と恐怖に狂った光。
その口は祈りを叫びながらも、手はためらいなく刃を振るってくる。
ユアンが必死に盾を構える。
「やめろ! 昨日まで一緒だったろうが! 燈子は——俺たちの仲間だ!」
だが、返ってきたのは無慈悲な槍の突き。
ユアンの腕に切り傷が走り、鮮血が飛んだ。
「ユアン!」
燈子の悲鳴が広場に響く。
そのとき、背後にいた“元観察者”が一歩前へ出た。
ぎこちない動きで剣を抜き、農民兵の槍を弾き返す。
刃と刃が打ち合わされ、火花が散る。
「……これが、人の戦いか」
彼の手は震えていた。
これまで死を“記す”だけだった存在が、初めて“死から奪う”ために剣を振るった。
燈子は目を見張る。
(この人……剣なんて握ったことないのに……!)
槍を受け止める腕は覚束ない。
それでも彼の眼差しは、真っ直ぐに燈子とユアンを守る位置に立ち続けていた。
狂神父の声が、広場全体を震わせる。
「見よ! 邪神は人の姿をとり、剣を握った!
これこそ神を汚す証! この者こそ災いの根源なり!」
その叫びに呼応して、群衆が一斉に突撃してきた。
怒号と祈りと憎悪が渦を巻く。
ユアンは傷を押さえながらも叫ぶ。
「燈子、走れ! 俺が食い止める!」
燈子は首を振った。
「置いていけない!」
だが“元観察者”は、彼女にだけ低く言った。
「君が彼を守ることは……救いではなく呪いになる」
燈子の胸が揺れる。
(守ることが……呪い……?)
仲間を捨てる痛みと、逃げなければ皆が死ぬ現実。
答えを迫られる選択の時が迫っていた——。
槍が迫る。怒号が迫る。
広場の石畳を蹴り、観察者は剣をぎこちなく振るった。
刃は鈍く、受け止めるだけで精一杯。
だが、それでも燈子とユアンの前に立ち続けた。
「燈子! 走れ!」
ユアンが血に濡れた腕で叫ぶ。
肩口から流れる血は止まらず、足取りも覚束ない。
「だめ、置いてなんか行けない!」
燈子の声は震え、涙が滲む。
「ユアンは……ずっと一緒に戦ってきた仲間だよ!」
観察者は一瞬だけ振り返り、燈子を見た。
その瞳には痛みと、それ以上に冷酷な決意があった。
「君が彼を抱えたままなら……二人とも死ぬ」
剣を弾かれながらも、観察者は低く告げる。
「救うつもりが、呪いになることもある」
燈子の心臓が強く打った。
(救いが……呪いに……?)
仲間を守りたい一心。
だが、それが彼をより危険に晒すことだとしたら——。
ユアンは苦笑を浮かべ、燈子の手を掴んだ。
「……いいんだ。俺のことは村に戻せ。
燈子は……前に進め」
「ユアン……」
燈子の喉が詰まる。
背後では神父の狂った声が響いていた。
「逃がすな! 邪神の聖女を討ち果たせ!」
狂信者たちが迫り、混乱は広がる一方だ。
観察者が短く言った。
「決めろ。君がどうするかだ」
燈子は涙を滲ませながら、強く頷いた。
「……ユアンを村に戻す。生きていてほしいから」
その瞬間、観察者が剣を横薙ぎに振るい、道を切り開いた。
「行け!」
ユアンの肩を支えながら、燈子は必死に走る。
血に濡れた足跡が石畳に点々と残る。
後ろで群衆の怒号が追いすがるが、それでも前へ。
村の外れまで辿り着いたとき、ユアンは地に崩れ落ちた。
燈子は必死に彼を支え、涙ながらに言った。
「必ず、必ず戻ってくるから! だから生きて待ってて!」
ユアンは笑みを見せ、震える声で答えた。
「……お前は……もう俺なんかより……ずっと強いよ」
その手が、燈子の手を離れた。
村の人々が駆け寄り、ユアンを抱えて連れていく。
燈子はその背を見つめ、拳を握りしめた。
(絶対に、また会う。必ず——!)
観察者が背後に立ち、静かに告げる。
「君は一つを捨て、一つを選んだ。それが人の歩みだ」
燈子は涙を拭い、彼に向き直った。
「……行こう。ユアンのためにも、私が進まなきゃ」
観察者は黙って頷き、剣を握り直した。
二人は振り返ることなく、迫る修羅の地を離れて歩き出した。
——その道の先に、まだ知らぬ出会いが待つとも知らずに。