表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
15/24

第14話 禁忌

指先が炎に触れた…。


次の瞬間。


止まっていた世界が軋みを上げて動き出す。

炎は再び舌を伸ばし、群衆の絶叫が一斉に押し寄せてきた。

涙は宙を落ち、血は地に散り、槍を突き立てた兵士の腕が震える。


…だが。


燈子の身体だけは、炎に呑まれなかった。


炎は彼女の輪郭を避けるように裂け、左右に押しのけられていく。

髪も衣も焼かれず、彼女はただ光の中で横たわる。


「……っ」


ユアンが叫ぶ。

群衆も神父も、誰もが目を疑った。

処刑台を覆っていた火が、少女の周囲だけを拒むように揺れていた。


「奇跡……!?」

「聖女様だ!」

「いや……これは……!」


神父の顔色が変わる。

陶酔の輝きが一瞬で恐怖に変わり、口から吐き出されたのは祈りではなく罵声だった。


「邪神の仕業だ! これは神の奇跡ではない!

 この娘は神を偽る者! 堕落した者だ!!」


叫びは群衆を二つに裂いた。

歓声と悲鳴が渦を巻き、広場は混乱に沈む。


…その混乱の中で、燈子の瞼が震えた。

意識はまだ朦朧とし、彼女自身は「処刑された」と思い込んでいた。

けれど、その身体は確かに生きていた。


観察者の声が、胸の奥に響いた。


——記すべき“死”を否定した。

——記録を破り、頁を汚し、わたしは掟を越えた。


筆の代わりに伸ばしたこの手で、少女を炎から奪い取ったのだ。


だが、その代償はすでに背に迫っていた。

冷たい鎖のような上位者たちの声が、空から垂れ落ちる。


「見ているぞ、観察者よ」

「その神力は、もはやお前のものではない」


背骨を裂くような冷気が走る。

観察者の中から光が削ぎ落とされていく感覚。

救った代わりに、確かに奪われていくものがあった。


それでも…わたしは構わなかった。


炎の中で泣き崩れる仲間たちを前に、ただひとつだけ胸に刻む。


「彼女は、生きている」


…記録には残らない。

だが確かにここで、一つの命が救われた。


炎の檻は、音を立てて崩れ落ちた。

木組みは炭と化し、黒煙が立ち昇る。

だが、その中心にいたはずの燈子の姿は、焼け焦げることなく横たわっていた。


ユアンが血だらけの手で必死に駆け寄る。

「燈子……! しっかりしろ……!」


仲間の兵たちも呆然としながら近づく。

死んだと思った仲間が、生きていた。

その事実が理解できず、目を疑い、やがて歓喜の叫びに変わった。


「奇跡だ!」

「本物の聖女様だ!」


群衆の中から歓声が湧き、涙を流しながら祈りを捧げる者までいた。


だが、ただ一人。

壇上の神父だけは、凍りついた顔で燈子を見下ろしていた。


「ち、違う……これは神の御業ではない……!」

その声は震え、やがて狂気を帯びる。

「これは偽りだ! 邪神の手だ! この娘は堕ちた者だ!!」


その叫びは群衆の心を裂いた。

「神の奇跡だ」と叫ぶ者と、「邪神だ」と怯える者がぶつかり合い、広場は混乱の渦に沈む。


ユアンは燈子を抱きしめながら怒鳴った。

「黙れ! お前の祈りなんか信じない! 俺は燈子を見てきた! 誰よりも泥にまみれて戦ってきた……ただの人間だ!」


その叫びは一瞬、群衆を押し黙らせた。

だが次の瞬間、石が投げられる。

歓喜と恐怖、信仰と憎悪が入り混じり、広場はもはや収拾のつかない修羅場と化した。


——その混乱のただ中で。

燈子は静かに意識を手放していた。

炎に呑まれた感覚を最後に、「自分は死んだ」と思い込んだまま。


観察者の声が記す。

——少女、奇跡の中で眠る。

——記録には残らぬ救済。

——帳簿に刻まれるは“禁忌”。


筆を折った代償はすでに始まっていた。

背から光が抜け落ちるように、観察者の力は少しずつ剥がされていく。

それでも視線は、燈子の胸がわずかに上下するのを確かめ続けていた。


…生きている。

それだけでいい。


観察者の声が記す。


——筆を折った代償は逃れられぬ。

——記録を捨てた瞬間、わたしの神力は剥ぎ取られる。


背骨を伝って、冷たい鎖のようなものが絡みつく。

視界の端で光が砕け、羽根のように散っていく。

それはかつて記録者として授けられた力の欠片。

歴史を記すための権能が、ひとつ、またひとつと剥ぎ落とされていった。


遠くで、上位者たちの声が笑う。


「やはり堕ちたな、観察者よ」

「その神力は、我らが糧とする」

「掟を破った瞬間、お前はただの堕落者だ」


声は冷たく、刃のように鋭い。

けれど、もう恐れることはなかった。

燈子が胸を上下させている。

その事実だけが、失われゆく力の痛みを凌駕していた。


「……それでいい」

わたしは呟く。

「彼女が生きているなら、それで」


光は完全に剥がれ落ち、闇に吸い込まれていった。

わたしは観察者であって観察者ではない、ただの存在へと堕ちていった。


広場では混乱が続いていた。

燈子を抱きかかえたユアンが必死に人波を押し返す。

「退け! 今は彼女を休ませろ!」


群衆の半分は「奇跡だ!」と泣き叫び、もう半分は「邪神だ!」と怯え石を投げる。

混乱を断ち切ったのは、壇上の神父の絶叫だった。


「聞け、愚かな民よ!」

黒衣を翻し、痩せた顔を歪めて指を突きつける。

「この娘を救ったのは神ではない! 我らの知らぬ“邪神”だ!

 この奇跡は偽り、腐敗した力の証! 信じる者は魂をも汚される!」


その叫びは熱狂の火に油を注いだ。

「邪神だ!」と怯える声が増え、恐怖に駆られた者たちが次々と後退する。

「聖女だ!」と叫ぶ声も消えず、広場は二つに割れたまま怒号と祈りが飛び交った。


神父の瞳には、かつての敬虔な光はなかった。

そこに宿っているのは、狂気と憎悪。

彼は確かに見たのだ。

観察者が禁じ手を使った、その瞬間を。


「邪神よ! 貴様を必ず暴き、焼き尽くす!

 その器となった娘もろともにな!!」


その誓いは、後に新たな宗派と戦乱を生む火種となる。


燈子はまだ意識を失ったまま。

「自分は死んだ」と思い込んだ彼女は、夢の底で安らかに眠っていた。


ユアンはその身体を抱きしめ、決して離すまいと誓う。

「俺が守る……たとえ、世界が敵になっても」


観察者はそれを見届けながら、静かに声を落とした。


——記すことは、もうできない。

——だが、共に歩むことはできる。


そして頁の端には、新たな言葉が刻まれていた。


“禁忌”


それが、新たな物語の始まりを告げていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ