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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
14/24

第13話 筆を折る者

なぜ、わたしは…。記すことをやめてしまったのか

なぜ、わたしはこんなことをしてしまったのだろうか。


記録者に課せられた唯一の掟は、ただ一つ。

「介入するな」。

観測し、記録し、残すのみ。

そのためにわたしは生まれ、そのために存在してきた……はずだった。


処刑台の上で炎に包まれる少女を前に、わたしは筆を止めてしまった。

記録するべき「死」の文字を、どうしても帳簿に刻むことができなかった。


…帳簿に記すべき“殉教”。

それは定められた結末。この場においては唯一の答え。


過去、どれほどの死をわたしは記してきただろう。

戦場で散った兵士たち。飢えに倒れた農民、野望に敗れた王。

彼らの死を前にして、わたしは一度たりとも迷ったことはなかった。


インクを落とし、文字に変える。

それだけ。呼吸と同じ、揺らぎのない行為。


だが今、筆は震え、頁は白紙のままわたしを睨み返している。

「書け」と迫るはずの帳簿が、なぜか拒むように見えた。


「なぜだ……なぜ、手が動かない……」


わたしは自らの存在理由を疑い始めていた。


——記録者は感情を持たぬはずだ。

——記録者は誰の味方にもならぬはずだ。

——記録者はただの器、ただの筆先。


その理を何度も繰り返し、己に叩き込んできた。

感情など不要。

哀れみも憐憫も、記録には邪魔だ。

それを排した者だけが記録者となれるのだと、信じていた。


けれど。


泥にまみれ、血を流しながらも立ち上がった少女の姿が、目に焼きついている。

剣を握り、恐怖に震えながらも前に出たあの一歩が、心に棘のように刺さって抜けない。

仲間と笑い、仲間の死に涙し、それでも歩みを止めなかった彼女を、どうしても「死」として処理できなかった。


わたしは知っている。

彼女は選ばれし存在ではない。

奇跡でも、神の子でもない。

ただの少女。

ただ必死に、泥の中で生きようともがいてきた一人の人間だ。


それを記録するのは簡単だ。

「ここに果てた」と記せば終わる。

記録は冷たく、無情で、永遠に残る。


…なのに。


筆先が宙で震え続ける。

「死」と書こうとするたびに、インクが滲み、形を結ばない。

文字にならぬ黒い染みが頁を汚し、わたしを責め立てる。


わたしは、記録者失格だ。

神から与えられた役割を果たせない、落伍者だ。

存在そのものが、無意味だ。


それでも書けなかった。  

それでも記せなかった。  

それでも…彼女を死なせることが、どうしても耐えられなかった。  


なぜなら。


「彼女を死なせることが、どうしても耐えられなかったからだ」


…わたしはもう、記録者ではない。

…記録者ではなく、ただの一個の存在に堕ちたのだ。


掟を破った。

己を裏切った。

神を裏切った。


わたしの中にあった「観察者」という像が、音を立てて崩れていく。


「記すだけの存在が、記すことをやめてしまった」


それは、存在の死に他ならない。


わたしは自らを呪い、否定しながらも、なお筆を握っていた。

震える手を見下ろし、理解する。


この行為は、戻れぬ一歩だ。


…それでも、もう止まれない。


わたしの指は、まだ筆を握っていた。

黒い羽根の先からは、もはや言葉ではないインクが滲み落ち、頁を黒く汚している。


記すべきは“死”。

——それを記録するだけで良い。

それだけがわたしの役割であり、存在理由だった。


だが筆は拒んでいる。

掠れた先端は「死」という文字を刻むことを許さず、ただ黒い斑点を増やしていく。


白紙の頁はじっとわたしを見返していた。

「書け」と迫るのではなく、「お前にはもう資格がない」と冷たく告げるように。


胸の奥が焼ける。

自らの役目を果たせない痛みと、果たしたくないという矛盾の狭間で、心が裂けそうになる。


「……あぁ……」


呻き声が漏れる。

己を呪う声か、それともまだ抗う声か。

それすらも分からなかった。


だが、次の瞬間。


わたしは——筆を折った。


乾いた音がした。  その瞬間、世界の呼吸が止まった。  わたしの耳には、自分の鼓動だけが響いていた。  

それは静かな世界に、あまりに大きく響いた。


羽根は二つに裂け、黒いインクが溢れ出す。

瓶からこぼれるのではない。

わたしの内側から、血のように滲み出ていた。


インクは頁に広がり、記録の文字を呑み込み、やがて真っ黒な沼と化した。

そこに記された歴史も、運命も、すべて溶けて沈んでいく。


「これで……私は、記録者ではなくなった」


声は掠れ、震えていた。

けれど確かに宣言だった。

禁じられた一線を超え、掟を踏み破った存在としての告白だった。


筆を折った瞬間、背後で無数のささやきがした。

——裏切り者。

——堕落者。

——神の名を汚すもの。


聞き慣れた“上位者”たちの声。

それがどれほど冷たく響こうと、もう恐怖はなかった。


わたしは選んでしまったのだ。

帳簿の命令ではなく、己の感情を。

「少女を死なせたくない」という、ただそれだけの衝動を。


その衝動が、筆を折らせた。


そして、折れた筆の代わりに残ったのは——わたし自身の手だった。

記録するためではなく、救うために伸ばす手。

初めて「誰かのため」に震えた、裸の手だった。


「世界が、ページの上の挿絵になったように止まった」


最初は、そう告げられることもなく、ただひとつの違和感が胸を満たした。

火の揺らぎが、瞬間を切り取るようにぴたりと止まる。木組みは黒く光るまま、炎が舌を伸ばす途中で固まっていた。熱さはあるはずなのに、それは指先に届かず、記憶だけが震える。


群衆の叫び声が、空気の中で凍りついている。唇の開き方、目の飛び出し方、ある者の手の形——すべてが彫刻のようにその場に縫い付けられていた。唾液の粒が唇の端に釣り上がり、そこに小さな水晶のように光っている。煙が空中で渦を描き、そこにひとつの黒い虫が静止しているようだった。


燈子は、火のなかで立っていた。

炎が彼女の周りを囲む動きは止まり、髪の毛が炎に掴まれているかのように固まっていた。目は閉じられ、まつげの先に火の光が宿っていた。彼女は意識の底で「終わった」と理解しているのか、それとも何も知らずに眠るだけなのか——わたしにはわからない。だが、彼女の頬を伝う涙は、空中に小さな宝石の列を描いて止まっている。


ユアンは、その場に沈んだままだ。口元には怒号の形が刻まれ、指先にはまだ燈子を掴もうとする痕跡が残っている。農民兵の亡骸が、血のしぶきを空中に張り付け、そこには波紋さえ生じていない。神父の顔は陶酔と狂気が混じり合った表情のまま、祈りの姿勢を固めている。群衆の顔立ちは、熱狂も恐怖も滑り落ちて、ただ「瞬間」を保持している。


時間が止まってしまった世界は、美しくも不気味だ。

空気さえも、音さえも、色彩すらもが一度フリーズされ、真鍮の箱の中で保存された標本のようだ。だがその美しさの奥に、わたしは刺すような孤独を感じる。動けるのはわたしだけ——その事実が、胸を締めつける。


ページの上のインクと同様に、この世界もまた滲んで見える。色が濃く、輪郭が際立ち、しかしそれらはもはや「生きた出来事」ではない。記録対象が止まってしまえば、わたしの職能は無力だ。記すことができない。書き残すべき言葉が空白になり、帳簿の行間は風に撫でられた葉のように揺れるだけだ。


それでもわたしは歩いた。石畳を踏む足音は、時間の静止した世界には届かない。だが自分の鼓動は、やけに大きく腹の底で鳴る。目の前の光景を確認しながらも、わたしの指は震えていた。壊した筆の切り口から滲んだインクのように、胸の奥の決意が広がっていく。あれを——消えゆくはずのものを——奪われてたまるかと。


静止した炎に近づくと、熱の輪郭が見える。息を吐いても湯気は立たない。触れればどうなるのか。指先をほんの少し伸ばすと、炎の端は触れた瞬間に微かに翳り、まるで返答するように淡い光を放った。生と死の境界がそこにある。触れたら何が起きるのか、理性は無数の警鐘を鳴らす。けれど、理性はもう紙切れのように薄い。わたしが筆を折ったとき、その薄さは明らかになった。


どこか遠くで、上位者たちの囁きが届いた。声は石でできた細い管を伝うように冷たく、しかし確かに聞こえる。

「やはり、お前は…」

その中のひとつが、嘲るように続けた。 「禁じ手だぞ、観察者よ」


声は耳を刺すが、わたしは振り向かなかった。振り向けば、自分が何をしたのか、どれほどの代償が払われるのかを突き付けられる。今はまだ、見たくない。見たくないから動く。見たくないから、救う。


燈子の周りの静止した空気をかきわけ、わたしは彼女の輪郭を覆う炎に手を伸ばす。指先の皮膚が焦げる想像が脳裏を過るが、それは想像だけで終わる。炎は既に世界の一部として固まっている。だが、そこに触れれば——時間は再び動き出すかもしれない。あるいは、わたし自身の身を焦がすだろう。


「なぜ、わたしは……」

自問が、静寂の中でやけに大きく響いた。答えは単純だ。恐怖でも義務でもない。わたしは、ただあの声を聞くたびに胸が裂けるのだ。誰かの生命が帳簿の文字になるのを、もう黙って見ていられない。


ページに広がった黒い沼のように、わたしの決意は濃く深くなる。指先がわずかに炎を撫でるように沈み、世界の時間の糸を掴もうとする。そこで、背後の囁きが鋭くなった。上位者の一人が──ほとんど息を吐くように…言った。


「覚悟はいいか、記録者よ。お前が動いたことを、我らは見ている。」


その言葉は刃のように冷たい。だがもう、遅い。わたしはすでに手を伸ばしていた。筆を折ったあの日から、戻る道は閉ざされている。指先が炎に触れるか触れないかの瞬間、世界の境界が薄く光る。


そしてわたしは、禁じ手に…手を伸ばす。


禁じ手に手を伸ばす


炎の中で、少女はなお祈るように立っていた。

頬を伝う涙は宙に固定され、熱の揺らぎも動かない。

すべてが美しいままに止まり、冷たい標本のように晒されている。


わたしはその中心へ歩み寄る。

石畳に靴音を刻んでも、誰ひとり振り返らない。

世界は凍り、わたしだけが動いていた。


折れた筆の代わりに残った、自分の手。

記すための手ではない。救うために震える手。

その指先が、止まった炎に近づいていく。


「……これで、すべてが終わるかもしれない」


声は掠れていた。

だが止めることはできなかった。


頁の上で滲んだインクは、いまや広がりきって帳簿を真っ黒に染めている。

記録者としての歴史はもう戻らない。

わたしはただ、己の意志で世界に干渉しようとしていた。


——その瞬間、背後で嘲笑が響く。


「やはり破ったな、観察者よ」

「掟を超えた時、お前は堕ちる」

「その神力、我らが奪い取ろう」


上位者たちの声は冷たい鉄の鎖のように絡みつき、背骨を軋ませた。

だが恐怖は、炎の前で揺れる少女の影に比べれば取るに足らない。


わたしは…伸ばす。


指先が、静止した炎に触れた。

一瞬、世界が赤く閃き、時間の糸が軋む音がした。


「なぜ、わたしは……」


最後の問いが、凍った広場に落ちた。


そして…

物語はまだ、動き出していない。

わたしの手が“禁じ手”に触れる、その瞬間を待ちながら。


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