第11話 祭り上げられる聖女
観察者の声が記す。
——少女、朝に剣を取り、夜に泥をかぶる。
——武器は重く、狙う敵は粘液の塊。
——帳簿に残るは“挫折”。
彼女はかつて、地球の教室で夢を見ていた。
退屈な歴史の授業、机に突っ伏して居眠りしながらも耳に残った名…ジャンヌ・ダルク。
「神に選ばれ、戦場を駆けた少女」。
詳しい結末までは知らない。けれど、その響きだけが燈子の胸に焼きついていた。
(わたしも、あんな風に強くなれる……!)
森のはずれ。
燈子は鎖の先に鉄球のついた武器を、全力で振り回していた。
重くて腕がしびれるたびに、彼女は心の中でその名を唱える。
「はあっ……はぁっ……もう一発!」
振り下ろしたモーニングスターは泥を跳ね散らすばかりで、スライムはぴょんと避ける。
反動で彼女はよろめき、そのまま泥に転がった。
「いっ……たぁ〜……」
顔に粘液が張り付き、視界が曇る。
それでも燈子は歯を食いしばり、再び立ち上がった。
(もっと……強くならなきゃ……!)
だが鉄球は重すぎ、腕は震えるばかりだった。
「……燈子!」
駆け寄ってきたのは、素朴な農民兵のユアン。
粗末な鎧に身を包み、木剣を腰に差した彼は、燈子の無茶を何度も止めてきた存在だ。
「まだやってんのかよ。昨日も泥だらけになってただろ」
「だって……諦めたら、本当に何も残らないから!」
燈子の頬は泥で汚れていたが、瞳だけは真っ直ぐに光っていた。
ユアンの眼差しに、一瞬…地球にいた頃の幼馴染の顔を重ねてしまう。
(……似てる。ユアンって、あの子に……)
ユアンは苦笑し、手を差し伸べた。
「まったく……。けど、俺は信じてるからな」
燈子はその手を握り、泥の上から立ち上がった。
草むらから別のスライムが飛びかかる。
燈子が慌ててモーニングスターを振り回すが、鉄球は空を切り、彼女は再び転ぶ。
「ぜ、全然倒せない……!」
その瞬間、低く枯れた声が響いた。
「下手くそだな」
振り返ると、旅の途中らしい老剣士が立っていた。
背は曲がり、髭は白い。だが腰の剣にはただならぬ風格がある。
燈子が立ち上がるより早く、剣士は歩み出て一閃。
光のような速さでスライムは斬り裂かれ、霧散した。
「……え?」
燈子は呆然と立ち尽くす。
たった一振り。モーニングスターでは到底届かない世界がそこにあった。
老剣士は剣を納めると、燈子を一瞥した。
「お前、その鉄球は似合ってねぇ」
「で、でも強そうだから……!」
「強そうじゃなくて、強くなれるもんを持て」
腰の脇に差していた使い古しの剣を抜き、差し出す。
鍔は欠け、刃には小さな傷。どう見ても安物だった。
だが燈子の瞳は輝いた。
「これって……もしかして……伝説の聖剣!?」
「は? ただの店売りだ」
「い、いえ! 絶対にすごい剣です!」
老剣士が何か言う前に、燈子は剣を握りしめた。
重さはモーニングスターより軽く、手にすっと馴染んだ。
「……あっ」
駆けてきたスライムに一閃。
鋼の軌跡が、確かに敵を裂いた。
泥が跳ね、光の粒が弾ける。
「や、やったぁ!」
燈子は飛び跳ね、剣を掲げた。
老剣士は鼻を鳴らす。
「……剣の方が合ってただけだ」
「ありがとうございます! わたし、これで戦える! 聖女みたいに!」
「聖女じゃなくて剣士だろ」
「え、でもジャンヌ・ダルクみたいに……!」
「好きにしろ」
老剣士は去っていった。
観察者の声が記す。
——少女、偶然の導きを“奇跡”と信じた。
——だが勘違いは力となり、刃を走らせる。
——帳簿に残るは“開花”。
その筆跡は、今度こそ大きく滲んだ。
“勘違い”と“真実”の境目に、揺れる光を宿していた。
観察者の声が記す。
——少女、初めて刃を振るい、恐怖を退ける。
——その記録、帳簿に“勝利”と刻む。
夜の村。
痩せた家畜を狙い、獣の群れが押し寄せていた。
松明の灯りに照らされた眼はぎらつき、唸り声が闇を満たす。
「わ、わたしたちじゃ勝てない!」
「もう終わりだ……!」
村人たちは武器を握るも震えるばかり。
その前に、剣を構えた燈子が進み出た。
「大丈夫! わたしが戦う!」
胸は高鳴り、足は震えていた。
けれど、手にした剣は不思議と重さを感じさせなかった。
まるで体の一部のように馴染んでいた。
「はあああっ!」
剣閃が走る。
獣の首筋が裂け、泥に倒れる。
火花のように光が散り、静寂が一瞬だけ訪れた。
「……本当にやった……」
「聖女様だ……!」
歓声が弾け、村人の目は彼女を讃えていた。
燈子は息を弾ませ、剣を握り直す。
(わたし……戦えるんだ!)
それからの燈子は止まらなかった。
盗賊を追い払い、町を襲う魔物を退け、泣く子を守った。
どこへ行っても剣を抜き、必死に立ち向かった。
「剣聖だ!」
「いや、聖女だ!」
次第にその名は広まり、民の祈りとともに彼女へ注がれていった。
ユアンはその隣で笑っていた。
「燈子……やっと、みんなが認めてくれたんだ!」
「うん……でも、わたしなんて……」
燈子の声はか細かったが、瞳は揺れていた。
(本当に……聖女なの、わたし……?)
その時だった。
群衆をかき分け、一人の神父が姿を現した。
黒衣を翻し、痩せた顔に熱に浮かされたような光を宿す。
両手を天に掲げ、陶酔に震える声を放った。
「おぉ、神よ! 見たまえ!
この娘こそ、あなたが遣わされた救世主!
剣に宿るは聖なる光! われらを導く聖女なり!」
群衆は一斉に息を呑み、やがて地に膝をついた。
額を土に擦りつけ、祈りの声が広がる。
「聖女様……!」
「神に選ばれし御方!」
燈子は剣を胸に抱き、戸惑いに揺れた。
(わ、わたしが……救世主……?)
だが神父の声はさらに高まり、狂信に染まる。声は祈りではなく絶叫のようだった。
「神は試みたもう! この者こそ審判なり!」
祈りの熱狂に飲み込まれ、燈子はついに剣を掲げた。
「……わたしは、戦います! みんなを守るために!」
群衆の歓声が夜空を震わせた。
観察者の声が記す。
——少女、偶像となる。
——勘違いは信仰に変わり、祈りが枷となる。
——帳簿に残るは“祭り上げ”。
だが筆跡は滲んだ。
——その枷は、まだ光か、それとも闇か。
群衆に囲まれた燈子を、ユアンはただ見つめていた。
「燈子……俺は信じてる。お前は本物の聖女になる」
その言葉に胸を熱くし、燈子は一歩を踏み出した。
未来に待つ処刑台をまだ知らずに。