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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
11/20

第10話 火を探す旅立ち

夕暮れの水の都。

川面は赤く染まり、石橋の影が長く伸びていた。

市場の喧噪も薄れ、屋台の布が降ろされる頃。

裏路地の薄暗がりに、酒場帰りのガロウの足音が響いていた。


そのとき、低い呻き声が耳を打った。


「……ぁ……」


路地の隅。

汚れた布をまとった男が、崩れるように座り込んでいた。

片脚の膝から先がなく、泥に濡れた断面を布で巻きつけている。


ガロウの目が見開かれる。

その顔に、見覚えがあった。


(……あの時の……)


酒場で「赤腕は終わった」と嘲笑っていた若い傭兵。

今はその口が、酒と血でただ呻きを漏らしていた。


「……おい」

思わず声をかける。


男は濁った目でこちらを見て、かすれた声で笑った。

「……誰かと思や……“赤腕”か……」


その笑いはすぐ咳に変わり、酒壺を泥に落とした。

中身がじわりと染み出していく。


「どうした」

ガロウは膝を折って問いかける。


男は首を振った。

「どうしたもこうしたも……このザマよ」


声が震える。

「金はあった。稼いだ分も、笑いながら飲み潰した分もな。

 だが脚は戻らねぇ。名も戻らねぇ。

 ……金があっても、俺はもう戦えねぇんだ」


ガロウの胸が、ずしりと重くなった。


(……俺を笑ってた、お前ですら……)


声は出なかった。

ただ、その呻きはまっすぐ胸に突き刺さった。


「……金でも、酒でも癒せねぇ痛みがある」

男は吐き捨てるように言い、力なく壁に背を預けた。

「お前も……いずれはそうなる」


ガロウは答えず、ただ背を向けて歩き出した。

足取りは重く、胸の奥で何かが揺れていた。


橋の欄干に腰を下ろす。

夜風が靄を流し、川面に灯火の光が揺れていた。

ガロウは右腕を抱え、左手の指先を見つめる。


「火よ……」


ぱちり。

小さな火花が弾けた。

一瞬だけ光って、すぐに消える。


もう一度。

「火よ!」

ぱちり。

だが結果は同じ。小さな火花。


「……これが俺の“赤腕”か」


乾いた笑いが漏れた。

かつて敵をなぎ倒した右腕は、今や痛みに震えるだけ。

左手に宿るのは、せいぜい子供を笑わせる火花。


けれど、その火花はまだ消えてはいなかった。


観察者の声が帳簿に記す。

——男、剣を失い。

——魔を学ぶも、火花のごとき。

——帳簿に残るは“空虚”。


だが筆跡はまた滲み、文字が揺らいだ。

黒の隙間に、赤い点が灯る。


「……これは……?」

観察者の声が震える。

空虚の中に、確かに熱がある。

記すべきか、否か。

その迷いが、文字を歪ませていった。


その帰り道。

市場裏の路地で、怒号が響いた。


「このガキめ! 盗みやがったな!」


子供がパンを抱えて駆けてくる。

後ろから衛兵が二人、剣を抜いて追っていた。


「ちくしょう、捕まえろ!」


子供は逃げ場を失い、ガロウの胸にぶつかった。

怯えた瞳がこちらを見上げる。


咄嗟に、ガロウは子供を庇った。

右腕は動かない。

それでも、左手の指先に火を散らす。


ぱちり。


夜の路地に火花が弾け、衛兵たちが思わず足を止めた。


「……どけ、ガロウ」

「そいつは罪人だ!」


ガロウは黙って立ちはだかった。

火花は儚くも、確かに威嚇となり、子供は背を向けて走り去った。


衛兵たちは舌打ちして去っていく。

残されたガロウは、自分の指先を見つめた。


「……俺にも、まだ……何かできるかもしれねぇ」


翌朝の路地裏は、夜露に濡れて冷たかった。

軒下にうずくまる乞食たちが咳をし、パン屑を奪い合う声が響く。

その中を、ガロウは無言で歩いた。

片腕を庇いながら、靄に包まれた街を抜けていく。


(……なら、探すしかねぇ)


低い声が靄に溶けた。


「怪我を治す方法でもいい。

 魔法と……何かを組み合わせて戦う方法でもいい。

 新しい答えを、俺は探す」


水の都の外れ、街道口。

背に小さな荷袋を背負い、片腕で杖を突きながら、ガロウは一歩を踏み出す。

行き先は決まっていない。

ただ、酒場ではなく、新しい答えを探すための道へ。


観察者の声が帳簿に記す。

——男、失墜を突きつけられる。

——それでもなお、“火”を探しに旅立つ。

——帳簿に刻まれるは「失墜」と「探求」。


だが筆跡はまた滲み、互いに干渉し、文字が揺らぐ。


観察者の声が震えた。

「……これは、救済か……それとも堕落か……」


行間に赤い火点が灯る。

それは記録不能の曖昧さ。

だが確かに生きようとする意志の輝きでもあった。


街を離れたガロウは、立ち止まり振り返る。

霞む水の都の塔が、朝陽に赤く染まっていた。


右腕を抱え、左手に小さな火花を散らす。

ぱちり。

儚いが、確かにそこにある光。


「俺は……まだ終わっちゃいねぇ」


低い声を残し、赤腕のガロウは靄の街道を歩き出した。

その背は、かすかな赤い炎を纏っているように見えた。

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