表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
10/22

第9話 赤腕の失墜

風が止んだ戦場跡は、まだ血と鉄の匂いを残していた。

折れた槍が転がり、黒く乾いた泥に剣の欠片が突き刺さっている。

ここで幾度もの死闘が繰り広げられたことは、沈黙の大地そのものが物語っていた。


「なぁ、聞いたか? 昔の“赤腕”の話」

「おうよ。右腕ひと振りで兵をなぎ倒した化け物傭兵だろ」

「今じゃ……ただの酔いどれだ」


かつての戦友でもない、若い傭兵崩れたちが焚き火の周りでそう囁く。

焚き火の火花が空に弾けるたび、その噂は風に舞って広がっていく。


安酒場の奥。

粗末な木椅子にどっかと腰を落とし、片腕をだらりと垂らした男がひとり。

髭は伸び、髪は乱れ、背中は丸まっている。

それでも一度顔を上げれば、そこに残る鋭さは消えきってはいなかった。


…赤腕のガロウ。


若い頃、戦場で無数の敵を屠り、右腕に巻いた赤布は血の色に染まり続けた。

その一撃は「赤い閃光」と恐れられ、彼の異名は畏怖そのものだった。


だが今、酒杯を持つ手は左。

利き腕である右は、包帯の下で硬直し、かすかに痙攣している。

剣を振るどころか、椅子から立ち上がるだけで痛みが走った。


「……ちくしょう」


ガロウは安酒を一息に煽り、喉を焼く苦味に顔をしかめた。

だがその目は、まだ捨てきれない炎を宿していた。


(俺は、まだ……)


——その思いだけを頼りに、落ちぶれた傭兵は椅子にしがみついていた。


観察者の声が、静かに記録を刻む。

——かつて名を馳せた男。

——今や椅子に沈む残骸。

——帳簿に残るのは“失墜”。


だがその筆先は、わずかに留まった。

男の瞳の奥で、消えきれない火が揺れていることを見逃さなかったからだ。


安酒場の空気は、いつも湿っていた。

安い麦酒の臭気と、汗にまみれた傭兵どもの声が混ざり合い、昼から夜まで酔いと騒ぎが途切れることはない。


その片隅で、ガロウは左手で酒杯を握り、ただ黙って飲んでいた。

右腕は机の上にだらりと置かれたまま。

握り締めることすらままならず、包帯が乾いた音を立てていた。


「おい、見ろよ」

甲高い笑い声が耳に飛び込んできた。若い傭兵三人組がこちらを見て、ニヤニヤしている。


「ありゃ“赤腕”さんじゃねえか?」

「右腕が動かねえ赤腕だってよ。今じゃ赤っ恥だな!」

「ははっ! 名は売れても、腕は売り切れかよ!」


周囲が笑いに包まれる。

ガロウは杯をゆっくり置き、視線だけを彼らに向けた。


「……何か言ったか」

低い声には、かつて戦場を震わせた迫力がかすかに残っていた。

だが若い傭兵たちは怯まない。むしろ、その声すらも面白がっていた。


「なんだ、怖ぇ顔して。剣でも抜いてみろよ?」

「できねえんだろ、その腕じゃ!」


ガロウは歯を食いしばり、机の横に立てかけてあった剣に手を伸ばした。

だが右腕が震え、鞘に指をかけただけで、痺れるような痛みが走った。

力が抜け、剣は床にかしゃりと落ちる。


「……ッ」

左手で拾おうとするが、すでに遅い。

笑い声が酒場いっぱいに広がった。


「見たか!? 自慢の赤腕が剣も持てねえぞ!」

「はははっ! これからは“酔いどれのガロウ”だな!」


ガロウの胸の奥が焼けるように熱くなった。

だが怒号も拳も出ない。

ただ、左手で掴んだ酒杯を壁に叩きつけるしかなかった。

砕けた破片が散り、酒が床に飛び散る。


酒場は一瞬だけ静まった。

だが次の瞬間、若い傭兵たちは肩を震わせて笑い始めた。


「見ろ見ろ! 子供の癇癪だ!」

「もう終わりだな、“赤腕”」


ガロウは椅子に腰を戻し、荒い息を吐いた。

右腕は鉛のように重く、左手は震えていた。

胸の奥で、かつての歓声が遠い幻のように響いている。


——喝采も、恐怖も、もう戻らない。

あるのは笑いと軽蔑だけだ。


観察者の声が冷たく記す。

——名声、地に落ちる。

——男、剣を持てず。

——帳簿に刻まれるは“失墜”。


けれど、その筆は再び、ほんのわずかに止まった。

酒に沈みながらも、男の瞳の奥にはまだ、消えきらぬ赤い火が残っていたからだ。


夜の路地裏。

酔い潰れた若者たちの笑い声を背に、ガロウは静かに歩いていた。

右腕をかばいながら、左手に持った松明だけが、彼の道を照らす。


(……剣じゃ、もう食っていけねぇ。だが、戦わなきゃ生き残れねぇ)


かつては仲間を守る盾であり、前線を切り開く剣だった。

だが腕を折った今、誰も彼を雇おうとはしない。

酒場の壁に貼られた「傭兵募集」の札には、いつも条件が書かれている。

“健全な腕力”…それだけで門前払いだった。


だから、彼は縋った。

新しい力に。


安宿の一室。

机の上に積まれた古びた魔術書。

かつて宮廷から流れた下級の教本で、安く買い叩かれたものだ。


「……火よ」


左手を掲げ、呟く。

ぱちり。指先に、小さな火花が弾ける。

それだけだった。


「……ちっ」


本には炎の矢を放つ呪文が記されている。

だが彼にできるのは、火種を散らす程度。

力を込めれば込めるほど、指先は熱を帯びて焦げ、煙が立つ。


それでも、ガロウはやめなかった。

剣を振れない以上、これしか道はないからだ。


翌日。

路地裏で、子供たちに囲まれた。

ガロウが指先で火花を散らすと、子供たちは一斉に笑った。


「わー! 花火だ!」

「もっとやって! 赤腕のおじさん!」


赤腕…それはかつて畏怖と尊敬を集めた名。

今は、ただの見世物の呼び名に成り下がっていた。


子供たちが去ったあと、ガロウは壁に背を預け、空を仰いだ。

夜明け前の空は、まだ黒く、星がまばらに瞬いていた。


「……これが、俺の“赤腕”かよ」


左手の火花はすぐに消え、煙だけが虚しく漂った。


観察者の声が記す。

——男、剣を失い。

——魔を学ぶも、花火のごとき。

——帳簿に残るのは“空虚”。


だがその筆先はまたもや止まった。

火花は儚くとも、その目はまだ消えてはいなかったからだ。

まるで燃え残りの炭が、風を待っているかのように。


夜は深まり、酒場も路地裏も静けさに沈んでいた。

水の都を包む靄は月明かりを遮り、川面だけが鈍く光っている。


ガロウは橋の欄干に腰を下ろし、手の中で小石を転がしていた。

右腕は動かない。左手の火花は笑われる。

誇り高き「赤腕」は、もはやどこにもなかった。


だが、それでも…

彼はまだ、ここで座り込んでいる。


「……俺は、まだ終わっちゃいねぇ」


かすれた声が夜に溶ける。

自分でも信じきれない。

だが、そう言葉にしておかねば、本当に終わってしまう気がした。


上空から、その姿を観察者が見下ろしていた。

——男、名を失い。

——剣を失い。

——火もまた、小さな火花。

——帳簿に残るは“失墜”。


筆先が走る。

だが次の瞬間、紙の上に黒が滲み、行が揺れた。


「……これは」


観察者の声がかすかに震える。

帳簿の余白に、赤い点が灯っていた。

それは火種。まだ燃え尽きてはいない意思の残滓。


——失墜の記録に、火は不要。

——だが、消えない炎を無視することもできない。


観察者は筆を止めた。

帳簿の上に記すことをためらったのは、初めてのことだった。


橋の上、ガロウは空を仰いでいた。

星は靄に隠れて見えない。

だが胸の奥に、わずかな熱がまだ残っていた。


「俺は……まだ……」


その声は誰にも届かない。

けれど観察者の帳簿には、確かに赤い火点となって刻まれていた。


——赤腕のガロウ。

——折れてもなお、火は残る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ