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私の夫は昔愛した彼女を選んだ。さようなら旦那様、私は孤独に耐えられませんので家を出ます  作者: 吉乃


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66. 誓い

  夜明けの光が、リューンハイム侯爵家の庭園に柔らかく差し込んでいた。

 式典の喧噪が去った翌朝、庭の片隅に立つ石碑の前に、一人の青年の姿があった。


 エドワードは正装のまま膝を折り、静かに祈りを捧げていた。

 石碑には「アレクシス・フォン・リューンハイム」の名――父の眠る場所である。


「父上……」

 青年の声は低く震えていた。

「あなたが過ちを犯したことは、僕も聞いています。あの頃はまだ幼くて記憶は曖昧ですが……最後に僕と母上を守ってくださった、その姿だけは今でも鮮明に覚えています」


 言葉を絞り出すように続ける。

「あの時、僕に残してくれた言葉……一度も忘れたことはありません。あれで僕は、あなたが僕たちを見捨てていなかったのだと知りました。だからこそ、あの最期を無駄にしません。あなたが守ってくれた命を、生き抜いていきます。そしてこの家を、民を、母上を――必ず守ります」


 その声は澄み渡る朝の空気に溶け込み、庭の若木がさざめいた。


 その背に、静かな足音が近づく。

「……エドワード」

 振り返ると、そこにレオンが立っていた。兄アレクシスの面影を宿す眼差しで、青年を見つめている。


「叔父上……」

 レオンは歩み寄り、エドワードの肩に手を置いた。

「よいか、エドワード。兄上は迷い、苦しみ、過ちも犯した。だが最後には己を捨てて、お前とルシアを守った。それが真実だ」

 声は静かでありながら、確かな重みを帯びていた。

「その勇気と血は、お前に受け継がれている。だから誇りを持って進め。決して一人ではない」


 エドワードは力強く頷いた。胸の奥に温もりが広がり、肩を抱かれるまま、共にアレクシスの名を刻んだ石碑を見つめる。


 その時、庭の小径からルシアが現れた。

 薄い外套に春風が揺れ、淡い光をまとう姿はどこか神秘的ですらあった。

「……二人とも、ここにいたのね」


「母上……」

 エドワードは立ち上がり、母の手を取った。

 ルシアはその手を優しく握り返し、石碑に視線を向ける。

「アレクシス……あなたの子は、ここまで立派に育ちました。たとえ過去に迷ったとしても、最期に示された愛を、私たちは決して忘れはしません。昨日の式典も、とても素晴らしいものでした。あなたも見ていてくれましたか?」


 涙を浮かべながらも微笑み、息子の肩を抱き寄せる。

「エドワード。これからは、あなたの時代よ」

「はい。必ず――」

 青年は力強く応じた。


 レオンもまた、エドワードの肩に手を置き、三人でしばし石碑を見上げていた。


 やがてレオンが静かに口を開いた。

「エドワード……話がある」

「はい。叔父上、何でしょうか」

「これからは、俺がルシアと共に夫婦として歩んでいくことを――許してくれるか」


 不意の言葉に、ルシアは驚いて目を見開いた。けれどその瞳には、喜びの光が瞬いていた。

 アレクシスが家を顧みぬ日々、傍らで支え続けてくれたのはレオンだった。戦の折にも常に自分たちを守ろうとしてくれた。数々の日々が心に蘇り、胸を熱くする。


 エドワードは少しも迷わず、笑顔で応えた。

「もちろんです。叔父上。これから母上をよろしくお願いいたします」

 そう言って深々と頭を下げた。


「母上、良かったですね。叔父上はずっと僕たちと一緒にいてくれた。今では僕にとっても、大切な父上です」


 その言葉に、ルシアは堪えていた涙をこぼし、両手で顔を覆った。

 レオンは真剣な眼差しで告げる。

「エドワード……ありがとう。必ずお前の母上、ルシアを一生大切にする。悲しませることはしない。もしそんなことがあれば――その時はお前が俺を叱咤し、殴ってでも目を覚まさせてくれ」

「もちろんです!」

 エドワードは笑顔で答えた。


 庭に三人の喜びの声が響き渡り、春風に溶けていった。


「では、父上、母上。僕はこれから祖父上のもとへ参り、与えられた務めに臨んできます」

 エドワードは石碑に深く一礼し、ルシアとレオンに挨拶して歩み去った。

 庭には、ルシアとレオンだけが残された。


 しばしの沈黙ののち、レオンが口を開いた。

「……ルシア」

 その声音には、長年秘めてきた想いが滲んでいた。

「俺はこれまで、あなたとエドワードを守ることだけを考えてきた。兄上の遺志を継ぐため――それが務めだと思っていた。だが……」


 彼は真っ直ぐに彼女を見つめる。

「これからは、務めだけでなく、自分の心にも従いたい。あなたと共に、生きていきたい」


「レオン……」

「ルシア。先ほどエドワードには伝えてしまったが、もし許してくれるのなら……俺の妻として共に歩んでほしい」


 その言葉に、胸に張り詰めていたものが音を立てて崩れ落ちた。

 ルシアの瞳から大粒の涙が溢れる。

「許すも何も……あなたはずっと私を支えてくれた。これ以上、何を望めばいいのでしょう。でも……侯爵様は」

「父上にはすでに許しを得ている。誰にも文句は言わせない」


 ルシアは震える唇で告げた。

「ええ……これからは夫婦として、共に歩んでまいりましょう。ありがとう、レオン」

「愛しているよ、ルシア」

「私も……あなたを愛しているわ」


 レオンは彼女を静かに抱き寄せた。

 その温もりが胸いっぱいに広がり、長い年月の孤独と痛みがようやく癒えていくのを感じた。


 館の上空で、黒鷲の旗が朝風を受けて大きく翻った。

 エドワードは青年として未来へ歩み出し、ルシアとレオンは伴侶として新たな道を選ぶ。

 その光景は、石碑に眠るアレクシスもまた祝福しているかのように思えた。


 裏切りも、喪失も、すべてを抱えた上で――リューンハイム侯爵家は確かに未来へと進んでいた。


――黒鷲は折れぬ。


 その誇りと共に、家族の物語は新たな時代へと受け継がれていく。


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