64. 死者を思う哀しみ
グリューンヴァルト公爵とレティシアの断罪から数日。
リューンハイム侯爵家の館は、戦火の爪痕を色濃く残していた。
石壁には無数の矢の跡が刻まれ、黒い煤が消えず、庭の芝には戦士たちの血が染み込み、どれほど水を撒いても拭い去れなかった。
兵たちは黙々と瓦礫を片付け、女たちは亡き者の名を布に縫い付けていた。鐘の音が響くたびに、あの夜の叫びと炎が誰も彼もの胸に蘇り、館全体を重苦しく覆っていた。
ルシアはその光景を窓辺から見下ろしていた。
胸に焼き付いて離れぬのは、炎の中で最後に見せた夫アレクシスの姿。裏切りと憎しみの果てに、確かに彼は自分とエドワードを庇った。
あれは真実だったのか、幻だったのか。
答えを探しながら、彼女の頬を涙が伝った。
ふと振り返ると、エドワードが机に向かっていた。
小さな手には、父がかつて握った剣の柄。
子供の手には重すぎる鉄だったが、それを震える指で必死に握りしめ、唇を噛んで涙をこらえていた。
その背を見守るルシアの胸は、痛みと誇りで引き裂かれそうだった。
そんな彼らの傍に、いつも静かに立っていたのがレオンだった。
兄を失い、なお戦の傷を抱える身でありながら、彼は片時もルシアとエドワードから離れなかった。
「奥方、今は悲しみに沈んで良いのです」
ある夜、涙を隠そうとするルシアに、レオンはそう告げた。
「ですが、これからは私が必ず支えます。兄上が果たせなかった役目を、私が引き継ぎます」
ルシアは答えられず、ただ俯いて涙をこぼした。
けれど、その言葉が心の奥に静かに沁み込み、彼女を支えていた。
やがてエドワードは決意を固めたように顔を上げ、母に言った。
「母上、祖父上とお話ししたいのです」
その声はまだ幼さを残していたが、瞳は澄み切っていた。
館の大広間。
リューンハイム侯爵は館の主としての座に腰を下ろし、孫を迎えた。
ゼルヴィア国きっての戦の家門として、侯爵は考えていた――エドワードは今回の戦を見て、ただ恐怖や悲しみを抱いただけなのか、それとも未来を背負う覚悟を得たのか。
それを確かめねばならない、と。
傍らにヴァルターが立ち、レオンもまた胸に痛みを抱えながら、剣を杖代わりに控えていた。
「エドワード……お前は、何を見て、何を胸に刻んだ?」
侯爵の問いに、少年は拳を握りしめて答えた。
それは十一歳のまだ青年にもなれぬエドワードにとって、あまりに厳しく難しい問いであった。
「僕は……父上の死を見ました。祖父上の裁きを見ました。そして、国が罪を裁くのを学びました。
僕は侯爵家を継ぐ者として、騎士たちの犠牲を無駄にしないと誓います」
その声に、ルシアは思わず息を呑み、涙がにじんだ。
レオンが静かに歩み出る。
「エドワード、その言葉を聞けて私は誇らしい。……兄上は道を誤った。しかし最後に、お前と奥方を庇った。その心を、私は決して忘れない」
彼は片膝をつき、少年の視線と同じ高さに降りた。
「お前が未来を背負うなら、私はその盾となり、剣となる。命に代えても、母君とお前を守る。
それが、兄上の代わりに私が果たすべき役目だ」
その言葉に、ルシアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「……レオン……あなたがいてくれることが、どれほど心強いか……」
エドワードもまた、小さな手でレオンの手を握り返した。
「僕も……レオン叔父上のように、誰かを守れる人になります」
その光景に、侯爵は老いた目を潤ませ、ゆっくりと立ち上がった。
「……よかろう。お前の誓いを、我らが支えよう。今日より、お前は侯爵家の正統なる後継ぎとして歩め」
その瞬間、窓から朝日が差し込み、少年と母と叔父の姿を黄金に染めた。
光の中で、三人の影は一つに重なった。
ヴァルターはその傍らで静かに見守っていた。
胸の奥から熱いものがこみ上げる。――この家門に仕えてよかった。
そう強く思いながら、彼もまた心に誓った。
これからはレオンと共に、若き後継ぎエドワードとルシアを、命に代えても支えてゆくのだと。
その夜、館では戦死者を弔う儀式が行われた。
篝火が焚かれ、鐘が鳴り響き、兵たちと家族が名を呼んで涙した。
ルシアは息子を抱き寄せ、エドワードは小さな声で戦死者の名を一つ一つ唱えた。
レオンはその背を支えながら、自らも兄の名を呟いた。
「アレクシス……兄上。あなたの子は、もう歩き出しました」
レオンは静かに目を伏せ、胸の奥に刻まれた数々の記憶を思い返していた。
兄と共に剣を振るった幼き日々。
戦場に立つ前、無邪気に笑い合った子供の頃。
そして、レティシアとの婚約破棄で荒れ狂い、道を誤っていったあの姿――。
どれも消せはしない。
しかし今、エドワードの真っ直ぐな瞳の中に、兄が最後に見せた勇気の欠片を確かに見た。
レオンはそっと空を仰いだ。
滲む光の中で、彼の目にも静かな涙が光っていた。
戦火に沈んだ侯爵家に、ようやく新しき黎明が訪れようとしていた。




