61. 慟哭の余波、アレクシスの死
石造りの廊下に、まだ血と火薬の匂いが濃く残っていた。
アレクシスの亡骸を抱きしめるルシアの嗚咽は、やがて静かな涙へと変わっていく。
エドワードは父を見据えたまま動かず、その横でレオンが剣を支えながら立ち尽くしていた。
しんとした空気を破ったのは、レティシアの叫びだった。
「嘘よ! そんなの嘘! あなたは私を選んだのよ!」
声は石壁に反響し、狂気の笑いと泣き声が入り混じる。
近衛たちは顔を見合わせた。主の命を受けて斬ったはずの相手が、最後に庇ったのは他ならぬルシアとエドワード。混乱と恐怖が兵の心を蝕んでいく。
その時、重い足音が響いた。
「下がれ!」
鋼を打ち払う声と共にヴァルターが姿を現した。
血に濡れた剣を振るい、なお凛として立つ姿に兵は一斉に怯んだ。
「奥方と坊ちゃまを狙う愚か者……この場で一人も生かしては帰さぬ!」
黒鷲の将の怒声が廊下を震わせ、侯爵と侯爵家の騎士たちが続々と駆けつける。
ルシアは顔を上げ、涙に濡れた瞳でその光景を見守った。
腕の中で、アレクシスの体はすでに冷たさを帯び始めている。
その重みを確かめるたび、憎しみは消え去り、残るのはただ哀惜だけだった。
リューンハイム侯爵はその亡骸を見て、苦痛の表情を浮かべた。
かつては愛した息子――その命が自分よりも先に尽き、しかも反乱の渦中で倒れた。
「……馬鹿な真似を……」
その横でエドワードがゆっくりと立ち上がった。
震える膝を必死に堪え、父の亡骸を背に、母を守るように前に出る。
「祖父上……僕は見ました。父上は最後に……僕たちを守ってくださった」
その声はまだ幼さを残していたが、確かな意志が宿っていた。
侯爵は孫を見つめ、ゆっくりと頷く。
そしてその頭に手を置き、低く言った。
「――エドワード。よく頑張ったな……」
その様子を見ていたレティシアはなおも絶望に囚われていた。
白い裳裾を掴み、髪を振り乱して叫ぶ。
「違う! 違うのよ! アレクシスは私と共に生きるはずだった! あの女と、その子ではなく!」
瞳は血走り、理性は崩れ落ちていた。
彼女の背後に残っていた近衛の一人が恐る恐る声を上げる。
「レティシア様……ご退却を……」
だがその言葉を聞いたレティシアは、狂ったように振り返り、兵を睨みつけた。
「黙れ! 退くものですか!」
その声に兵たちがたじろぐ。
ヴァルターが一歩踏み出し、剣を構え直した。
「……ルシア様、エドワード様、今すぐ後方へ。ここからは我らが引き受けます」
そして侯爵家の騎士たちに号令を飛ばす。
「この者たちを捉えよ!」
騎士と兵たちは動けなくなった公爵家の兵を制圧し、レティシアを縛り上げ牢へと連行していった。
彼女は「いや、いやよ、アレクシス!」と何度も叫び、抵抗を続けた。
その声は次第に遠ざかり、やがて廊下は静けさを取り戻した。
残されたのは、ルシアとエドワード、レオン、そしてリューンハイム侯爵。
静かな空気の中で、ルシアはエドワードを抱き寄せ、亡骸に最後の一瞥をくれた。
「……ありがとう、アレクシス」
涙は頬を伝い、とめどなく流れる。
出逢った時から、エドワードを産んで「ありがとう」と言ってくれた彼の笑顔。
思い出を辿りながら、ルシアはアレクシスの頬を両手で包み、最後の別れを告げた。
エドワードもまた膝をつき、父親の顔を拝んだ。
「父上、最後は僕たちを守ってくれてありがとう」
声を掛けても二度と応えは返らない――そう思うと胸が苦しく、涙が止まらなかった。
母ルシアはそんな息子をそっと抱きしめ、共に泣いた。
二人の嗚咽が侯爵邸に響き、やがてレオンも侯爵も、共に過ごした日々を胸に涙を落とした。
外ではまだ戦の後始末に追われ、ざわめきが続いていた。
だが、城の奥で全てを見届けた者たちは知っていた。
レティシアが仕組んだ戦いは、アレクシスの命を代償に終わりを告げた。
――だが、まだ終わりではない。
この血塗られた結末の責を、誰が、どのように負うのか。
静まり返った廊下に、近衛に拘束されたレティシアの嗚咽と絶叫だけが、なお遠くまで響き渡っていた。