60. 不器用な愛の果てに
鋭い衝撃に押し倒されながらも、アレクシスはなお立ち上がろうとした。
胸元を深々と裂かれ、黒衣は瞬く間に紅に染まっていく。
ルシアは悲鳴を上げ、エドワードは目を見開いたまま声を失った。
「……アレクシス!」
レオンが剣を振るい、近衛を押し返す。
火花が散り、石壁に鋼の響きが連続して叩きつけられる。
その背で、アレクシスは荒い息を吐きながらも、視線をルシアとエドワードから逸らさなかった。
レティシアは蒼白になり、その声は震え、焦燥と恐怖とが入り混じっていた。
「なぜ……なぜ庇ったの? 私と共にあの女を排するはずだったのに!」
そのとき、石廊下に複数の足音が響いた。
アレクシスを斬ってしまった近衛の騎士は、刃を握ったまま呆然と立ち尽くしていた。
まさか――あのアレクシスが、女と子を庇うなど。思いもよらぬ展開に、顔から血の気が引いていく。
そこへ、駆け寄った別の影が鋭く叫んだ。
「レオン殿!」
剣を振るい敵兵をはじき飛ばしたのは、ヴァルターだった。
外郭の戦いは侯爵家の兵とイルマの奮戦で持ち直しつつあった。
「ここは大丈夫」と見切りをつけたヴァルターは、胸騒ぎに突き動かされて城内へ駆け戻ってきたのだ。
敵の騎士たちはヴァルターの一撃に抗う術もなく、倒れ伏す。
廊下に血と鋼の音がこだまし、やがて静寂が戻った。
レオンは、床に崩れ落ちた実の兄――アレクシスをただじっと見つめていた。
血に濡れた唇がわずかに動き、かすれ声が空気を震わせる。
「……ルシア……」
ルシアは思わず膝をつき、その顔を両手で支えた。
彼女を映す瞳に、わずかな光が残っていた。
「俺は……間違えた。だが……侯爵家を本当に滅ぼしたいと願ったことは……一度もなかった。
お前を……想わぬ日はなかった……」
ルシアの視界が涙ににじむ。
「アレクシス……あなた……」
胸の奥で長年絡みついていた憎しみが、音もなくほどけていくのを感じた。
アレクシスの視線が、次に小さな体へ向けられる。
エドワード。
少年は震えながらも、父の眼を真っ直ぐに受け止めていた。
「……エドワード。強く……生きろ。母を……守れ……それが……俺の贖いだ……」
エドワードの唇が震える。
「父……上……」と呼ぼうとして、嗚咽に呑み込まれる。
それでも涙に濡れた瞳で父を見据え、深くうなずいた。
そして最後に、アレクシスの視線はレオンへ移る。
剣を構え、血に濡れながら立ち続ける弟分。
「……レオン……お前に……礼を言う。ルシアと……エドワードを……支えてくれて……ありがとう……。
俺にはできなかったことを……託す」
レオンは歯を食いしばり、震える声で応じた。
「……必ず守る。二人を、俺の命に代えても」
アレクシスの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ああ……すまなかった……」
血に濡れた手がゆるりと伸び、ルシアの頬に触れようとした。
だが、その指先は力を失い、空を切って落ちていく。
まぶたが静かに閉じられ、全ての音が遠ざかるように沈んだ。
ルシアはその顔を両手で支え、声にならぬ嗚咽をこらえきれなかった。
「……アレクシス……」
それ以上の言葉は、胸に詰まって出てこなかった。
傍らでエドワードが拳を固く握りしめ、唇を噛む。
「父上……」
その声は震えていた。
――なぜ、自分は父の最後をこのような形で見届けねばならぬのか。
だが少年は目を逸らさなかった。
涙で霞む視界の奥に、父の最期の姿を確かに刻みつけていた。
ルシアはただ一度、静かに目を閉じて呟いた。
「……あなたは、不器用だったのね……」
その声には、憎しみはもはや宿ってはいなかった。
エドワードは父の亡骸をまっすぐに見つめ、その姿を胸に刻む。
父は裏切り者ではない――最後に、家族を守った人間として。
やがて、廊下にしんとした静寂が落ちた。
その沈黙を裂くように、レティシアの絶叫が響き渡る。
「嘘よ! そんなの嘘! あなたは私を選んだのよ!」
その声は悲鳴となり、石壁に反響した。
慟哭は、敗北を認めぬ悪魔の叫びのようであった。