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私の夫は昔愛した彼女を選んだ。さようなら旦那様、私は孤独に耐えられませんので家を出ます  作者: 吉乃


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59. ルシア達の危機

 正門が裂けるような悲鳴を上げ、楔の抜けた木枠に亀裂が走った。

「押し込まれるぞ――!」

 土煙と火の粉が夜風に巻き上がる。黒煙の向こうで鬨の声が重なり、槍の穂先が群れとなってうねっていた。


 その刹那、ヴァルターの横を疾風が掠めた。

 掴み損ねた影は、振り返る頃にはもう石段を飛ぶように駆け上がっている。

 アレクシス――。


 誰よりも早くその名に結びついたのはヴァルターだった。

(奥方と坊ちゃまのもとへ……!)

 直感が背骨を打ち、彼は躊躇なく走り出す。火と血の匂いの中、燭台の光が石壁に踊った。


 反対側では、豪奢な馬車の高みでレティシアが一瞬、現実を見失った顔で立ち尽くしていた。隣にあるはずだった影が消えている。

 遅れて、白い喉から裂けるような叫びが飛ぶ。

「アレクシス――!」

 扇の先が鋭く城を指した。

「止めなさい! 捕らえなさい! 必ず連れ戻すのです!」


命が渡るたびに鎧の列が崩れ、十人、二十人と走り出す。

 彼女は裳裾を乱すことなく立ち上がり、近衛に支えられながら一歩、二歩と進む。

 その眼には怒りと焦燥が燃え上がっていた。


 ――アレクシス、なぜ?

 私と共に侯爵家を乗っ取り、二人で幸せになると誓ったではないか。

 まさか、自らの手でルシアとエドワードを討とうとしているの?

 ……いいえ、それでもいい。けれど、あの強き騎士たちを相手に、本当に勝てるというの?

 無茶はしないで……アレクシス……。


 彼女の心の叫びを嘲笑うかのように、城門脇から躍り出た一条の刃が、その白い影を遮った。


「ここから先は、通さない」

 イルマだった。血に濡れた頬、獲物を射抜く女獅子の眼。

 踏み込み、刃が鳴る。レティシアの前衛二人が同時に倒れ、石畳に鎧の音が散った。

 レティシアは唇の端を冷たく歪め、手首の合図一つで残る兵を前へ押し出す。

「邪魔よ、女獅子。――踏み潰して行きなさい」


 剣戟の火花が連続して咲く。イルマの身体はほとんど影だった。刃が閃くたび喉が裂け、槍の柄が斬り落とされ、兵の間に怯えと怒りが伝染していく。

 それでも数の圧は重い。石段に押し合いの波が生まれ、戦場の音が一段と膨れ上がった。


 城壁上では、侯爵がその流れを見切って伝令を呼ぶ。

「東廊下を閉めよ。――ヴァルター!」

 駆け上がって来た黒鷲の将に、侯爵は短く命じる。

「門前はイルマが支えている。外の戦列が割れる、あれを締め直せ。女獅子を援けよ!」

「しかし、アレクシスが――」

 言いかけたヴァルターの肩へ、いつの間にか傍らに来ていたレオンが手を置いた。額の包帯から血が薄く滲む。

「行け、ヴァルター。中は俺が持つ。……エドワードとルシアは、俺が守る」

 傷を押して立つその姿は、静かな決意で凜としていた。

 侯爵もうなずく。

「任せたぞ」

 ヴァルターは歯を食いしばり、一礼して踵を返す。次の瞬間には、外郭へ向けて黒い影が滑るように消えていった。


 石造りの内部回廊は、火皿の橙と外気の暗さが交互にゆらめき、足音と甲冑の擦れる音が反響していた。

 アレクシスは暗がりを迷いなく選び、壁際の細い階段へ身を滑らせる。

(変わっていない。俺が知っている――この城は、俺の家だ)

 幼日に剣を隠し持って走った通用口、少年の頃に叱られながら磨いた槍。

 石の匂いも、冷たい手摺の感触も、指先の記憶は裏切らない。


 背後で粗い息が集まり、鉄の列が迫る気配がした。

「見失うな! 通路は二手に分かれる、右を回れ!」

 公爵軍の兵が追撃の輪を狭める。

 だが彼らが知らない細い折り返し階段を、アレクシスは迷わず降りた。――かつて使用人達が夜具を運ぶために使った、狭く急なきざはしだ。


 同じころ、イルマはレティシアの列と石段の中腹で絡み合っていた。

 剣の唸りが耳を裂き、視界の端で火矢の残光が尾を引く。

 イルマは兵の槍を掴んで捻り折り、踏み込みざまにもう一人の喉を斜めに裂いた。


 その背後に影が迫っていることに気づかなかった。

 敵兵が振りかぶり、剣の刃がイルマの頭上へ落ちようとした瞬間――。


「イルマ、危ない!」

 味方の叫びに「はっ」と振り返る。

 だが、その敵はすでに斬り伏せられていた。


 背後に立っていたのはヴァルターだった。

「……ヴァルター!」

「危機一髪だった。油断するな」

 短い言葉に混じる叱咤と温かさ。


 イルマは息を整えながら一瞬だけ剣を下げ、胸の奥で思う。

 ――もし、侯爵閣下とレオンから『戻れ』と言われなければ、この助けは間に合わなかったかもしれない。

 そう思うと、背筋に冷たいものが走った。


  イルマが味方兵と交錯し、剣閃の光が乱れる一瞬を、レティシアは鋭く見逃さなかった。

 正面から剣を合わせる代わりに、兵を次々と盾のように突き出し、その隙を拾って石壁の脇の狭間へと身を滑り込ませる。


 唇の端だけが冷ややかに笑った。

(ふふ……天はやはり私に味方している。そうよ、私は運がいい女。ここは女獅子と侯爵家の兵に任せておけばいい。私は――別の口から、欲しいものを奪いに行くわ)


 彼女は石壁の裂け目に身を押し、薄暗い横穴へ素早く消えた。二人の近衛が続く。

 女中が洗濯桶を運ぶために使う細い脇回廊――戦の騒擾の中で塞がれずに残っていた穴だった。


 一方、城内の静かな一区画。

 厚手のタペストリーが風に揺れ、遠い地鳴りが床板へ伝わる。

 ルシアは窓辺のカーテンを少しだけ開け、黒い夜を見つめていた。

 戦の匂いと、どこかで誰かが泣くような低い響きが、胸の奥へ滲みていく。

 背後では、レオンが傷口に布を巻き直しながら剣帯を締め直していた。

「ここは厚い壁だ。すぐには破れない。……しかし、いざとなれば、この脇の小階段から屋根裏へ退ける。」

 エドワードはうなずいた。少年の顔には恐怖の色が確かにある。が、それより濃いのは、真っ直ぐに何かを見据える光だった。

「母上。音が――近い」

 ルシアは息を呑む。聞こえる。遠くの衝撃音とは違う、はっきりとした靴音が、もう廊下の角を曲がったところまで来ている。


 そこへ、走る気配が一つ、部屋の前で立ち止まった。

 扉の向こうで、短い沈黙。

 レオンが前へ出て、剣を半身に構える。


 その時――低い声が板戸越しに響いた。

「……黒鷲は夜に飛ぶ」


 レオンの眉がぴくりと動く。

 それは侯爵家の者しか知らない、戦時の合言葉だった。

 彼は思わず応じる。

「だが翼は折れぬ」


 門が外れる音。

 ゆっくりと板戸が開き、黒衣の男――アレクシスが立っていた。

 火の粉で煤けた頬、額に浮かぶ汗。その眼差しはただ一つ、ルシアとエドワードに注がれている。


 ルシアの胸が跳ねた。

 レオンは柄に込めた力をわずかに緩め、エドワードは一歩、母の前へ踏み出す。


「……アレクシス」

 ルシアの声は震えていた。憎しみとも恐怖とも違う、名を呼ぶだけで胸を裂かれるような響き。


 レオンは傷を押しながらも前に出た。

「兄上、ここは通さぬ」

 刃先をわずかに下げてはいたが、その瞳は鋼のように固かった。


 アレクシスは首を横に振る。

「レオン、俺は戦うために来たのではない……」

 男は部屋に踏み入らず、敷居の上で立ち止まった。

 眼差しが、一人一人を確かめるように巡る。

 エドワードは唇を噛み、ルシアは胸の奥で長い年月が捩れてほどけるような感覚に襲われる。


「何を……しに来たの?」


 アレクシスが答えようとしたその瞬間、廊下の向こうから鋭い金属音が続けざまに響いた。

 女の高い踵が石床を打つ乾いた音が、駆け足で近づいてくる。


 白い裳裾を翻し、レティシアが姿を現した。

 氷のような瞳が、アレクシスの背に突き刺さる。

「……裏切るの?」


 彼女の後ろに二人の近衛が連なり、剣が同時に抜かれた。

 レティシアは顎をわずかに上げ、扉の奥にいる女と少年の影を認めると、不気味な笑みを浮かべる。

「終わらせに来たのよ。あなたたちの物語を。ねぇ、アレクシス……私となら侯爵家を継げるわ。あなた達はもう用無しなの」


 レオンが前へ一歩出る。足取りは重いが、刃先は震えていない。

 アレクシスは半身にずれ、扉口へ片腕を伸ばすように立った。

 廊下の灯が揺れ、誰の顔も赤く染める。


 レティシアが右手をひねった。

 合図。


 近衛の一人が踏み込み、扉の敷居を越えた。

 鋭い音、刃が空気を裂き、レオンの剣が火花を散らす。

 廊下に鋼の叫びが反響した。


 次にもう一人の剣が、ルシアとエドワードをめがけて振り下ろされる。

「――!」

 ルシアは息を呑み、エドワードが母を庇おうと一歩踏み出す。


 その前に、黒衣の影がすべり込んだ。


 鋭い衝撃とともに、赤い雫が宙に散る。

 振り下ろされた刃はアレクシスの胸を深々と裂き、その体を押し倒した。


 レティシアの目が大きく見開かれる。

「……嘘、でしょう」


 夜が、深く沈んだ。

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