58. 炎の濁流
夜空を裂く火矢の尾は、流星のように弧を描いて敵陣へと降り注いだ。
乾いた破裂音、燃え上がる布と肉の焦げる臭い。
「うわああっ!」
「火だ、服に燃え移った!」
兵士の絶叫と怒号が闇に反響し、戦馬の嘶きが混ざり合って響き渡る。
燃え落ちる旗。炎に包まれ転げ回る兵。
その混乱の中、三十羽の戦鷹が再び宙を舞った。
闇に紛れて降下し、兜を掴んで引き剥がし、鋭い爪で眼を抉る。
「ぎゃああっ!」
「目がっ、見えない!」
兵がのたうち回り、隣の者を巻き込み、隊列が波打つ。
羽ばたきと悲鳴、馬の暴走が交錯し、戦場は混乱の坩堝と化した。
だが、グリューンヴァルト公爵軍は崩れなかった。
後方から響く女の声が、混乱に楔を打ち込んだのだ。
「怯むな! 前へ進め! 燃え死ぬ者は捨てよ!」
――レティシア。
白き裳裾を夜風になびかせ、豪奢な馬車の上から冷ややかに命を放つ。
その言葉と態度は、兵をひとりの人間としてではなく、駒のように扱う冷酷さを帯びていた。
彼女の姿は、兵たちの目には人ならぬ悪魔の化身のように映った。
それでも兵たちは顔を歪めながらも槍を握り直し、再び突撃を始める。
城壁上、侯爵は眉をひそめ、すぐさま采配を下す。
「投石機、用意! 油を注げ! ――放て!」
かねてより籠城戦に備えて積まれていた巨石が、兵らの手で押し出される。
軋む木製の転がし台から外れ、轟音を立てて落下した。
轟音とともに巨石が放たれ、敵の盾列に直撃した。
砕け散った盾が飛び、骨を折られた悲鳴が夜に散る。
油を被った布に火矢が突き刺さり、炎の壁が敵軍の中央を裂いた。
「水だ! 水を持て!」
敵兵が慌てて桶を回す。盾に濡れ布をかぶせ、火を必死に払う。
火矢への対策が瞬く間に広がり、突撃の歩みは再び整えられた。
その様子を見て、侯爵は歯噛みした。
「……抜け目のない。だが、止めねばならぬ」
正門前、イルマが刃を閃かせて走る。
孤高の女獅子を思わせる獰猛な剣舞。
敵の喉を裂き、腕を切り落とし、翻るたびに鮮血が飛沫となって舞った。
敵将らしき鎧姿を見つけると、獲物を狙う獣のように鋭く踏み込む。
「首をもらう!」
閃光のごとき一撃。敵将は辛くも盾で受け止めたが、衝撃に膝をつき、味方に引きずられるように退いた。
味方兵たちが歓声を上げる。
「イルマだ! 女獅子がいるぞ!」
その声は恐怖を打ち消し、戦列に再び力を与えた。
一方、ヴァルターはただ剣を振るうだけではなかった。
兵らの間を駆けながら的確に指示を飛ばす。
「下がるな! 盾を寄せろ! 左から押し込め!」
その声は混乱を律し、黒鷲の兵たちを一つに束ねる。
そして剣が稲妻の光を帯びて振り下ろされるたび、敵兵はまとめて両断され、石畳に血の河が広がった。
血と煙のただ中で、黒衣の男――アレクシスは黙然と立っていた。
剣を抜くでもなく、ただ戦火を見つめている。
かつて自らが暮らした城、愛した者たちがいるはずの場所が、今は敵として燃えている。
その横顔に一瞬揺らぎが走ったのを、レティシアは見逃さなかった。
「……ためらうのですか?」
「……いや」
低く答えた声は、戦場の轟音に呑まれて消えた。
城内、ルシアは震える胸を押さえ、隣のエドワードを見つめた。
少年は拳を固く握りしめ、真っ直ぐに戦場を見ている。
「母上……父上が、あそこに」
その声には恐怖も震えもあった。だがそれ以上に、決して逸らさぬ意志があった。
「怖い。でも、僕は見ます。侯爵家の跡継ぎとして、この戦を刻みます」
ルシアは涙をこらえ、彼を抱き寄せた。
「立派になったわ、エドワード……」
その傍らに控えていたレオンが、一歩進み出て少年の肩にそっと手を置いた。
「エドワード……その言葉を聞けて、私は誇らしい。
ですが、どうか忘れるな。お前が戦場に出るのは、まだ先のこと。今は俺が、お前とルシアを守る。」
エドワードは顔を上げ、尊敬の眼差しでレオンを見つめた。
「はい……でも僕も、必ず強くなります」
その瞳には、騎士の背を追う少年らしい決意がはっきりと宿っていた。
だが少年は、母の胸に甘えることなく顔を上げ、炎に揺れる戦場を見据えた。
その瞳には、幼さとともに確かな覚悟が芽生えていた。
再び轟音。
敵の突撃槍が正門を突き破り、分厚い木枠に亀裂が走る。
「門が……!」
兵たちが悲鳴を上げる。
ヴァルターは即座に声を張り上げた。
「恐れるな! ここを死守せよ!」
その時だった――。
何かがヴァルターたちの横を、疾風のようにすり抜けていく。
アレクシス。
彼は剣を抜くことなく、ただひたすらに城内を目指して駆けていた。
その行き先は、ルシアとエドワードのもと。
「止めろ!」
侯爵家の兵たちが前に立ちはだかる。
だが、アレクシスもまた戦の家門に育ち、小さな頃から鍛えられてきた者。
一瞬の剣閃と身のこなしで兵たちを払い退け、道を切り開く。
「エドワード様と奥方が危ない!」
ヴァルターは血の気を逆流させ、すぐさま後を追った。
その瞳には烈火のごとき焦りが宿っている。
炎と血の奔流の中で、両軍はなおも激突を続けていた。
夜は終わりを告げることなく、さらなる濁流を生み出していく。
――果たして、アレクシスは何を思い、城へと足を踏み入れたのか。