57. 敵陣、正面より迫る
捕らえられた内通者がまだ昏睡のまま侍医の手に委ねられている頃、北壁の見張り台から裂帛の叫びが響いた。
「鬨の声――来るぞ!」
夜霧を裂く角笛の音。大地を震わせる低い太鼓の連打。
闇の彼方から、無数の松明が赤い蛇の群れのようにうねりながら押し寄せてきた。吐き出される鬨の声は、地鳴りのように城壁を揺らす。
執務室の窓を押し開いた侯爵は、北方の闇を射抜くように睨み据えた。
「……やはり今夜だ。ヴァルター、外郭の指揮を。イルマは門前に」
「御意」
「はっ」
命が火花のように伝わり、兵らは各所へ走った。
火皿に松明が灯され、石造りの回廊が一斉に橙の光を帯びる。
その下で、黒鷲の軍旗が烈風に鳴った。冷たい風に翻る紋章は、闇を払う焔そのものだった。
――そして、漆黒の翼を広げるかのように、三十羽の戦鷹が檻から放たれる。
鋭い甲高い鳴き声が夜空を切り裂き、闇に紛れて敵陣へ舞い下りた。
松明を握る兵の腕を裂き、兜を引き剥がし、馬の目を抉る。瞬く間に敵列に混乱が走り、戦馬が暴れ、兵が次々と倒れ込む。
敵の怒号と悲鳴が混じり合い、闇に赤々と火花が散った。
正門前ではイルマが影のように駆け、剣を抜いた。
その動きは――孤高の女獅子を思わせる鋭さと勢い。
小柄な体は波に抗う孤舟のようであったが、その刃は冷たく光り、敵兵の突進をことごとく封じていく。
鮮血を浴びても表情を変えず、ただ前方を睨み据える姿は、味方の兵に畏怖と昂揚を同時に与えていた。
「抜けさせるな!」
その刹那、正門が震えた。敵軍の戦馬が鉄蹄で扉を打ち据えたのだ。
分厚い木枠が悲鳴を上げ、鉄の飾り金具が軋む。
「押し込まれるぞ!」
兵が叫ぶ。
しかしヴァルターは一歩も退かず、長剣を構えて前へ出た。
「恐れるな! この門は我らの誇りだ!」
彼の剣が閃いた瞬間――稲妻のごとき光が走り、敵をまとめて両断する稲妻の刃が数人の兵を一息に薙ぎ払った。
鎧も槍も、その一撃の前には意味をなさない。
返す刃でさらに敵列を裂き、血飛沫が炎に映えて紅の雨となった。
斬り伏せられた兵の叫びが、次なる敵の膝を竦ませる。
兵たちはその豪胆さに歓声を上げ、怯みを忘れた。
「ヴァルター! ヴァルターだ!」
その名が鬨となり、士気を再び燃え上がらせる。
城壁上からは油壺が次々と投げ落とされ、炎の矢が引き絞られる。
「放て!」
火矢が闇を貫き、敵の旗と兵の列に突き刺さった。
「うわああっ!」
「火だ、燃える!」
次の瞬間、轟音とともに炎が燃え広がり、油に引火した地面が赤く爆ぜた。
焦げた布の匂いと、焼ける肉の臭気が夜気を満たす。
悲鳴と怒号が入り混じり、盾を投げ捨てて転げ回る兵、必死に火を払おうとする兵の姿が乱れ飛ぶ。
黒煙の中で、夜戦に慣れた戦鷹が再び舞い降りた。
鋭い鳴き声とともに敵兵の顔に爪を突き立てる。
「ぎゃああっ!」
視界を潰された兵士が絶叫し、隣の者にぶつかり、隊列は崩れた。
火を恐れた戦馬が狂ったように嘶き、鉄蹄を鳴らして跳ね回る。
「押さえろ! 馬を抑えろ!」
必死の怒号も虚しく、暴れ馬に弾き飛ばされる兵が続出し、混乱が波のように広がっていった。
敵は一時的に足を止めざるを得なくなる。
それでも、彼らは進んでくる。
炎を踏み越え、矢の雨を突き抜け、規律を保ったまま公爵軍の列が迫る。
押し返してもなお次の波が押し寄せる、その様は大河の奔流のようだった。
侯爵は窓辺から一部始終を見据え、低く唸った。
「……これほどまでの兵を。グリューンヴァルト、やはり手を抜かぬか」
その背後では侍従たちが慌ただしく走り、伝令が次々と命を受けて駆けていった。
「西の塔を固めよ! 矢を惜しむな!」
侯爵の声は嵐の中でも揺るがぬ楔のように兵を支えていた。
やがて、その背後に――ひときわ豪奢な馬車を守る一群の兵が現れた。
松明の赤に浮かぶ女の影。
透き通る顔立ち、白い裳裾、傲然と掲げた顎。
戦場に不釣り合いなほど華やかなその姿は、敵味方すべての視線を奪った。
――レティシア。
その隣には、黒衣をまとった男が立つ。
整った面差しに、かつての温もりを知る者だけが見抜ける翳り。
――アレクシス。
ルシアの胸は氷の刃で貫かれたように凍りついた。
(……アレクシス、あなたはこの様を見てどう思うの? 大切に育てられたこの侯爵家がこの様になってしまって苦しくないの?)
涙を堪えながらも、ルシアはそう思わずにはいられなかった。
レティシアは戦馬の背に立ち、声を張り上げた。
「リューンハイムの城門を開けよ! 抗うは無駄なり!」
澄んだ声が夜を震わせる。
「アレクシス! 証を示しなさい!」
黒衣の男が前に進み出た。
その姿に兵らがどよめく。
かつて侯爵家の嫡男であり、エドワードの父であった男が、いま敵陣に立っている――。
だがヴァルターは一歩も退かず、再び剣を掲げた。
「裏切り者を惑わすな! 黒鷲の翼は折れぬ!」
その一閃がまた十人を斬り倒し、血飛沫が炎に映える。
イルマも敵槍を払いながら鋭く叫んだ。
「視線を逸らすな! 正面を見よ!」
城壁上からは構わず次々と火矢が放たれ、戦鷹が敵の頭上を舞い荒らした。
ルシアは震える膝を押さえ、隣に座っていたエドワードを抱き寄せる。
(アレクシス……あなたは、なぜ……)
かつては共にこの侯爵家のために歩んできた家族だった。胸を裂く思いが募る。
だがエドワードは、母の腕をそっと外した。
「母上、僕はこのリューンハイム侯爵家の血を引いた者です。今のこの状況を怖くないといえば噓になります。でも、リューンハイムとして生まれたからには、今日のこの状況を目に焼き付けて、名に恥じないよう生きていきます。共に戦ってくれている騎士達をこの眼に焼き付けて……母上は僕が守ります」
子供ながらにも、その声音は確かに戦場の中で鍛えられた者のものだった。
幾度か死を目の当たりにし、レオンの背を見続けてきたことで芽生えた強さ。
エドワードの瞳は、もう幼子のそれではなかった。
「あぁ、エドワード……あなたは、立派なリューンハイム侯爵家の人だわ」
ルシアは涙を流しながら、我が子を強く抱きしめた。
だが少年はすぐに母の胸から顔を上げ、戦場の彼方を真っ直ぐに見つめた。
父と母、二つの運命がここで交錯する瞬間を、その澄んだ目は確かに捉えていた。
――嵐は、正面より押し寄せていた。




