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56. 内通者、露わに


 違和は、音より先に、空気のわずかな変化として立ちのぼるものだ――この侯爵家に来てから、ルシアはそれを身につけてきた。

 薬草庫の戸についたかすかな湿り気、巡回の足音が夜半に一度だけ半拍ずれたこと。壁の継ぎ目に挟まれていた蔦の意匠を刻む封蝋の半月。どれも些細で、ひとつひとつは断片にすぎない。だが互いに呼び合い、ひとつの輪郭を浮かび上がらせていた。


 ここは侯爵閣下の執務室。

 呼ばれたのは、侯爵家が誇る二人の切り札だった。


「――内に、敵がいます」

 静かに言い切ったのは女騎士イルマ。小柄な体に無駄のない気配、刃のように澄んだ瞳。

「囮を張ります。巡回表を少し入れ替え、偽の伝令路を立てる。必ず食いついてくるでしょう」


 侯爵閣下は頷いた。

「よかろう。内の火は内で鎮める。……ヴァルター」


 一歩、重い足取りが進み出る。黒鷲の紋を刻んだ胸甲、糸のようにまっすぐな背筋。その眼光だけが静かに光った。

「承知つかまつりました」


 ヴァルター・フォン・シュタイン――黒鷲の騎士長。

 他国の戦門の家に生まれ、リューンハイム侯爵家とは深い親交を持つ。盟友レオンが傷を負ったと聞き、急ぎ駆けつけた心強き武人である。

 二人――イルマとヴァルターは、ともに侯爵家から申し分なき腕を見込まれ、この場にいるのだった。


 夜が深まる。

 屋敷の回廊は灯を減らされ、影が濃く落ちる。新たな巡回札が音もなく掛け替えられた。

 やがて仕えの若い男が一人、壁の継ぎ目で立ち止まる。指先が、石の隙間に薄紙を差し入れようとしたその瞬間――。


 稲妻のように伸びた細い影が手首を攫った。

「そこまで!」

 イルマの声は囁きのようで、逃げ場を与えない。

 男が跳ねるのと同時に、背後から黒衣の衛兵が腕と口を封じた。取り落とされた紙片には、蔦の半月――封蝋の粉が薄く残っていた。


 騒ぎは最小限に抑えられた。

 だが次の瞬間、空気が裂ける。

 ――ヒュ、と夜気を切る鋭い音。

 中庭から一筋の影。狙いは、捕えられた男の喉――口封じの矢だ。


 キィン――!

 甲高い金属音が闇を裂いた。

 そこに立っていたのはヴァルター。踏み込んだ一歩の先で、すでに長剣が矢を捉え、刃の平で軌道を撥ね上げていた。石畳に矢羽が跳ね、かすかな火花が散る。


 彼は目を細め、風を嗅ぐように鼻先を上げる。

「北壁の外、唐檜の根。角度は低い。……二の矢は来ません」

 短い声には、確信の重さがあった。


 ルシアは息を呑んだ。

(――矢が放たれる前から、その軌道を視ていた……)

 黒鷲の眼。その呼び名を、今まさに骨身で理解した。


 捕らえられた若い男は蒼白になり、がたがたと震えだす。唇の奥で、きし、と嫌な音。

「噛みます!」

 イルマの叫びと同時に、彼女の指が顎を鋼のように押さえた。隠し歯に仕込まれた毒嚢。噛み締めは紙一重で阻まれる。

 だが舌の下から別の毒が滲み、男の喉がひゅう、と鳴った。

 イルマは素早く解毒薬を口端に流し込む。

 ほどなく痙攣が収まり、男は床に崩れた。微かな呼吸だけを残し、朦朧とした唇が乾いた音を刻む。

「……蔦の、館……灰の鳩……《あの女》の……」

 そこで言葉は途切れ、まぶたが落ちた。


「十分だ」

 低い声が回廊に響く。侯爵閣下がゆっくりと歩を進めていた。

「医師を呼べ。命は繋げ。訊くべきことは山ほどある」

 命が下ると同時に従者が走り、侍医が駆ける。侯爵は男を一瞥し、イルマとヴァルターへ視線を移した。

「よくやった。内は引き締める。外は?」

「北壁外に弓手が一。……もう引きました」

 ヴァルターは矢羽を拾い、侯爵に差し出す。灰色――鳩の色。

「《灰の鳩》。あの公爵家の密偵に使われる印です」

「レティシアと、グリューンヴァルト公爵家……やはり繋がっていたか」


 そのとき、離れから微かな物音。

 ルシアの胸が跳ねる。身を翻しかけた肩を、イルマがそっと押さえた。

「奥方、ここは我らに。どうか、レオン様の傍に」

 その強さに、ルシアは頷いた。


 案の定、寝所の戸は半ば開いていた。

「レオン、だめよ」

 起き上がろうとする男の肩を押さえ、ルシアは言う。

「今はあなたが生きていることが、この家の力になるの」

 レオンは唇を噛んだが、やがて息を吐き、肩の力を落とした。

「わかった……頼む」

「ええ。今は大丈夫。あの二人がいる限り、心配はいらないわ」


 回廊に戻れば、侯爵が人垣を割って立っていた。

「内通者はまだ口を割る余地がある。イルマ、護送を。ヴァルター、北壁の警戒を二重に」

「御意」


 ヴァルターは剣を鞘に納め、ふとルシアに向き直った。

「奥方――この屋敷の内も外も、黒鷲の眼が見ています。今夜はどうか心をお鎮めください」

 その眼は鋼の冷たさと、確かな温度を同時に宿していた。

 ルシアは小さく会釈し、静かに応えた。

「頼りにしています、ヴァルター」


 侯爵は全体を見渡し、短く言い切る。

「次は、必ず正面から来る。――我らは迎え撃つ」


 石造りの廊と胸の奥に、その言葉は深く刻まれた。

 今宵、裏切りは露わになった。

 黒鷲の眼は、闇の向こうに潜む次の矢までも視据えている。

 嵐は、もうすぐそこだ。

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