54. 幼き誓い
レオンの療養の日々は、確かな成果をもたらしていた。
リューンハイム侯爵家に仕える侍医と薬師は交代で房を訪れ、選りすぐった薬草を煎じて湯浴みに用い、精緻に練り上げた膏薬を静かに塗り込む。銀の盆には時刻ごとに分けられた服薬の包みが並び、記録係が脈や呼吸の調子を帳面に記す。痛みを和らげる処方も怠りはない。家門の威信を映すかのように、看護は徹底していた。
その甲斐あって、レオンの頬にかすかな血色が戻る。長く歩くには早いが、眠りは深く、肩の力も抜けてきた。
窓辺で湯気の立つ杯を手に、ルシアはその寝顔を見守っていた。
(もう少し。――もう少しだけ、時が彼を癒してくれるなら)
胸の底に沈む重石のような不安は消えない。捕虜の口から洩れた名――レティシア。あの女の影は、過去と現在の縫い目を乱すように、心の奥で冷ややかに笑っている。だが、目の前の男の呼吸は安らかだった。彼を包む静けさを、今だけは守りたい。
その夜更け、控えめなノック音。
「お母様」
襖の向こうから、少し背伸びした声がした。エドワードだ。
「入っておいで」
灯がやわらかく揺れる。少年は足音を忍ばせて近づき、寝所の手前で立ち止まった。黒曜石のような瞳が、いつになくまっすぐだった。
「僕……強くなります」
言葉は短く、けれど迷いはなかった。
「お母様を、そして叔父上を守れるくらいに。――この家も」
ルシアは一瞬だけ息を呑み、次いで微笑んだ。
「あなたは、もう私の支えよ」
抱き寄せると、幼さの残る肩に確かな芯が芽生え始めているのが分かる。
「無茶はしないと約束して。強さは剣の振り方だけじゃないわ」
「はい。……でも、剣も覚えたい」
エドワードは小さな拳を握り、ちらりと寝台のレオンを見る。眠る男の横顔は穏やかで、その静けさが少年の決意を、かえって固くしたのだろう。
翌朝。
朝露の降りた中庭に、乾いた木の音が軽く弾んだ。
エドワードは両手で木剣を構える。足幅はまだ定まらない。だが目線は落ちず、真っ直ぐ前を見ている。
巡回の騎士が立ち止まり、しばしその所作を眺めて、にやりと口端を上げた。
「――さすがは侯爵家の御嫡男。将来の主にふさわしい、すでに騎士の眼をしておられる」
声に誇りが滲む。
「足は肩幅よりやや広く。呼吸を先に整えろ。三つ数えて吸って、六つで吐く」
エドワードは真似る。吸って、吐く。肩に入っていた余計な力が抜け、木剣の先がぶれなくなった。
「そうだ。剣は腕で振るな。腰で運べ」
その声に応じるように、他の騎士たちも広場に集まり、代わる代わる声をかけ始めた。
「将来は立派な主君になられる」「その眼差し、既に父祖の面影あり」
エドワードは一つひとつを真剣に受け止め、汗を流しながら身体に叩き込んでいく。
やがて誰かが「休憩にいたしましょう」と声を上げると、緊張がほどけ、賑やかな笑い声が中庭に広がった。少年は息を弾ませながらも、誇らしげに仲間の輪に加わった。
回廊の陰でその姿を見つめるルシアの胸に、複雑な想いが渦を巻く。
(もう子どもではない。――けれど、大人になるにはあまりに早い)
誇らしさと、母としての怖さが同時にせり上がる。
(守るために学ぶことと、憎しみのために学ぶことは違う。この子は前者を選べるはず。そう育てなければ)
訓練を終えたエドワードが、汗を拭いながら駆け寄ってくる。
「母上、見てくださっていましたか?」
「もちろん。とても凛々しかったわ」
ルシアが膝を折ると、少年は照れくさそうに笑い、それから真顔に戻った。
「母上、僕はこれから言葉遣いも改めます。心を入れ替え、叔父上のように立派になりたい。そして――僕が母上を守ります。学園に行ってもここで習ったことを続けます。字も、礼法も、剣も。全部、母上のためになるから」
「ええ。けれど、自分のためにもね」
ルシアとエドワードは額を寄せ合い、未来を思いながら微笑み合った。
その頃、屋敷の奥。
薄闇に紛れた影が壁の継ぎ目に指を滑らせ、折りたたまれた紙片を抜き取った。蝋の欠片が落ちる。蔦を象った封蝋の半月。
「芽は、早いうちに摘むべきだ」
低い囁きは誰の耳にも届かぬまま、闇に沈んだ。
夜、ルシアは寝台に入ったエドワードの額に口づけを落とし、毛布を胸まで引き上げた。
「今日の誓い、忘れないで」
「はい。――母上も、忘れないでください」
少年は目を閉じる前にそっと手を伸ばし、ルシアの指を握った。小さく、しかし確かな力。
その温もりを掌に受けながら、ルシアは窓外の闇に目を向ける。
(来るなら来なさい。奪わせはしない――もう二度と)
警護の足音が規則正しく屋敷を巡る。だがその刻みは、一つだけ半拍ずれていた。
その違和は、やがて家の奥底で大きな不協和へと育つ。
けれど今夜だけは、眠る者たちの呼吸が、互いの盾であるように。
ルシアはそっと目を閉じ、掌に残る少年の誓いを、胸の奥に移した。