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53. 侯爵の宣告

あれから数日が過ぎた。

私が付き切りで看病した甲歩あってか、レオンの熱はようやく下がり始めた。まだ顔色は紙のように白く、起き上がるたびに傷が痛むのか、わずかに眉を寄せる。それでも彼は、私が差し出した薬湯を飲み干すと、静かに立ち上がった。


「もう行くのですか? まだ完治にはほど遠いのに……」

「閣下がお呼びです。それに、いつまでも寝てはいられません」


そう言って彼は壁に立てかけてあった剣を手に取る。その横顔は、騎士としての矜持に満ちていた。私はそれ以上引き止める言葉を見つけられず、ただ彼の背中が痛々しく映るのを黙って見送ることしかできなかった。


その朝、リューンハイム侯爵家の中庭に、全ての騎士たちが呼び集められた。

石畳の上に整然と並ぶ騎士服の列。しかし、その規律正しい光景とは裏腹に、騎士たちの間には不安と緊張が濃い霧のように漂っていた。兜を外した顔の下で交わされるひそやかな囁きが、冷たい風に乗って波紋のように広がっていく。


「何があるというのだ……捕虜が口にした名は、やはり……」

「アレクシス様は、本当にレティシア殿の側に?」

「馬鹿なことを言うな。だが、近頃お姿をお見かけしないのも事実……」


疑念と忠誠心がせめぎ合うざわめきを、一つの足音が断ち切った。

城館から現れたのは、リューンハイム侯爵その人だった。老いてなお衰えぬ威厳をその身にまとい、背筋を凍るほどまっすぐに伸ばして進んでくる。そして、その隣には……レオンの姿があった。


肩の包帯が礼装の下からわずかに覗き、顔色は陽光の下では一層青白く見える。それでも彼は痛みの色を一切見せず、剣を佩き、主君の隣に立つことで自らの揺るぎない決意を示していた。


「皆、顔を上げよ」

侯爵の声が、冬の朝の空気を鋭く切り裂いた。全ての囁きが止み、広場は墓地のような静寂に包まれる。


「この度の戦、そして捕虜の口より洩れた名により、お前たちの心が乱れていることは承知している」


騎士たちの背筋がさらに伸びる。誰もが耳を疑い、しかし心のどこかで恐れていたあの女の名――レティシア。そして、その名と共にあるはずの、もう一人の男の影。


「我が家門を取り巻く状況は、かつてないほどに危うい。断言しよう。裏切りの影が、我らの背後にまで忍び寄っている」


重苦しい沈黙が、騎士服の重さ以上に騎士たちの肩にのしかかる。侯爵の言葉は、彼らの胸に渦巻く漠然とした不安に、確かな輪郭を与えてしまった。視線が、かつてアレクシスが立っていたはずの場所を探して、虚空を彷徨う。


侯爵は一拍置き、列の端から端までを射抜くような眼差しで見渡した。

「だが、恐れるな。我らは戦の家門。血の繋がりが裏切るのならば、我らは忠誠をもってそれを断ち切るまでのこと。たとえどれほどの血が流れようとも、我が一族の誇りを曲げることはない!」


それは、息子への決別の宣告にも聞こえた。


その悲痛な覚悟に応えるように、レオンが一歩前へ出た。蒼白な顔に宿る眼差しは、熱を失った代わりに、より強く、澄んだ光を帯びていた。


「……我らは、侯爵家の剣。その剣が守るべきは、この地に生きる人々であり、我らが育んだ誇りです。敵が誰であろうとも、たとえかつて敬愛した者であったとしても、道を違えたならば斬り伏せるのみ」


熱に浮かされていた夜に交わした、掠れた声とは違う。凛とした声音でありながら、その言葉にはあの夜の誓いが、私を守るという決意が、確かに込められているように感じられた。


騎士たちの胸に、燻っていた炎が再び燃え上がる。ざわめきは静かに、しかし確かな決意へと変わっていく。


だが、その場の誰もが、胸の奥底で同じ疑問を抱き続けていた。

――なぜ、あの名が囁かれたのか。

そして、侯爵家の血を引くアレクシスは今どこで、一体何を選ぼうとしているのか。


冷たい風が中庭を吹き抜ける。騎士たちの掲げた忠誠の裏側で、答えの出ない問いが、不吉な影となって静かに、深く広がっていった。


◇ ◇ ◇


人々が散ったあと、レオンの足取りは急に重くなった。私は慌ててその腕を取り、肩を貸した。


ベッドに腰を下ろさせ、包帯を解くと、血が滲んでいた。私は息を呑み、すぐに用意してあった薬草湯で傷口を洗い流す。侯爵家専属の医師が毎朝訪れ、飲み薬と痛み止め、さらに回復を早める軟膏を置いていってくれる。

この水も、ただの水ではない。何種類もの薬草を煎じて冷ましたもので、戦場帰りの兵の回復に用いられてきた特別な処方だ。


軟膏を薄く塗り広げ、新しい包帯を巻きながら、私は胸を締めつけられる。

「……もう、無理をするから」


「……大丈夫です」

強がる声は力なく、けれど瞳だけは鋭く澄んでいた。

その時、彼が低く囁いた。


「皆の前では言えませんでしたが……」

掠れた声が、私の胸に落ちる。

「私が守りたいのは、この家と民だけではありません。……あなたと、エドワード。お二人を、私は何よりも失いたくない」


胸の奥が熱く震えた。

言葉にできず、私はただ彼の手を取り、強く握り返した。


窓の外、月明かりが二人の影を重ねていた。

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