52. 黒き策謀、愛という名の盲目
同じ夜。
月光がかすかに床を撫でる部屋で、濃い帳がゆっくりと揺れた。
帳の向こうから、囁きが落ちる。
「広間は凍りついたそうです、“あの名”の効果は上々かと」
膝をつく男が報告すると、椅子に凭れた女は唇だけで笑った。
レティシア。紅のグラスを軽く傾け、琥珀の液を細く揺らす。
「ひびは最初は小さいほどいいのよ。見えないところで広がるから」
「次の手は」
「屋敷の中に風を入れる。写字生として間者を一人、厨房にはもう一人。扉は中から開く時がいちばん静かだわ」
そのとき、帳の影がもう一つ揺れた。
踏み入ってきた男の顔に、迷いとも執着ともつかぬ影が走る。
「遅かったわね、アレクシス」
レティシアは視線だけで彼を迎えた。
アレクシスは一瞬、報告の男を見遣り、静かに言う。
「下がれ。彼女の前では、私事は耳に毒だ」
従者が去る。
扉の音が遠のくやいなや、レティシアは躊躇なく言い放った。
「——ルシアも、あの子も。ここで終わらせるべきよ」
アレクシスの頬から、血の気がわずかに引いた。だが、すぐに口元が歪む。
「お前は、本当に残酷だな」
低く吐かれた声は冷たいのに、瞳には熱が宿る。
「……だが、その残酷さごと、俺はお前を愛している」
レティシアは瞼を半ば閉じ、愉しげに息を漏らす。
「なら、証を見せて。言葉より、行いで」
アレクシスは窓辺に歩み寄り、月を仰いだ。
白い光が頬を撫でる。しばし沈黙ののち、彼は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「——俺は、追い出されたわけじゃない」
「ええ、知ってるわ」
「だが、あいつらがいる限り、俺の居場所は戻らなかった。……そう思ってきた」
言い切ると、苦笑ではない、乾いた笑みがわずかに浮かぶ。
「戻ろうと思えば、戻れた。レティシアを捨てれば、ルシアとエドワードのもとへ帰る道はあった」
彼は自分の胸に手を置き、指先に力を込めた。
「だが、俺は選んだ。お前をだ。お前の冷たさも、野心も、刃みたいな言葉も。全部抱えて生きるほうを」
レティシアの口角がわずかに上がる。
「じゃあ簡単よ。あなたが“選んだ”方を、最後まで守ればいいだけ」
アレクシスはうなずき、声を落とす。
「……ルシアと、あの子がいる限り、俺は客間の椅子に座り直すことすら許されない。
あの家は“鷹”の家門。だが、鷹の翼を折れば——王家という“獅子”は、別の翼を求めるはずだ」
言葉は静かだが、芯に狂おしい熱が灯っている。
「俺が扉を開ける。お前と……お前の子を、正殿の階段に立たせる。
“リューンハイム”の名のもとに」
レティシアは立ち上がり、彼の間近まで歩み寄った。
指先で、アレクシスの胸元の襞を整える仕草。
「甘いわね」
囁きは蜜のように柔らかい。
「でも、甘い男は嫌いじゃない。——間者は三日後。裏手の小門を“偶然”閉め忘れる手筈にしてあるわ」
アレクシスは息を吸い、目を閉じた。
「三日だな。……レオンも、止めねばならない」
「ええ。鷹の片翼が折れれば、もう片方は空で迷うだけ」
レティシアは踵を返し、窓の外の月を見上げた。
「忘れないで、アレクシス。あなたは“奪われた”のではない。あなたが“選んだ”の」
それは嘲りにも救いにも聞こえる刃だった。
アレクシスは、静かに笑う。今度の笑みは、熱と氷が同居していた。
「ああ。俺が選んだ。だから、誰のせいにもできない。
——だからこそ、やり遂げる」
部屋の空気が、月光より冷たくなる。
遠く、夜の風が唸り、黒い帳がわずかに震えた。
目に見えないひびが、静かに、確実に広がっていく。
——その裂け目を塞ぐように、二人は互いの存在にすがった。
月明かりに照らされた二つの影が、ゆっくりと重なり合う。
確かめ合うように、熱い口づけを交わす二人。
それは愛なのか、狂気なのか——境目はとうに消えていた。




