51. 夜の看護、触れられぬ想い
夜更け。
あれほど騒がしかった広間の声もようやく収まり、屋敷は水を打ったような静けさに包まれていた。
兵士たちの安堵の声も、捕虜の名を巡る動揺も、今はもう消えている。けれど、私の耳にはまだあのざわめきがこびりついていて、眠りにつくことができなかった。
灯りの残る廊下を、足音を殺してそっと歩く。
広間で気丈に振る舞っていた彼の姿が脳裏に焼き付いて離れない。彼の顔色だけが紙のように白かったことを、私だけは気づいていた。
胸の奥が冷たい手で掴まれたようにざわめき、どうしても彼のことが気になってならなかった。
彼の部屋の扉の前で、そっと立ち止まる。重厚な木の扉が、まるで越えてはならない境界線のように思えた。
息を殺して耳を澄ますと、中から浅く荒い呼吸がかすかに聞こえてくる。苦しげに途切れるその音に、心臓が大きく跳ねた。
もう、ためらってはいられなかった。
思わず扉を押し開けると、部屋の隅で揺らめく蝋燭の光に、ベッドに横たわるレオンの姿が浮かび上がった。
駆け寄ると、薬草の青い香りに混じって、かすかな血の匂いが鼻をついた。額には玉のような汗が浮かび、肩と脇腹に巻かれた白い包帯は赤黒い血を滲ませていた。
「レオン……」
思わず呼んだ声は、自分でも驚くほど震えていた。胸が締めつけられ、息が苦しい。
眠っているはずなのに、その眉間には深い皺が刻まれ、食いしばられた唇が痛みに耐えていることを物語っていた。
いつも冷静で屈強な彼の、見たことのない無防備な姿だった。
私は急いで水差しから水を汲み、布を浸して固く絞る。ベッドサイドに膝をつき、熱に浮かされた額にそっと当てた。ひやりとした感触が伝わったのか、彼の苦しげな表情がほんのわずかに緩む。
その小さな変化に安堵しながらも、震える指先を必死に抑え込んだ。布越しに伝わる体温が、普段は決して触れることのない彼の生々しい存在を突きつけてくる。
——触れてしまえば、もう戻れなくなる。
それでも、この苦しむ彼を少しでも楽にしてあげたい。
「……すまない、起こしてしまったか」
不意に低い声が響き、はっと顔を上げる。薄く開かれたレオンの瞳が、ぼんやりと私を捉えていた。熱のせいか潤んだその青い瞳に、心臓が捕らえられる。
「いいえ。私が、勝手に……。眠っていてください。……少しでも、楽になればと」
声が震えそうになるのを必死で抑えると、彼は乾いた唇の端をわずかに持ち上げ、力なく笑った。
「お前がここにいてくれるだけで……十分だ」
掠れた声でそう告げる彼の目は、戦場で幾多の敵を射抜いてきた鋭さとはまるで違う、頼りなげで、甘さを含んだ光を帯びていた。その眼差しに射抜かれ、胸の奥がきゅうっと熱くなる。
こんなにも強い人が、今は私に支えを求めている。
その事実が切なく、愛おしくて、たまらなかった。
新しい布を準備しながら、静かに囁く。
「……どうか、もう無理をなさらないで。あなたが倒れてしまったら、私たちは……私は……」
言葉の続きは喉に詰まり、涙となって頬を伝った。あなたがいない世界なんて、考えたくもない。その想いが嗚咽に変わる前に、唇を噛んで堪えた。
レオンはそれを見て、静かに首を振ると、おもむろに手を伸ばしてきた。熱に浮かされたせいか、その指先が私の頬に触れた。息が止まったように体が固まる。けれど、彼の瞳は真剣だった。
「俺は倒れん」
頬に触れた指が震える中で、弱々しくも確かな声が紡がれる。
「……お前がいる。お前とエドワードと、この家を守るために、俺は生きる」
それは誓いだった。私だけに向けられた魂の約束。その言葉は、心の最も深い場所に深く刻まれた。
私は涙を拭い、彼の手に自分の手をそっと重ねた。
本当は越えてはならぬ一線を踏み越えたのかもしれない。けれど、今だけは――彼が求めるなら。
「……約束、ですよ」
囁くと、彼は安堵したように小さく頷き、再び眠りへ落ちていった。
私は彼のそばに座り続け、重ねた手を離さなかった。窓の外が白み、鳥の声が聞こえるまで。
今はもう迷わない。この温かい手を、決して離さない。
彼が私を守るというのなら、私もこの命に代えて彼を守ろう。
夜明けの光が部屋に差し込み、固く結ばれた私たちの手を優しく照らし出していた。




