50. 揺らぐ侯爵家の誇り
戦場で捕らえられ、馬車で本邸へと連れてこられた捕虜が、広間の中央で尋問を受けていた。侯爵や騎士たち、戦に出なかった者たちが見守る中、その男の唇から最後の呪詛のように吐き出された名が響いた瞬間、すべての時が止まったかのようだった。
重苦しい沈黙のなか、壁に掲げられた燭台の炎だけが頼りなく揺れ、恐怖に怯える魂のように小さく震えていた。兵士たちは息を呑み、誰もがその名の持つ毒に当てられたかのように身動きできずにいた。
「……レティシア」
その名を唇に乗せただけで、胸の奥の古い傷が抉られ、鋭い痛みが走った。
夫アレクシスを奪い、私とエドワードを葬ろうとした女――その影が、こんなにも早く、そして直接的に私たちの前に現れるとは。
「信じがたい……あの女の名が敵の口から出るとは」
「偶然にしては出来すぎている。背後に公爵家がいるのでは……」
騎士たちが顔を見合わせ、低い囁きが次々と広間を走る。握った槍の先が震え、鎧の金具が擦れ合う音までがはっきりと響いた。恐怖と疑念は水面に広がる波紋のように、瞬く間に場を覆っていった。
「静まれ!」
低く鋭い声が、そのざわめきを断ち切った。レオンだった。
壁際に身を預けていた彼は一歩を踏み出し、鋭い眼光で騎士たちを見渡す。処置されたばかりの包帯は、無理に動いたせいか赤黒い血が滲み、その痛ましい姿が逆に言葉の重みを増していた。
「捕虜の言葉一つに踊らされるな。罠かもしれん。だが……」
一度言葉を切り、彼は固く唇を結ぶ。
「……“レティシア”という名を、無視するわけにもいかん」
硬い決意を宿したその眼差しの奥には、兄の過ちが招いた悲劇を再び見せつけられる苦しみが覗いていた。
「……あの名が出る以上、エルデンローゼ公爵家が背後にいる可能性は否定できないわ」
私の声は驚くほど震えていなかった。レオンの姿が私に勇気を与えてくれていたのだ。恐怖に押し潰されそうな心を奮い立たせ、毅然と告げる。広間の空気が再び張り詰めるのを、私は肌で感じた。
「忘れるな!」
その時、広間の奥から当主――リューンハイム侯爵の厳然たる声が轟いた。
「我らはリューンハイム侯爵家の血を引く者だ。鷹の家門としての誇りは、王家という獅子を支えるためにこそある。いかなる陰謀にも曇らされはせぬ!」」
雷鳴のごときその言葉は、渦巻いていた動揺と恐怖を打ち砕き、騎士たちの目に再び忠誠の光を宿させた。
隣に立つエドワードが、小さな拳を固く握りしめているのが見えた。
「……父上がいなくても、僕にはお祖父様と、叔父上がいる」
幼い声はわずかに震えていたが、その瞳には次期当主としての確かな決意が灯っていた。
その背中に胸を打たれ、私はかつて夫に裏切られた痛みを越え、新たな力を心に宿すようにそっと息を整えた。――私はこの子の母なのだ。私が揺らいではならない。
来るなら、来なさい。レティシア。エルデンローゼ公爵家。
侯爵家を呑み込もうとする黒い影は、すでに目前に迫っている。だが、私たちは決して屈しない。
広間が落ち着きを取り戻し、人々がそれぞれの持ち場へ戻っていく中、レオンが私の傍へ歩み寄った。額に脂汗が浮かび、痛みに耐えているのがわかる。
「……大丈夫か」
その低い声は、私だけを気遣う優しさに満ちていた。
「ええ。あなたこそ、傷が……」
包帯に視線を落とすと、彼は外套を引き寄せ、それを隠した。
「この程度、どうということはない。それより……お前の強さが、今は何よりの支えだ」
思わぬ言葉に胸が熱くなる。
「私も……あなたがいるから、強くいられるのです」
涙をこらえて微笑む。触れたい――その痛みを少しでも和らげたい。けれど、その衝動は越えてはならぬ一線によって押しとどめられていた。
言葉を交わさずとも、互いの心は理解していた。同志として、ただ共に立ち、この嵐に向かうしかないのだと。
レオンの眼差しがそのすべてを物語っていた。それだけで、私の心は不思議なほどに満たされていった。
私はそっと彼の額に浮かんだ汗を拭った。
——どうしても、この人の傷を癒してあげたい。
けれど、今の私にできるのは、ただ隣に立ち続けることだけ。
そのもどかしさが、胸を締めつけてならなかった。