第49話 迫る勅命
夜が明けきらぬ頃、館の門前に重々しい蹄音が響いた。冷気を裂いて現れたのは、王都からの使者の一行だった。
彼らが携えてきたのは――国王陛下の名を冠した勅命。
「……勅命、だと?」
広間に集められた家臣たちの前で、その言葉を繰り返したのはリューンハイム侯爵本人だった。威厳ある声に、一瞬で場が静まり返る。
使者は恭しく封蝋の巻紙を差し出した。金と黒の紋章――王家の双頭鷲。しかし、侯爵は封を切る前から顔を曇らせていた。
王がこれほど急ぎの使者を寄越すことは滅多にない。だが、その裏にある意志は明白だった。
「……エルデンローゼ公爵家の影、か」
侯爵の低い呟きに、広間の空気がさらに張り詰めた。
勅命の内容は、侯爵領の軍備増強を一時凍結し、王都へ兵を差し出せというものだった。表向きは国境防衛のため。だが実際には侯爵家の力を削ぎ、代わりに公爵家を優遇する布石に違いない。
家臣たちは憤りを押し殺し、互いに視線を交わした。
「陛下は……いや、あの方は自ら決められたのではあるまい」
「公爵家が背後で糸を引いている」
小声の囁きが広間の隅で交わされる。侯爵もまた、それを否定しなかった。
*
その頃、ルシアは廊下で使者の一行を目にした。彼らの鎧に映る朝日が異様に冷たく見える。胸の奥に、嫌な予感が広がった。
足音を忍ばせた気配に振り向くと、そこにはレオンがいた。包帯の巻かれた肩と脇腹を庇いながらも、彼は毅然と立っていた。
「無理をしては……」と声をかけかけたルシアの言葉を、レオンは苦笑で遮った。
「平気です。……あなたが不安そうにしているのを、見過ごせませんから」
その言葉に、ルシアの胸がかすかに震えた。夫に裏切られ、孤独の中で子を守り続けてきた年月。その傍らでずっと支えてくれたのは、この人だった。
ほんの一瞬、心が揺らぐ。伸ばしかけた指を、寸前で引っ込める。周囲に人の気配がある。軽率な振る舞いはできない。
だがレオンもまた、その一瞬の衝動を悟ったように視線を伏せ、頬を赤らめて小さく息を吐いた。二人の間に言葉はなかった。けれど、互いの心は確かに寄り添っていた。
*
やがて広間へと戻る途中、彼らに駆け寄ってきた小さな足音があった。
「母上! 叔父上!」
息を切らしたエドワードが、真剣な顔で二人を見上げた。
「父上がいなくても、僕がいます。侯爵家は僕が守ります」
幼さを残しながらも、瞳には強い光が宿っている。
レオンはその言葉にしばし黙し、やがて静かに頷いた。
「……よく言った。リューンハイム侯爵家の男だな。だが、勇気と無謀は違う。今は私の後ろにいなさい」
その声音には、叔父としての威厳と、騎士としての責任が込められていた。
エドワードはわずかに唇を噛み、けれど誇らしげに胸を張った。ルシアは二人の姿を見つめ、温かな誇りと切なさが入り混じるのを感じていた。
*
広間へ戻ったルシアの耳に、使者の最後の宣言が届く。
「国王陛下の御名において、リューンハイム侯爵家はこの勅命に従うべし」
侯爵は黙然と巻紙を見下ろしていた。
その横顔に浮かぶ深い皺と影を、ルシアは忘れまいと心に刻んだ。
(まさか……公爵家は、ここまで手を回していたなんて)
冷たい戦慄が背筋を走る。
レティシア――その名が再び、侯爵家の運命を狂わせようとしていた。