5.静寂の湖畔で
静かな湖畔に、柔らかな風が吹き抜けた。
青く澄んだ水面は穏やかに揺れ、夕暮れの光が辺りを温かく染めている。
アレクシスは、ルシアと肩を並べて湖を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。
こんなにも静かで穏やかな時間を、誰かと共有するのは久しぶりだった。
「あなたとここに来てよかった。」
思わず口をついた言葉に、自分でも驚いた。
彼女と共に過ごしたこの一日は、ただの狩猟や婚約者としての義務とは違った。
それは、もっと自然で、心が軽くなるような時間だった。
ルシアは微笑みながらアレクシスを見つめた。
「そう言ってもらえて、嬉しいわ。」
風がそっと彼女の長い髪を揺らす。
その仕草すら、どこか優雅で、まるでこの湖畔の風景に溶け込むようだった。
アレクシスは、彼女の横顔をそっと見つめた。
(この人と結婚するのか……。)
まだ実感はなかった。
けれど、こうして彼女と共に時間を過ごすことが心地よいと感じている自分に気づいた。
「アレクシス様。」
「何でしょう?」
「あなたは……今、幸せですか?」
突然の問いかけに、アレクシスは驚いて彼女を見つめた。
「……突然ですね。」
「ええ。でも、気になったの。」
ルシアの瞳は真剣だった。
まるで彼の心の奥を覗き込むような眼差しだった。
アレクシスは少しの間、湖の水面を眺め、それから静かに口を開いた。
「正直に言えば……分かりません。」
「分からない?」
「ええ。」
彼は少し考えてから続けた。
「私はずっと、貴族としての義務を果たすことだけを考えて生きてきました。」
「……。」
「感情に振り回されることは無駄だと思っていたんです。
でも、あなたといると……こうして心が揺れることがある。」
ルシアは驚いたように彼を見つめた。
「それは……悪いこと?」
アレクシスは少し笑った。
「いいえ、悪くはない。むしろ、こうして心が揺れることを楽しんでいる自分がいることに驚いている。」
彼は素直にそう言った。
すると、ルシアは微笑み、湖に目を向けた。
湖の向こうに見える森の木々が風に揺れてかさかさと音をたてる。
「幸せかどうかなんて、すぐに答えを出すものじゃないわ。」
「……?」
「少しずつ、答えを見つけていけばいいのよ。」
アレクシスは、その言葉を噛み締めた。
ルシアの言う通りかもしれない。
貴族の婚姻において、幸福かどうかなど考えることはなかった。
けれど、こうして彼女と向き合い、お互いを知ろうとする中で、
本当に幸せだと思える日が来るかもしれない。
(……この人となら。)
そう思うと、なぜか心が落ち着いた。
夕日が沈み、空は紫と橙の美しいグラデーションに染まっていた。
ルシアはそっとアレクシスの隣に座り、穏やかに言った。
「アレクシス様。」
「はい。」
「私たちは、きっといい夫婦になれるわ。」
アレクシスは、驚いたように彼女を見つめた。
「……そう思いますか?」
「ええ。」
ルシアは迷いなく頷いた。
「愛がなくても、お互いを尊重して、信頼し合えれば、きっと穏やかな家庭を築けるわ。」
アレクシスはしばらく沈黙した後、微笑んだ。
「……そうですね。あなたとなら、そうなれるかもしれません。」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアの胸にじんわりと温かいものが広がった。
それは、恋とは違うかもしれない。
けれど、信頼の第一歩であることは間違いなかった。
彼女は、静かに手を差し出した。
「これから、よろしくお願いします。」
アレクシスは少し驚いた後、微笑みながら彼女の手を取った。
「ええ、よろしくお願いします。」
二人の手が重なった瞬間、湖畔に吹く風が優しく二人を包み込んだ。
こうして、二人は互いに誓った。
それは、愛ではなく——信頼の誓いだった。