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44. 夜明けを待つ傷痕

戦場に静けさが訪れると、そこには血と煙と、呻き声だけが残った。

 つい先ほどまで剣と斧がぶつかり合い、咆哮と叫びが交錯していた場所は、いまや嘘のように沈黙している。だがその沈黙は、勝利の証であると同時に、多くの犠牲の上に成り立つ重苦しいものだった。


 負傷した兵たちが次々に屋敷の広間へと運び込まれていく。止血のために裂かれた布はすぐに血で濡れ、荒い息が掠れた呻きへと変わっていく。仲間を抱き締めた若い従騎士は、最後の吐息を見届けて涙を落とし、古参の兵はその瞼を静かに閉じさせ、低く祈りの言葉を呟いた。


 屋敷の壁の一部は崩れ落ち、庭は馬蹄と血にまみれて荒れ果てている。焦げた匂いが漂い、昨夜までの穏やかな館の面影はもうなかった。


 ルシアはその光景を見つめ、胸の奥で何かが揺れ動くのを感じていた。勝利は確かに掴んだ。だが、守りきれなかった命がある。その狭間で、歓喜と悲嘆が入り混じり、彼女の瞳には複雑な光が宿っていた。

「なぜ……なぜこんなことに」

 従騎士や兵たちの死を前に、ルシアは悔やまずにはいられなかった。自分が侯爵家を離れたことが、事態を招いたのではないか――その思いが、胸を締めつける。


「母上……」

 震える声が隣で響いた。まだ幼さの残るエドワードだった。彼の眼差しは戦場に釘付けになっている。血に濡れた剣、倒れ伏した敵兵、仲間を守って斃れた騎士たち――すべてを見て、彼は悟ってしまった。自分がリューンハイム侯爵家の嫡男であり、いずれこの責を担わなければならないということを。


 ルシアは膝をつき、息子を抱き寄せる。小さな肩は震えていた。

「エドワード……こんな酷い戦いを見せてしまって、ごめんなさい。あなたには辛すぎたでしょう」

「……怖い。確かに怖かった。でも、見ました。皆が命を懸けて戦う姿を。父上の代わりに、叔父上が……」


 その視線の先には、傷だらけの体でなお剣を握るレオンがいた。

 巨漢の敵を討ち倒したものの、その身には幾筋もの血が流れている。彼はふらつきながらも剣を下ろし、仲間たちへ短く告げた。


「……よく戦ってくれた。お前たちがいたから、この家は守られた」


 その声に、兵たちの顔が次々と上がる。痛みに呻く者も、疲労に膝をつく者もいた。だが皆、その言葉に報われたように頷いた。


 ルシアはエドワードを伴い、レオンのもとへ駆け寄った。

「レオン!」

「叔父上!」


 レオンは振り返り、二人の姿を見た。ルシアの目は涙に滲み、彼の血に濡れた姿に胸を締めつけられる。だが、レオンは少年の前に膝をつき、真っ直ぐに見据えた。


「見たな、エドワード」

「……はい」

「人は一人では戦えぬ。だが仲間があれば立ち続けられる。お前が受け継ぐべきものは、この家の名だけではない。共に戦う者を守り、導く力だ」


 その言葉は、少年の胸に深く刻まれた。


 その時、鋭い鳴き声が空を裂いた。

「キィィィ――ッ!」


 ヴァリスだ。鋭い眼差しで、まだ温かさを失わぬ巨漢の屍を見下ろしている。爪に赤黒い血を光らせ、旋回しながら翼を大きく広げる。その合図に応えるように、群れの鷹たちも一斉に声を上げた。勝利を告げるはずの鳴き声に、不思議な張り詰めた響きが混じる。


 巨漢の口元には、死に際に残されたかのような、不気味な笑みが刻まれていた。

 レオンはそれを見て、胸の奥に冷たい影を覚え、低く呟く。


「……まだ、終わってはいないのかもしれんな」


 その声は誰にも届かなかった。だが、東の空に昇る暁の光は、新たな始まりを告げるように館を照らしていた。


 安堵と希望、そして微かな不穏。そのすべてを抱えたまま、リューンハイム侯爵家の新しい一日が始まろうとしていた。

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