39. 守るべきもの
森の奥から響いた、あの甲高い鳥の声は、夜明けの冷たい空気に溶けるようにして消えた。
だが胸の奥には、氷の棘を突き立てられたようなざわめきが残っている。――あれはただの鳥ではない。敵の合図かもしれない。そう直感するには十分すぎる不自然さだった。
レオンとの短い会話を終えると、彼は重い外套を翻し、闇を裂くように巡回へと出て行った。
玄関の扉が閉じる音が屋敷に低く響き、世界から切り離されたような孤独が押し寄せる。
一人、寝台に戻る気には到底なれなかった。
目を閉じれば、暗闇が待ち構え、そこから得体の知れない何かが這い出してくる気がした。私はあてもなく廊下を歩き出す。大理石の床に落ちる自分の影が、ゆらゆらと別人のように揺れる。窓の外、風に揺れる木々は無数の人影のように見え、心臓の鼓動さえ恐ろしいほど大きく響いた。
気がつけば、足はエドワードの部屋の前に止まっていた。
そっと真鍮のノブを回し、扉をわずかに開ける。隙間から漏れるのは、小さな蝋燭の灯り。柔らかな光に照らされ、息子の安らかな寝顔があった。
私は椅子に腰を下ろし、ただその寝顔を見つめる。
額にかかった栗色の髪を指先で払うと、彼はむにゃむにゃと唇を動かし、安心しきった寝息を立てた。昼間は剣を振り、森の地図を描き、未来を夢見る聡明な少年。だが眠りの中では、母を求めるか弱い子どもに戻ってしまう。
その頬に手を添えると、胸がきゅうと締めつけられる。
――この温もりを守るためなら、私は何を犠牲にしてもいい。
けれど誓いの重さが、同時に私のか弱さを突きつける。敵が刃を手に押し寄せてきたとき、私は盾にさえなれないのではないか――そんな無力感が、冷たい水のように心の奥から湧き上がってくる。
その時、夜明け前に交わしたレオンの言葉が甦った。
『そのために俺がいる』
静かな声に込められていた揺るぎない覚悟。今になって、それがこんなにも切実に胸を満たすとは思わなかった。彼は義務や贖罪のためではなく、自らの意志で私たちを守っているのだ。
ふと、眠るエドワードが寝言のように呟いた。
「……父上……母上……」
その声に、心臓が大きく揺さぶられる。アレクシス――裏切り、捨てていったはずの男。それでも息子の中には、家族が揃っていた頃の幸せな記憶が残っている。怒りと切なさ、そして申し訳なさが胸を灼く。
私は衝動的に、彼の小さな手を両手で包み込んだ。
「大丈夫よ、エドワード。あなたには私がいる。そして命を賭して守ってくれる叔父様がいる……もう二度と、一人にはしない」
その言葉は眠る子に向けたものだけではない。
夜の闇に踏み込んでいったレオンの背中へ。そして恐怖に揺れる自分自身へも誓ったものだった。
アレクシスの影が息子の心に残っていてもいい。過去は消せない。
けれど未来は、これから私たちが築いていくのだ。その未来に、二度と孤独を忍び込ませはしない。
蝋燭の炎がふっと揺れ、壁に映る影を大きく伸ばす。静かな部屋に、母子の呼吸だけが響く。
外の世界がどれほど脅威に満ちていようとも、今この瞬間、この部屋には揺るぎない愛と平和があった。
――守るべきものは、ここにある。
温もり。寝息。未来。
それこそが私のすべてであり、私が戦う理由のすべてだった。
夜明けは希望であると同時に、試練の始まりでもある。
けれど私は、その光をまっすぐに見据えた。