37. 援軍の要請
翌朝、空は一面の鉛色の雲に覆われ、屋敷の周りを吹き抜ける風は冬の到来を告げるように冷たかった。暖炉に薪をくべても、石造りの壁を通して染み込んでくる寒気は完全には拭えない。
私は食堂の窓辺に立ち、冷たいガラスに額を寄せながら、庭に出て、木の枝を真剣のように構え、ひとり剣の稽古に打ち込むエドワードの姿を見守っていた。
昨日レオンが拾ってきた太い枝を、彼は伝説の剣に見立てているのだろう。小さな騎士は、見えない敵を相手に勇ましく剣を振るい、時折、勝利の雄叫びを上げては、屈託なく笑っていた。
その幼い笑い声が風に乗って聞こえてくるたびに、強張っていた心がふっと和らぐ。
この子の笑顔こそが、私がすべてを捨ててでも守りたかった宝物なのだ。けれど、その安堵と同時に、背後から影が忍び寄るような冷たい不安が胸に居座って離れなかった。昨夜、レオンと交わした言葉が、重い鎖となって心を縛っていたからだ。
背後で静かな足音がした。振り返るまでもなく、それが誰かはわかった。黒い詰襟の服に身を包んだレオンが立っていた。夜明け前から見回りに出ていたのだろう、外套には霧の露が銀粉のように付着し、その表情は昨夜の決意をさらに研ぎ澄ませたように険しかった。まるで森の奥で不穏な気配を嗅ぎ取ってきたかのように。
「ルシア」
低く落ち着いた声だったが、その響きには切迫が宿っていた。私は彼の瞳をまっすぐ見つめた。その奥には、迷いを断ち切った者だけが持つ揺るぎない光が宿っていた。
「父上と母上に、今すぐ早馬を出す。援軍を要請する」
私が返事をするより早く、彼は有無を言わせぬ口調で続けた。
「腕の立つ兵を最低でも十人。父上なら従軍経験を積んだ信頼できる者を必ず寄越してくれるはずだ」
胸がひやりと冷えた。援軍。その言葉が意味するのは、私たちがもう平穏な逃亡者ではなく、戦いの当事者であるという事実だった。
「援軍……? でも、ここは私たちの隠れ家でしょう? 兵士たちが大勢やって来れば、かえって目立ってしまうのでは? ここにいると知られてしまうかもしれません」
不安で震える声に、レオンは静かに首を振った。
「もはや隠れる段階は終わった。敵はこちらの居場所をほぼ特定している。ならば隠すよりも、守りを固める方が先決だ」
その声音には一片の迷いもなかった。彼はもう私の義弟というだけではない。私とエドワードの命運を預かる、唯一の騎士だった。
私は一歩近づき、庭で遊ぶエドワードに聞こえぬよう声を潜める。
「……わかっています。けれど、援軍が到着するまでに何か起きたら? 早馬を出しても、ここに着くには三日はかかるわ」
その恐れこそが胸を締め付けていた。
レオンは私を射抜くように見つめ、短く言い切った。
「そのときは、俺が盾になる」
短いが、絶対的な響きを帯びた言葉。心強さと同時に、その双肩へ圧し掛かる重さを突きつけられ、私はめまいを覚えた。怯えてばかりではいられない――そう自分に言い聞かせる。
レオンはすぐに書斎へ向かい、羊皮紙とインクを取り出すと、迷いのない筆致で文を綴り始めた。羽ペンが羊皮紙を削るように走り、カリカリという音が室内に鋭く響く。それはまるで、戦いの開始を告げる合図のように思えた。
やがて書き終えた手紙に赤い蝋を垂らし、リューンハイム家の紋章を力強く押し付ける。従者を呼びつけ、厳格に命じた。
「これをただちに侯爵閣下へ。三日以内に届けろ。馬が倒れれば次の村で替えろ。何があってもだ」
蒼白な顔で頷いた従者は、手紙を抱いて駆け出した。
その背中を見送り、レオンは深く息を吐いた。
「数日後には守りも固まる。それまでは……気を緩めるな。特にエドワードからは目を離さないでくれ」
そのとき、窓の外で枝を振っていたエドワードが、得意げにこちらへ手を振った。私は笑顔を作って応じたが、胸の奥では心臓を内側から掴まれるようなざわめきが強くなっていた。
――援軍が到着するまでの三日間。
嵐が訪れるなら、その隙を狙うはず。
ごうと一段と強い風が吹き込み、窓辺の重いカーテンを大きく揺らした。まるで見えざる闖入者が屋敷に忍び込もうとしているかのように。
アレクシスとの過去を清算し、息子と始めるはずだった新しい暮らし。守るための戦いはすでに始まっていたのだ。
私はレオンの背を見つめ、静かに、しかし強く覚悟を決めた。
母の腕は剣にはならない。だが、息子の笑顔を守る盾にはなれる。彼と共に、戦うのだ。