36. 告げられた影
夕暮れの鐘が遠くの街から風に乗って届き、一日中立ち込めていた霧がゆっくりと夜の闇に溶けていく。屋敷の窓に次々と灯りがともる中、レオンが戻ったのは、空が最後の茜色を紫紺に明け渡そうとしている頃だった。
彼の纏う重厚な外套は夜の湿り気を含み、肩にかかる黒髪は森の雫を宿したようにしっとりと濡れていた。
「叔父様!」
玄関ホールで彼の帰りを待ちわびていたエドワードが、真っ先に駆け寄る。小さな手は、レオンが視察のついでに拾ってきた苔むした枝や色づいた落ち葉へと伸ばされた。
「また泉へ行かれたのですか? 今度は僕も連れて行ってください!」
「いいや、今日はただの視察だ。お前にはまだ早い場所もある」
レオンは努めて声を和らげ、大きな掌を少年の頭にぽんと置いた。その無骨で温かな仕草に、エドワードの膨れっ面もたちまち誇らしげな笑顔に変わる。
私は壁際に立ち、そのやりとりを見守りながら胸騒ぎを覚えていた。慈愛をたたえるレオンの瞳の奥には、隠しきれない鋭い光が潜んでいる。それは獲物を見据える獣の眼であり、戦場の騎士の眼差しだった。
***
夜。エドワードを寝室に送り、物語を読んで眠らせた後、私は静まり返った書斎に彼を招いた。暖炉の火だけが、壁一面の書物と重厚な家具に揺れる影を落としている。
革張りの椅子に深く腰掛けたレオンは、しばらく炎を見つめたまま沈黙していた。
「……昼間の森で、何かあったのね」
問いかけに、彼は短く視線を動かすと、懐から小さな布切れを取り出し、机に置いた。
濃紺の布地は霧の湿気を吸い、重く沈んでいる。庶民の衣ではない。上質な外套の一部。触れるのもためらわれる、不吉な存在感があった。
「泉の近くで見つけた。庶民の猟師ではない。訓練された兵、あるいは騎士団の装いだ」
「兵……ということは……」
「俺たちの居場所を探る者が、この森を使っている可能性が高い」
焚き火の跡、人影の気配、そしてこの布。
バラバラだったピースが繋がり、恐ろしい絵が形を結んでいく。私は指先の震えを抑えきれず、机の縁を強く握った。
「……アレクシスの、差し金なの?」
声に出した瞬間、あの男の冷笑が脳裏をよぎり、胸が締め付けられた。
レオンは目を細め、静かに言った。
「断定はできない。兄上か、あるいはリューンハイム家の政敵か。だが、誰かが動いているのは確かだ」
私は息を詰めた。「また……平穏は奪われてしまうの?」
震える声に、彼は立ち上がり、そっと私の肩に手を置いた。
「奪わせはしない。俺がいる限り、ルシアとエドワードに危害は及ばせない」
その誓いは暗闇に差し込む光だった。けれど、私の胸に残ったのは安堵だけではない。
愛か、依存か。その境目が怖かった。
「レオン……ありがとう。でも、あなたひとりに、これ以上全部を背負わせてはならないわ」
震える声に、彼は淡い、寂しげな笑みを浮かべた。
「俺は望んで背負っている。……だから信じろ」
暖炉の火がはぜる音だけが、静かな書斎に響いた。
外では風が森を揺らし、帳の向こうに潜む影を告げている。
直感は冷たく未来を警告していた。
それでも私は、彼の言葉と温もりに縋るように、固く目を閉じた。