35. 森の奥に潜むもの
森はまだ朝の霧に深く覆われ、木々の枝の先からは銀色の水滴が、ぽたり、ぽたりと静寂を破るように落ちていた。その冷たく湿った空気が、肌を刺す。
レオンは馬を下り、手綱を片手に掛けたまま、音を立てぬよう慎重に歩を進めた。目指すのは、昨日エドワードと足を踏み入れた泉のほとり。子供の無邪気な冒険の場が、一夜にして疑念の渦巻く場所へと変わっていた。
ぬかるんだ土の上に残る足跡は、昨日のものよりも明らかに新しい。しかも、ただの足跡ではない。大人の男が履く、硬い革底のブーツの跡が複数。三人分……いや、もっとか。
「……やはり、通っている者がいるな」
かすかな声でつぶやき、しゃがみ込む。泥の上に深く沈んだ跡は、ただ歩いているだけではない。重い荷を背負っているか、鎖帷子のような鎧を身につけている者の重み。歩幅も一定で、訓練を受けた者のそれだった。
泉の水面は霧のせいで白く濁っている。そのほとりには焚き火の跡。まだ黒々とした炭が湿った下草の間に散らばっていた。
レオンは手袋越しに灰を掬い、温度を確かめる。――まだ冷め切ってはいない。昨夜、深夜から未明にかけて使われたものだ。
「……ただの猟師、ではないな」
獲物を解体した痕跡も、罠の跡もない。それどころか、焚き火の配置は軍人が野営に使うものに酷似していた。
その瞬間、馬が鋭く鼻を鳴らした。ほぼ同時に、湿った枝の軋む音が霧の奥で響く。
剣の柄に自然と手が伸びる。霧の奥に、一瞬、人影が揺れた――が、すぐに掻き消えた。
「……気のせい、か」
そう呟きながらも、体は疑念を否定しなかった。
視線を巡らせると、茨の茂みに小さな布切れが引っ掛かっていた。濃紺のウール地で織られた外套の切れ端。庶民の粗末なものではなく、貴族や上級兵士が纏うような高価な布。
レオンはそれを拾い上げ、眉を寄せる。胸に鋭い疑念が走った。
――この森は、この屋敷は、監視されている。
相手は誰だ。アレクシスの差し金か、それともリューンハイム家の政敵か。
***
一方その頃、屋敷の読書室では、暖炉の火がぱちぱちと穏やかな音を立てていた。
私はエドワードと共に、埃をかぶった書棚の古い本を整理していた。
「母上、この本はラテン語ですね。僕、まだ単語しか読めません」
重たい革表紙を抱え、エドワードが目を輝かせて尋ねる。
「ええ、とても古い叙事詩よ。あなたが中等科に通うようになれば、いずれ全部読めるわ」
息子の問いに笑みで答えながらも、心は落ち着かなかった。窓の外に広がる霧、その奥へ消えていったレオンの背中が瞼から離れない。
エドワードと交わす穏やかな会話の裏で、胸を締めつけるのは得体の知れない不安だった。
彼は必ず帰ってくる。けれど、そのときには、このささやかな平穏を脅かすものを抱えている――そんな予感が拭えない。
アレクシスとの過去が、私を臆病にさせているのだろうか。裏切りを知った魂は、幸せを感じる前に、不安の影を探してしまう。
ふと、窓の外で風が唸り、白い霧の帳が大きく揺れた。まるで森の奥で何かが目覚めたかのような、不吉なざわめき。
新しい暮らしの傍らに、まだ見ぬ危機が忍び寄っていることを、このときの私は、まだ知る由もなかった。