34. 学び舎への思い
翌朝、薄い霧が屋敷の周りをヴェールのように包み込み、窓の外は乳白色に霞んでいた。昨夜のレオンとの会話が胸に残り、浅い眠りのまま迎えた朝、私は落ち着かぬ気持ちで階下へ向かった。
食堂に入ると、すでにエドワードは席に着き、暖炉の柔らかな光の下で、真新しい羊皮紙に熱心に何かを書きつけていた。
「まあ、朝から熱心ね。何をしているの?」
背後から覗き込むように問いかけると、エドワードはインクで少し汚れた指先を隠すように顔を上げ、照れくさそうに笑った。
「母上。昨日の泉の場所を地図に残しておこうと思って。叔父様が、目印になる木や岩の形を覚えておくと道に迷わないと教えてくださったんです。でも……思うように線が引けません」
彼が描いた拙い地図には、泉を示す歪な円と、そこへ至る点線が記されていた。その表情はまだ幼いが、自分の力で何かを成し遂げようとする誇らしさに満ちていた。
十一歳になったばかりの彼は、あらゆることを吸収しようとする学び盛りの年頃だ。侯爵家にいた頃は高名な家庭教師がついていたが、今は新しい暮らしの中で、あの子の未来をどう築いていくかを考え直さねばならない。
そこへ、レオンが食堂に入ってきた。彼はエドワードの地図を肩越しに覗き込み、穏やかに頷いた。
「なかなか筋がいいな、エドワード。次は方角も書き入れてみるといい」
そして彼は、温かいミルクを口に運びながら、ふと私に視線を向けて言った。
「そろそろ中等科に通う年齢だな」
その一言に、エドワードの瞳が期待で大きく輝いた。
「本当に? 僕も学校に通えるのですか?」
「もちろんだ。剣や学問を本格的に身につけるには、優れた師や仲間との出会いも必要だ。この森に隠れているだけでは、お前の世界は広がらない」
レオンの力強い言葉に、エドワードは一瞬顔を輝かせたが、すぐにその光は翳りを見せた。
「……でも、僕の立場は。父上は……」
『リューンハイム侯爵家の嫡男』。その言葉が、今の彼にとってどれほど重く、不安定なものか。エドワードが小さく視線を伏せたとき、私はその肩を抱き、そっと言葉を添えた。
「大丈夫よ、エドワード。あなたはあなたのままでいていいの。勉強も剣も、未来のあなたを守る力になるわ。何も心配いらない」
そう語りかけながら、私の胸の奥では複雑な思いが渦巻いていた。
――いずれエドワードの出生と立場は避けられない問題となる。
レティシアの懐妊は、都の社交界ではすでに公然の秘密。やがてアレクシスの子が生まれれば、それがたとえ庶子であっても、リューンハイム家の血を引く者として存在を主張するだろう。義父上たちは「エドワードこそが唯一の嫡男だ」と言ってくださる。けれど、たとえどんな断言があっても、貴族社会の権力争いは約束を容易く覆す。
それでも、今だけは。この子の純粋な探求心を、未来への不安で曇らせたくない。
彼に「学ぶ楽しみ」と「仲間と過ごす時間」を与えてやりたいと、強く願わずにはいられなかった。
朝食を終えると、レオンは腰に剣を佩き、森へ再び視察に出かける準備を整えた。
「昨日の痕跡をもう少し詳しく調べておきたい。何者かがこの森を定期的に使っている可能性がある。二人は決して屋敷から出ないでくれ」
彼は軽くそう告げたが、その声には昨日よりも明らかな硬さがあった。それは私とエドワードを安心させるための言葉ではなく、紛れもない警戒の色だった。
引き止めたい衝動をぐっと飲み込み、私はただ頷くことしかできなかった。「気をつけて」という言葉さえ、彼の覚悟の前ではあまりに軽く響く気がした。
窓辺で本を開くエドワードの横顔を見つめながら、胸の奥が冷たくざわめく。
――息子の未来と平穏を守るためには、レオンの存在が不可欠。
だが同時に、兄の過ちのつけを彼ひとりに背負わせ続けていいのだろうか。私は彼を愛しているから惹かれるのか、それともただ縋っているだけなのか。答えの出ない問いが心を苛む。
霧が晴れゆく森の奥深くへ、レオンの姿が消えていく。その先には、見えない何かが潜んでいる気がしてならなかった。
新しい暮らしは確かに始まった。けれど、その道の先に待つものが穏やかな光だけではないことを、私たちはもう知っている。