33. 森へ続く道
昼下がりの柔らかな光に誘われるように、エドワードとレオンは森へと向かった。
首都の喧騒と、アレクシスの裏切りが残した深い傷跡から逃れるようにして辿り着いたこの屋敷での、初めての穏やかな午後だった。庭を駆け抜けていく二人の背を見送りながら、私は玄関先でしばらく立ち尽くしていた。
今年十一歳になったばかりのエドワードは、まだ小柄な体つきながらも、背筋をぴんと伸ばし、幼さと少年らしい自負を同時に漂わせていた。
少し大きめの仕立ての良い外套を羽織り、危なげな足元をさりげなく庇うレオンと並んで歩く姿は、親子というよりも――師と弟子。あるいは、血の繋がり以上に固い絆で結ばれた、兄と弟のようでもあった。
あの日、離縁を決意した私とエドワードのために、義父上と義母上が必死に探してくださった隠れ家。そして、兄の犯した罪を背負うように、私たちを守ると誓ってくれたレオン。彼の横顔を見るたび、感謝と共に、許されぬ想いが胸を締め付ける。
馬の嘶きが遠ざかっていくと、古い屋敷はふたたび静けさに包まれた。
私は気を取り直して使用人たちに声を掛け、片付けや掃除に精を出す彼らを手伝う。皆、リューンハイム侯爵家から、私とエドワードのためにと選ばれて付き従ってくれた忠義深い者たちだ。慣れない環境に戸惑いながらも、新しい暮らしを整えようとする彼らの表情には、どこか希望が宿っていた。
「奥様、こちらの食器棚はこの部屋でよろしいでしょうか?」
まだ年若い侍女がたどたどしく尋ねる。
「ええ、そのままでいいわ。ありがとう」
小さな工夫や一つひとつの確認が、この家を少しずつ“我が家”に変えていくのだと思うと、胸が温かくなった。侯爵夫人として生きてきた日々とは違う、ささやかで、けれど確かな手触りのある暮らし。これこそが私が求めていたものなのだと、自分に言い聞かせる。
それでも――ふとした瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。
笑顔で「行ってきます」と告げたエドワード。あの子はまだ、父親がなぜ自分たちを捨て、別の女性を選んだのかを本当の意味では理解していない。レティシアという女性が懐妊したという噂が、いずれエドワードの耳に入ったら……。リューンハイム侯爵家の嫡男である息子の立場が、異母弟の誕生によって脅かされる日が来るのではないか。
その無邪気さを信じながらも、どこかで私は怯えているのだ。あの人たちが、このささやかな平穏さえも奪いに来るのではないかと。
夕刻、待ちわびていた馬の蹄の音が再び近づいてきた。
窓から覗くと、レオンの馬の後ろに、森で集めたらしい木の枝を誇らしげに抱えたエドワードの姿が見えた。頬を赤く染め、満ち足りた笑みを浮かべているその表情は、朝よりも少しだけ逞しく見える。
「母上!」
玄関先で私を見つけると、エドワードは駆け寄ってきた。土と緑の匂いがふわりと香る。
「叔父様に木剣の構えを教えていただきました!それに、森の奥には小さな泉があって、水がキラキラ光っていました」
興奮気味に話す息子の言葉に、私はただ頷き、その柔らかな髪を撫でる。無事に帰ってきてくれた――それだけで胸がいっぱいになった。アレクシスが与えられなかった父親の温もりを、レオンが与えてくれている。その事実に、安堵と切なさが同時に込み上げた。
レオンは黙って馬を繋ぎながら、ちらりと私に視線を送った。
その目には「心配するな」と言うような穏やかさと同時に、何かを鋭く測るような影が潜んでいた。私は彼のそばへ歩み寄り、声を潜めて尋ねた。
「危ないことはありませんでしたか?」
「ああ、問題ない。エドワードも楽しんでいた」
彼はそう言って私の不安をいなしたが、そのブーツに、森の土のものにしては異様に重たげな黒い泥が微かに付着しているのを私は見逃さなかった。エドワードが「泉のほとりで獣の足跡を見た」と話していたが、レオンはその話題を巧みに逸らした。
森で何を見たのか。彼が語らなかった部分に、私は小さな棘のような違和感を覚えた。
その夜、エドワードが眠りについた後、私は書斎のレオンを訪ねた。
「レオン、お疲れのところごめんなさい。……昼間の森のこと、何か気になることでもあったの?」
彼は地図を広げ、森の一角に印をつけていた。私の問いに、彼はペンを置き、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、昼間とは違う、騎士としての光が宿っていた。
「いや……少し気になる痕跡があっただけだ。おそらく猟師のものだろうが、念のためだ」
「痕跡……?」
「この土地は静かだが、人の出入りがないわけではない。……お前たちを守る以上、どんな些細なことも見逃せない」
彼はそれ以上を語らなかったが、その真摯な眼差しが、彼の覚悟を物語っていた。兄に代わり、私たちを守るという彼の決意。その強さに惹かれ、寄りかかってしまいたい自分と、彼の優しさにこれ以上甘えてはならないと戒める自分がせめぎ合う。
――新しい暮らしの始まり。
それは、アレクシスとの過去から決別し、息子と二人で生きるための第一歩だった。
けれどその先には、まだ知らぬ森の深みのように、私たちを待ち受ける運命があるのかもしれない。
そしてその暗闇を共に歩んでくれるであろうレオンとの未来を、私は恐れながらも、どこかで望み始めていた。