32. 新しい暮らし
新しい邸宅で迎える朝は、驚くほど静かだった。
侯爵邸では早朝から足音や話し声が絶えず響いていたが、ここでは鳥のさえずりと、窓辺に差し込む光がゆっくりと部屋を満たしていく。
カーテンを開けると、冬の澄んだ空気の中、白い息を吐きながら庭で木の枝を拾っているエドワードの姿が見えた。
手袋越しに小枝を抱え、侍女のアンナに笑いかけている。
その傍らには、腕を組みながらも目を離さず見守っているレオン。
ふとエドワードが何かを尋ねると、レオンは片膝をつき、枝で地面に何やら線を引きながら説明していた。
エドワードは笑顔で頷きつつも、何かお互いだけの言葉を交わしているようだ。
――あの距離感。
父親ではないけれど、父親のように、男同士で交わす秘密めいたやりとり。
本来なら本当の父親がそこに居るのが理想なのだろう。けれど、エドワードの中では、レオンがすでにその存在になっているのかもしれない。
私はその光景を、胸の奥にそっと刻んだ。
朝食の席では、まだ慣れない給仕の使用人たちが少し緊張していた。
「大丈夫よ、ゆっくりでいいわ」そう声を掛けると、彼らの表情がわずかに和らぐ。
侯爵家から同行してくれた侍女や執事、新たに雇われた若い使用人たち――この家には、これから私たちと共に歴史を築く人々が集まり始めていた。
食後、外套を羽織ったレオンが声をかけてきた。
「午後から近くの森を見に行こうと思う。エドワードの遊び場になりそうな場所がある」
少し間を置き、「成長していけば、剣の稽古にも使えそうな場所だ」と続ける。
その言葉にエドワードの瞳がきらりと輝いた。
「母上、僕も叔父様と一緒に森へ行ってきます。帰ってきたらお話しますね。だから、待っていてください」
「そう、エドワード。良かったわね。叔父様にご迷惑が掛からないよう、気を付けて行ってきてね」
「レオン、いつもありがとうございます」
私がそう言うと、彼は軽く首を振った。
「気にしなくていい。俺が望んでしていることだからな」
そして、エドワードに笑みを向ける。
「さあ、馬の乗り方も教えてやる。まずは森へ行こう」
「はい! 叔父様!」
二人の高らかな笑い声が、冬空に明るく響いた。
この家での暮らしを思い描きながら、私は自然と口元がほころんだ。
――ここから、新しい日々が始まる。
過去の痛みは消えない。
けれど、この家に満ちる新しい空気は、確かに未来へと続いている。
小さな食器の音、笑い声、そして穏やかなまなざし。
そのすべてが、これからの日々を形づくっていくのだと、私は信じた。
そしてふと、胸の奥で小さなざわめきがよぎる。
この穏やかな日常が、いつまでも続けばいい。――けれど人生は思いがけない出来事を運んでくる。
まだ誰も知らない未来の扉が、静かに開こうとしていることを、このときの私は知る由もなかった。