31. 新しい邸宅へ
アレクシスとの最後の対面は、重く、そして冷たく終わった。
応接室を出た瞬間、背後で扉が静かに閉じられる音がした。その音は、私の過去に最後の鍵をかけるように響いた。
廊下に出ると、冬の午後の光が長い窓から差し込み、床の大理石を白く照らしている。けれど、その光は不思議と温かみを感じさせなかった。
数歩先で、レオンが私の歩みに合わせて並んだ。
「……お疲れさま」
低く落ち着いた声に、私は小さく頷く。
その瞬間、張り詰めていた胸の奥の糸が切れ、息が浅くなるのを感じた――けれど、涙は出なかった。泣くべき時は、もう過ぎてしまったのだ。
これからの数日のうちに、私はエドワードと共に侯爵家を離れる。
義父母が新しく整えてくれた邸宅へと移るのだ。
「嫡男であるエドワードの将来を考えれば、安心して暮らせる場所を」と――そう言って、義父母は私たちのために広々とした屋敷を用意してくれた。
その申し出に、心から感謝している。あの方たちはアレクシスの過ちに対して直接謝罪することはなかったが、その行動そのものが誠意の表れだった。
レオンも、私と一緒にその邸宅へ移る。
護衛として――そして、この一年以上、ずっと私とエドワードを見守ってくれた人として。
あの日から、彼はエドワードの成長の節目ごとに寄り添い、私の迷いや不安を黙って受け止めてくれた。
その温かさが、どれほど私を支えてきたことか。
エドワードは男の子。
母親だけでは分かち合えない部分が多いことを、彼が成長するにつれてひしひしと感じるようになっていた。
そんなとき、「もし父親がそばにいたら」と思うこともあった。
けれど、アレクシスは必要な時に近くにいてくれなかった。
その穴を、レオンがさりげなく埋めてくれた。
彼の存在は、エドワードにとって、男としての役割や男としての愛情を、言葉ではなく自然に伝えてくれるものだった。
私自身も、そんな二人の姿に幾度となく救われてきたのだ。
「……新しい家を見に行ったけど、庭が広い。エドワードが喜ぶと思う」
レオンはそう言い、少しだけ笑った。
その笑みは、春先の陽光のように柔らかく、私の中の凍った部分を少しだけ溶かしていく。
◇◇◇
数日後、引っ越しの馬車が屋敷の前に並んだ。
冬の空気は冷たく澄み、吐く息が白く漂う。
玄関前には、見慣れた使用人たちが並び、別れの挨拶をしてくれていた。
エドワードはまだ幼いが、今日が特別な日であることを感じ取っているのだろう。
きちんとコートを着せられた小さな身体が、少し緊張して私の手を握っている。
「母上……新しいお家、どんなところ?」
「ええ、とても明るくて、あなたの好きな花を植えられる庭もあるわ」
そう言うと、エドワードの瞳がぱっと輝き、小さな口元が笑みに変わった。
レオンが荷馬車の積み込みを確認してから、私たちの方へ歩み寄る。
「準備は整ったよ。……出発しよう」
その声音には、護衛としての冷静さと、家族を送り出すような優しさが同居していた。
馬車が動き出すと、侯爵邸がゆっくりと遠ざかっていく。
私は窓の外を見つめながら、胸の奥でそっと呟いた。
――さようなら。
私の結婚生活と、苦い思い出の場所。そして、エドワードを授けてくれた場所。
この瞬間が来ても、私は後悔はしない。過去は過去として、確かに胸の奥にしまっておく。
◇◇◇
新しい邸宅は、街の喧騒から少し離れた高台にあった。
白い外壁と赤茶色の屋根が冬空に映え、敷地を囲む石造りの塀の向こうには、広々とした庭が広がっている。
門をくぐると、空気がふっと軽くなった気がした。
「わあ……!」
エドワードが真っ先に駆け出し、まだ雪の残る芝生の上を走り回る。
その姿を見て、自然と口元がほころんだ。
レオンが隣で小さく笑い、「……いい場所だな」と呟く。
私は深く息を吸い込んだ。
冷たい冬の風が肺にしみるが、それは痛みではなく、新しい始まりの合図のように感じられた。
もう、過去に縛られる必要はない。
ここから、私とエドワードは、家族や侍女、使用人たち──そばで支えてくれる人々と共に、自分たちの力で歩む日々を始めるのだ。