29. 静かなる対面
離婚の手続きは、エーベルハルト伯爵家の執務室で淡々と進められていた。
しかし形式上、双方が顔を合わせ、互いの口から意思を確認する場は避けられない──そう進言したのは、ルシアの父、エーベルハルト伯爵だった。
「互いの言葉で終わらせねば、後々尾を引くことになる」
その声音には、娘を思う親としての情と、長年の政治経験からくる冷静さが入り混じっていた。
ルシアはしばし黙っていたが、やがて頷いた。父の言葉が正しいと、心のどこかで理解していたからだ。
数日後の午後、侯爵邸の応接室に、アレクシスが現れた。
整えられた髪も衣服も、以前と変わらぬ優雅さを保っていたが、その表情には疲労と焦燥の影が色濃く刻まれている。
ルシアは椅子に腰掛け、膝の上で両手を静かに組んでいた。彼女の背後には、黙って控えるレオンの姿があった。
扉が閉じられると、部屋の中に静寂が満ちる。
やがて、アレクシスが低く押し殺した声で口を開いた。
「……ルシア」
胸の奥が微かにざわめいた。かつて愛した人の呼びかけは、今や遠い過去の幻影のようだ。
「座って。今日で、すべてをはっきりさせましょう」
ルシアの声は静かだが、揺るぎない響きを持っていた。
アレクシスは一歩近づき、目を伏せたまま言葉を探すように沈黙する。
やがて、苦しげに吐き出すように口を開いた。
「……俺は、お前とエドワードを手放したくなかった。ただ……レティシアを、ほっとけなくて、守らねばならなかったのだ」
その瞬間、ルシアの胸の奥で、冷たい何かが音を立てて崩れた。
「ほっとけなくて……守る?」
その響きを反芻するうちに、怒りと哀しみが同時に湧き上がる。
「そして、一年以上、私たちのもとへは帰って来なかった。あなたは、私とエドワードのことを、一度でも真剣に考えたことがあるのかしら? レティシア様はほっとけなくて守りたいのに、私たちは放っておいても構わない存在だったのね」
アレクシスは苦しげに顔を上げた。
「……すまなかった。そんなつもりは無かったんだ。本当に……すまない」
しかし、その短い言葉で埋められるほど、積み重なった痛みも子どもの涙も軽くはなかった。
ルシアは冷ややかに続ける。
「謝って済むことではないわ。エドワードがどれほど傷ついたか、考えたことはある? 浮気をして、執務も放棄した父親が、彼に何を残せるの。侯爵家を継ぐことを考えたら、そんな軽はずみな行動は取れなかったはずです」
アレクシスは言い返そうとしたが、言葉は喉で途切れ、そのまま沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、背後のレオンだった。
「兄上、これ以上ルシアを苦しめる話はやめてくれ。俺たちは、これからのことを話し合いに来たはずだ」
その一言に、ルシアはほんのわずかに救われる思いがした。
アレクシスはレオンを睨みつける。
「……レオン、なぜお前がここにいる」
その声音には、兄としての威厳よりも、苛立ちと不安が滲んでいた。
「兄上がずっと侯爵家を留守にしていた間、俺と両親が彼女とエドワードを支えてきた。何もしてこなかった兄上に、とやかく言われる筋合いはない。……エドワードの成長期を見守るのは、父親の役目だったはずだ」
アレクシスは深く息を吐き、視線を落とした。
レオンの言葉は否定できない。自分は家族を捨て、独身時代のようにレティシアに夢中になっていた。
そして今さらながら、彼女が自分の子を身籠ったという事実が、貴族としての自分の立場をさらに危うくしていることに気づく。
リューンハイム侯爵家から認められぬまま、婚外の子を授かったという現実──それは、名誉にも家にも重い汚点を残すものだった。
この離婚は、彼にとって敗北であり、手放したくないものを手放す痛みだったのかもしれない。
だが、ルシアにとっては――ようやく掴んだ自由への第一歩だった。