28. アレクシスの揺らぐ執着
時は、ルシアが侯爵家を去る数日前に遡る。
湖畔の別荘は、冬の陽射しを受けて淡く輝いていた。
外は吐く息も白く凍るほどの冷え込みだが、広間の暖炉には大きな薪がくべられ、柔らかな炎がゆらめいている。
その温もりの中で、アレクシスは長椅子に身を預け、深紅のワインをゆっくりと揺らしていた。
机の上には侯爵邸から送られてきた公文書や手紙が山積みになっている。
封蝋はまだ切られておらず、執事が何度も「お目通しを」と促したにもかかわらず、彼は一瞥しただけで手をつけようとしなかった。
――侯爵家の主としての義務より、今はこの静けさを優先したかった。
「ねえ、アレクシス」
背後から、柔らかくも探るような声が降りてくる。
振り向けば、レティシアが手にしたショールを肩から滑らせ、ゆったりと歩み寄ってきていた。
彼女はアレクシスの隣に腰を下ろし、少し間を置いてから問いかける。
「本当に……あの人と別れるつもりなの?」
その声音は甘やかだが、瞳の奥に光るものは冷静な計算だ。
アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、グラスを口元に運んだ。
深紅の液体が舌を満たすと、胸の奥に小さな苛立ちとためらいが広がる。
「……ルシアも、エドワードも、大切な家族だ」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
「だが――君を手放すことはできない」
レティシアの唇にゆるやかな笑みが浮かぶ。
その笑みは、勝利の確信か、それとも試すような挑発か。
アレクシスは自分でも分からなかった。
ルシアとの日々を、決して嫌っていたわけではない。
むしろ、あの穏やかで落ち着いた時間は、彼の心を安らがせていた。
だが、レティシアといるときは、理性の鎖が外れ、ただ一人の男として生きていると感じられた。
どちらも手放したくない――その欲が、彼の判断を鈍らせていた。
「優しい人ね」
レティシアは囁き、指先で彼の手を包み込んだ。
その温もりは甘く、同時に逃れられない罠のようでもあった。
窓の外では、冬の湖面が淡く金色に染まり、時折冷たい風が水面を震わせている。
その揺らめきが、アレクシスの心の迷いと重なった。
彼はまだ知らない。
優柔不断なその一瞬一瞬が、ルシアの心を遠ざけ、やがて完全に手の届かない場所へと追いやってしまうことを。
暖炉の薪がぱちりと弾ける音だけが、広間に響いていた。
その音は、静かな幸福の予兆ではなく、ひび割れて崩れていく関係の合図に思えたが――
アレクシスはあえて耳を塞ぎ、グラスを傾け続けた。