27. 夜明けの約束
侯爵邸に戻ったルシアの行動は早かった。
実家のエーベルハルト伯爵家の後押しもあり、離婚の申し入れは正式な書面としてアレクシスに通達された。
侯爵家の両親――すなわち義父母は、この知らせに深く眉をひそめた。
「エドワードはこの家の嫡男だ。その座は、何があっても譲らぬ」
義父の声には揺るぎない決意があった。
義母もまた、レティシアを屋敷に迎えることは断固として拒み、アレクシスを厳しく叱責した。
しかし、アレクシスの不貞とレティシアとの関係は既に貴族社会に知れ渡っており、ルシアがこの屋敷に留まれば、彼女とエドワードの尊厳をさらに傷つけることになる。
「……お前が望むなら、出るがいい。だが、いつでも帰ってこられるようにしておく」
義母の瞳は、娘に向けるような温もりを帯びていた。
それは、ルシアとエドワードを心から思いやる、苦渋の決断だった。
エドワードはすべてを察していた。
「母上、僕は母上と一緒にいます。どこへでも」
幼いながらも気丈にそう告げた息子の手を、ルシアは強く握りしめた。
この小さな手だけは、何があっても離すまいと心に誓う。
その間、レオンは法的な手続きから新しい住まいの手配まで、ルシアとエドワードのために奔走した。
兄の不始末に対する贖罪のつもりではあったが、それ以上に、彼は一人の男としてルシアを守りたかった。
手続きの合間、彼はそっとエドワードの髪を撫で、疲れた顔のルシアに温かい飲み物を差し出した。
「無理はしないでください。……あなたは、十分戦ってきた」
その声に、ルシアの胸の氷がほんの少しだけ溶けた。
数週間後、すべての荷造りを終えた朝。
ルシアは、エドワードと共に侯爵邸の中庭を歩いていた。もうすぐ、この家を出ていく。
冬の朝靄の中、裸木の枝に霜が光り、小鳥のさえずりが遠くで響く。
その穏やかな光景が、これまでの嵐のような日々を遠い夢のように感じさせた。
そこへ、レオンが静かにやってきた。
「……本当に、これで良かったのか」
彼の声には、深い心配と名残惜しさが滲んでいた。
ルシアは穏やかに微笑み、頷く。
「ええ。とても苦しかったけれど、今は嵐が過ぎ去った後の朝のように、心が静かなの。やっと、自分の足で立てる気がするわ」
その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「これからは、自由だ」
レオンは、ルシアの隣に立ち、同じように朝の空を見上げる。
「どこへでも行ける。何にでもなれる」
そして、彼はゆっくりとルシアに向き直った。
「……俺も、そばにいていいだろうか。弟としてではなく……ただ一人の男として、君とエドワードを守りたい」
真摯な瞳が、まっすぐにルシアを射抜く。
その熱のこもった告白に、ルシアは驚いて目を見開いたが、すぐに頬がほのかに色づいた。
すぐに答えは出せない。傷ついた心は、まだ完全には癒えていないのだから。
けれど、彼女はこぼれるような微笑みを彼に向けた。
「……ありがとう、レオン。あなたのその言葉が、今は何より嬉しいわ」
それは拒絶ではない、確かな希望の光だった。
裏切りと悲しみの長い夜が明け、新しい朝が来た。
失ったものは大きい。だが、それ以上に大切なもの――息子との絆と、自分自身の尊厳、そして未来への扉を手に入れたのだ。
絡み合った運命の糸は、一度は千切れた。
しかし、その先で、きっともっと強く、美しい絆が結ばれていく。
冬の冷たい空気の中、ルシアは確かな一歩を、光の差す方角へと踏み出したのだった。