26. 決別の指輪
数日後の朝。
冬の白光が、カーテンの隙間から細く差し込み、漂う微細な埃を銀色に照らしていた。
ルシアは机に向かい、筆を握る指先に迷いはない。便箋の最後の一行へ、静かに文字を置いた。
――父上へ。すべてをお話しいたします。そして、私の決意も。
インクの匂いが、冷たい空気の中で濃く漂う。
その香りは、彼女の中に残っていた最後の迷いを、ゆっくりと締め固めていく。
もはや涙はなかった。悲しみはとうに凍りつき、硬質な覚悟に変わっていた。
封を固く結び、侍女へと託す。
そして、最も速い馬車を呼び、護衛も連れずに郊外の別荘へ向かうよう命じた。
馬車は石畳をガタガタと揺らし、冬枯れの景色を背景に進む。
窓外の風が頬を刺すたび、胸の奥に隠してきた古傷が、きしむように疼く。
幸福だった頃の記憶が、皮肉な幻となって浮かび、すぐに霧のように消えていった。
――あの日の誓いは、どこで崩れ落ちたのだろう。あの温もりは、いったいどこへ。
やがて馬車は止まり、ルシアは静かに降り立った。
屋敷の重い扉を、自らの手で押し開ける。暖炉の薪がはぜる音と、甘ったるいワインの香りが、神経を逆撫でした。
そして、目に飛び込んできたのは――予感していた、あまりに生々しい現実だった。
ソファに身を沈め、満ち足りた表情で腹を撫でるレティシア。
その肩を包み込み、愛おしげに見つめるアレクシス。
二人の周囲だけが、まるで別の時間を生きているかのように、ゆったりと完結していた。
そこに、ルシアとエドワードの居場所は一欠片もない。
ルシアの顔は、驚くほど静かだった。
「……ルシア……!?」
最初に気づいたアレクシスの顔から、さっと血の気が引く。
弾かれたようにレティシアから身を離した。
一方、レティシアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに唇の端を持ち上げた。
それは、勝者だけが浮かべる薄い笑み。
「あら、奥様。こんな所までおいでになるなんて」
声は柔らかく、だがその奥には鋭い棘が潜んでいる。
「ご覧の通り、アレクシスは今、私とこの子のことで大切な時期ですの。……何かご用でしたら、後日にしていただけます?」
「レティシア、やめろ!」
アレクシスが慌てて遮るが、その言葉はもう遅かった。
「お話があります、アレクシス」
ルシアの声は、冬の湖面の氷を思わせる冷たさと澄明さを帯びていた。
「――二人きりで」
有無を言わせぬ気配に押され、アレクシスは不承不承といった様子でレティシアを別室へ下がらせる。
二人きりになった途端、部屋の空気は重く淀んだ。
「ルシア、これは……違う、誤解なんだ! 君が思っているようなことでは……」
「誤解?」
静かな声音が、かえって鋭く響く。
「では、先ほどの腕は何のために彼女を抱いていたのです? その眼差しは、誰に向けられたものでしょう? ……私には到底、崇高な理由など思いつきませんが」
皮肉に満ちた言葉に、アレクシスは口をつぐむ。
「――あなたは、新しい家族を選んだ。それだけです」
淡々と放たれた一言に、彼は狼狽し、必死に手を伸ばした。
「待ってくれ、ルシア! 頼むから話を聞いてくれ! すべて俺が悪かった……だが離婚だけは……! 世間が何と言う! エドワードの将来はどうなる! お前がいなければ、このリューンハイム侯爵家は……!」
その言葉が、ルシアの胸の最後の箍を外した。
「世間体ですって? エドワードですって?」
声が震え、しかし一語一語が鋭く突き刺さる。
「この一年、あなたが彼女の元へ通う間、私とあの子がどれだけ寂しい夜を過ごしたか……一度でも考えたことがありますか!?」
込み上げる激情が、とうとう堰を切った。
「あなたはいつも自分のことばかり! 過去の美しい思い出と、目の前の欲望に浸って……家族も、エドワードの心も、あなたは一度でも本気で守ろうとしたのですか!」
それでも、涙は落ちなかった。
怒りと絶望が、悲しみを焼き尽くしていた。
やがて、彼女は左手を上げ、薬指の冷たい輝きに触れる。
「……もう結構です」
そっと指輪を抜く。
その小さな金属の冷たさと重みを、別れを告げるように指先で最後まで確かめ、暖炉前のテーブルへ置いた。
カラリ――。
その乾いた音は、誓いと年月を断ち切る刃の音だった。
「あなたと過ごした日々を、これから私がどう記憶するか……それは、私の自由です。もう、あなたの記憶に縛られる私ではありません」
振り返らず、扉へ向かう。
背後でアレクシスが何かを叫んだが、開かれた扉から差し込む冬の光と冷気が、その声を攫っていった。
馬車に乗り込み、屋敷が遠ざかっていくのを、ルシアは一度も振り返らなかった。
吐く息は白く、その時になってようやく、頬を一筋の涙が伝った。
――苦しい。胸が裂けそうだ。だが、それ以上に、身体が軽い。
重い鎖は外れた。
母として、一人の女として、これからは自分の足で歩く。
失ったものは大きい。それでも守るべきものは、この腕の中にある。
愛しい息子の未来だけを、強く、強く抱きしめながら――。