25. 崩れた仮面
「……ルシア」
静寂を破ったレオンの声は、ひどく掠れていた。
彼は、こんなにも脆く、崩れ落ちそうになっている義姉の姿を初めて見た。
いつも毅然と、穏やかな微笑みを絶やさなかった彼女。その完璧な仮面の下に、これほどの悲しみを隠していたのか――月の光に照らされた横顔は、鋭い刃物のようにレオンの胸を抉った。
ルシアは弾かれたように顔を背け、涙の痕を乱暴に手の甲で拭う。
「……見ないで」
震える声に、侯爵夫人としての誇りと妻としての最後の意地がにじむ。
だがレオンは一歩、また一歩と静かに距離を詰めてきた。
冷え切った手をそっと取る。その指先の氷のような冷たさに、眉がわずかに歪む。
「見ているのは、俺だけだ」
有無を言わせぬ静かな響きが、ルシアの心の壁を揺らす。
彼は彼女を支えるように近くの長椅子へと導き、侍女を呼んだ。
「温かいミルクティーを。すぐに」
やがて運ばれたカップを、震える彼女の手に握らせる。温もりが、少しだけ心の強張りを解く。
長い沈黙ののち、レオンが低く問う。
「……兄上のことか」
その問いに、ルシアの肩が小さく震えた。
「レティシアが、懐妊したという噂が流れている」
淡々と告げられた言葉は、最後の楔だった。
知っていた。ずっと前から、心のどこかで。
それでも誰かの口から聞くまでは、夢のままでいたかった。
「泣きたい時は、泣けばいい」
「侯爵夫人である前に、あなたは一人の人間だ」
その言葉で、堰が切れた。
「……っ、ぅ……ああ……っ」
嗚咽がこみ上げ、瞳から溢れる涙は止まらない。
――エドワードが生まれた日の「ありがとう」。
――記念日にくれた、小さなブローチ。
――「君と家族になれて良かった」という、甘く響いた声。
幸せだった記憶が毒となり、全身を蝕む。
夫の裏切り、愛人の妊娠、砕かれた信頼、未来への絶望――すべてが濁流となって押し寄せた。
その弱さを、夫の弟の前で晒してしまっている。
けれど羞恥よりも、彼の静かな存在が、今は何より心に沁みた。
やがて嗚咽が収まるころ、レオンが低く呟く。
「兄上は……あなたという宝物の価値がわからなかっただけだ。愚かな人だ」
そして、ほとんど独り言のように、確かな意志を込める。
「……俺なら、決してよそ見などしなかった」
雷のようなその言葉に、ルシアは顔を上げた。
月明かりに照らされた彼の瞳に宿るのは、同情だけではない――もっと深く、切ない光だった。
その夜、ルシアは初めて、アレクシス以外の男性の隣で、束の間の安らぎを感じていた。
崩壊した世界の中で、彼の言葉と存在は、小さな、けれど確かな温もりを持つ光だった。