25. 砕けた仮面
侍女が下がった後の応接室は、時計の秒針の音だけがやけに大きく響いていた。
レティシアの懐妊――。
噂だと頭では理解しようとしても、胸の奥で冷たく尖った氷の刃が突き刺さり、ゆっくりと心を抉っていく。
(子供……アレクシスの……)
これまで気丈に保ってきた仮面が、音を立ててひび割れていくのがわかった。
侍女たちの前で、
以前、レティシアとアレクシスの噂を教えてくれた古くからの知人――カタリナ伯爵夫人の前で、
そして何より息子のエドワードの前で、決して見せまいと誓った弱い自分が、心の奥から溢れ出してくる。
ルシアは、ふらりと立ち上がった。
どこへ行くという目的もない。
ただ、この息の詰まる部屋から逃げ出したかった。
夜の侯爵邸は静まり返っていた。
月の光が磨かれた床を白く照らし、長い廊下に彼女の影だけを落とす。
――エドワードが生まれた日。
アレクシスは彼女の手を握り、優しい声で言った。
「ありがとう、ルシア。君と、この子を守る」
あの時の彼の瞳に、嘘はなかったはずだ。
――去年の結婚記念日。
「政略結婚だったが、君と家族になれて良かった」
そう照れくさそうに笑いながら、小さなブローチをくれた。
今も宝石箱の中に、大切に仕舞ってある。
幸せだった記憶のひとつひとつが、鋭い硝子の破片となって胸に突き刺さる。
信じていた。
愛されていると、信じてしまっていた。
なんて愚かで、惨めなのだろう。
「……っ……ぅ」
嗚咽が漏れそうになり、ルシアは必死に口元を手で覆った。
息が苦しい。
まるで冷たい水の中に沈んでいくようだ。
アレクシスの腕の中にいるのは、もう私ではない。
彼がその腕で守るのは、私とエドワードではない。
――レティシアと、そのお腹の子。
その事実が、ルシアの最後の砦を打ち砕いた。
足から力が抜け、身体が傾ぐ。
倒れる――そう思った瞬間、壁に手をついてかろうじて身体を支えた。
「どこで……どこで、道を間違えたの……アレクシス……」
絞り出した声は、誰に届くでもなく闇に吸い込まれて消えた。
月の光に照らされた横顔を、一筋の涙が静かに伝っていく。
もう、侯爵夫人としての威厳も、妻としての誇りも、何も残ってはいなかった。
そこにいるのは――裏切られた悲しみに打ちひしがれる、一人の女だけ。
その時だった。
廊下の角から、小さな足音と影が近づいてくる。
ルシアは反射的に涙を拭おうとしたが――
息を呑む音が、静まり返った廊下に響いた。
見られた、と悟った時にはもう遅い。
そこに立っていたのは、驚きと痛みを浮かべた表情のレオンだった。
彼の瞳が、ルシアの崩れた仮面を映していた。