24. 弟レオンの申し出
侯爵邸の夜は、しんと静まり返っていた。
廊下の奥から聞こえてくるのは、時折軋む木の音と、遠くの暖炉で薪がはぜる乾いた音だけ。
そんな静寂の中、レオンはゆっくりと歩を進めていた。
(……この一年、何をしてきたんだ、兄上は)
周囲から耳に入ってくるのは、愛人として囲ってしまったレティシアの懐妊の話ばかりだ。
しかも、それをルシアも知ってしまっている――そう感じていた。
だからこそ、彼女の肩にのしかかっている重さを、見過ごすわけにはいかなかった。
やがて、薄明かりの漏れる書斎の前にたどり着く。
軽くノックをするが、返事はない。
ためらいながらも、レオンはそっと扉を押し開けた。
中では、ルシアが机に向かっていた。
金色のランプの光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
ペン先が紙を滑る音が、規則正しく響いていた。
その表情は、普段の穏やかな笑みとは異なり、何かを固く決意した者のものだった。
(……手紙を書いている?)
白い便箋の上に、整った筆跡が次々と刻まれていく。
最後の一行を書き終えると、ルシアはペンを置き、ゆっくりと蝋で封をした。
それは彼女にとって、何かの覚悟を形にした瞬間のように見えた。
「夜分に失礼」
声をかけると、ルシアは肩を小さく揺らし、振り返った。
少し驚いたように目を見開き、それから微笑む。
「レオン……気づかなかったわ」
「眠れなかったのか?」
「ええ……まあ」
ルシアは視線を逸らし、机の上の封筒をそっと脇に置いた。
その動作には、見られたくないという無言の意志が感じられる。
「その手紙……誰に宛てたものなんだ?」
ルシアは一瞬だけ表情を固くした。
だが、次の瞬間には穏やかな笑みを浮かべる。
「ただの用事よ。深く考えなくていいわ」
それは明らかに、真実を包み隠す言い方だった。
「……兄上は、明日も別荘に行くのか?」
「ええ。そう聞いているわ」
その答えは、まるで自分の中でとっくに覚悟を固めているかのように淡々としていた。
レオンは胸の奥に冷たいものを感じた。
(やはり……ルシアは動き始めている)
(黙って耐えるつもりはないのだろう)
「ルシア……俺に、できることはないか」
不意に告げられたその言葉に、彼女の瞳がわずかに揺れた。
「……どうして、そんなことを?」
「見てきたからだ。この一年、兄上がよそを向いている間……あなたが一人で家を守ってきたことを」
ルシアは唇をわずかに開きかけ、何かを言いかけたが、結局言葉を飲み込む。
そして微笑み、首を横に振った。
「ありがとう。でも、これは私がしなければならないことよ」
「一人で抱え込むな。……俺は、味方だ」
短くも力のあるその一言に、ルシアの指が机の端をそっと握りしめる。
視線を落とし、長く息を吐くと、彼女は封筒を手に取った。
「……これは私のやり方で進めるわ」
それ以上は語られなかった。
部屋を出たあと、レオンは廊下で足を止め、深く息を吐いた。
背後からは、もう灯りも声も漏れてこない。
ただ、胸の奥で燃える思いだけが、夜の静けさの中で熱を帯びていた。
(兄上……もう放ってはおけない)
外では冬の風が屋根瓦をかすかに鳴らしていた。
侯爵邸は静まり返っている。
しかし、水面下で動き始めた何かは、もう止められないだろう。