22. 動き出す噂と、レティシアの影
侯爵邸の応接室。
ルシアは、カップの中の紅茶が冷めていくのも忘れ、窓の外の曇り空を見つめていた。
静寂を破ったのは、侍女の慌ただしい足音だった。
「奥様……お耳に入れるべきか迷いましたが……」
いつも落ち着いた侍女の声が、わずかに震えている。
「どうしたの?」
「……王都で、レティシア様のご懐妊が噂になっております」
ルシアの指先が、カップの取っ手を握ったまま止まった。
「……そう」
表情は変えない。けれど胸の奥で、何かが崩れる音がした。
「誰から聞いたの?」
「商人や、王都に出入りする使用人たちの間で……。侯爵様が頻繁に別荘に通っていることも……」
侍女の声はそこで途切れた。
ルシアはゆっくりとカップを置き、静かに息を吸い込む。
(確かめる術はいくらでもある……でも――)
「ありがとう。もういいわ」
短く告げると、再び窓の外に視線を戻した。
その頃、王都郊外の別荘では――。
アレクシスは、暖炉の前でレティシアと向かい合っていた。
「アレクシス……あなたは私の子の父親よ」
静かな声だったが、その瞳は鋭い。
「いつまでこの関係を隠すつもり?」
アレクシスは苦い顔をして、ワイングラスを押し返す。
「……今はまだ、時期ではない」
「時期? それなら、私とこの子はどうなるの?」
レティシアの声に、焦りと計算が入り交じる。
「あなたが何も決められないなら――私が動くわ」
「やめろ」
アレクシスの低い声が、暖炉の炎を揺らした。
だが、その声には迷いが滲んでいた。
(どうすれば……この全てを守れる? いや……もう、守れるものなど残っていないのかもしれない)
一方、中庭では――。
エドワードが祖父と木剣を交えていた。
冬の冷たい風が、少年の頬を赤く染める。
稽古の合間、彼は小声で言った。
「祖父上……僕、母上を守ります。たとえ相手が父上でも」
祖父は動きを止め、しばし孫を見つめた。
その眼差しが、ゆっくりと厳しさを帯びていく。
「……お前がそう思うなら、覚悟を持て。言葉ではなく、行動で守れ」
エドワードは真剣に頷いた。
その表情は、もはや子供ではなかった。
夕刻。
ルシアは書斎の机に向かい、一通の手紙をしたためていた。
封筒には、王都のある人物の名が記されている。
(このまま嵐を待つだけなんて、もうやめる)
インクが乾く前に封をし、呼び鈴を鳴らす。
侍女が入ってきた。
「この手紙を、すぐに使者に託して。――至急よ」
侍女は驚いたように目を瞬かせたが、黙って頷いた。
その夜、侯爵邸の空気は、これまでにないほど冷たかった。
誰も口には出さないが――確実に、何かが動き出していた。