19.歪み始めた日常
それからというもの――。
夫アレクシスのもとには、王都からたびたび“招待状”が届くようになった。
差出人は、彼の元婚約者――レティシア。
表向きの内容は、貴族の集まりや商談、視察など、正当な理由に満ちている。
「今度は、絹織物の展示会だそうだ。領地の貿易にも関係する。……顔を出さねばならない」
「ええ。大事なお仕事ですから」
「……すまない」
アレクシスは礼装に身を包み、馬車に乗り込んでいく。
私は笑顔で手を振った。
「気をつけて……帰りを待っていますわ」
けれど、その笑顔の裏に、不安と孤独が滲んでいることを、きっと彼もわかっている。
けれど――王都で会う相手のことを、私は深く尋ねなかった。
ただ、夫の表情が少しずつ変わっていくような気がして、胸がざわつく。
王都で過ごす彼女とのひとときは、懐かしく、自由で、刺激的。
まるで若き日のあの日々に戻ったようで……。
その感覚が、少しずつ彼の心を蝕んでいった。
「また王都に?……今週、もう二度目ですわ」
ある朝、私は控えめに尋ねた。
「仕方がない。領地の将来のためだ」
「……わかりました。あなたが必要とされているのなら」
笑って答えたものの、胸の奥には影が揺れていた。
夫は、もう何か月も私の手を取ってくれない。
彼は視線を合わせず、外套を羽織って出ていく。
その背中に、小さく囁いた。
「……あなた、私の手をもう何か月も取ってくれない」
閉まる扉を見つめたまま、私はしばらく立ち尽くしていた。
その頃――。
アレクシスは王都で、またレティシアと会っていた。
「アレクシス……今度、郊外の別荘に行かない? 王都の喧騒から離れて、ゆっくり話がしたいの」
その囁きに、彼は一瞬だけ躊躇した。
だが、すぐに静かに頷く。
「……領地の鉱山視察と報告会がある。数日、戻れないとルシアに伝える」
レティシアは満足げに微笑んだ。
「ありがとう……きっと、素敵な時間になるわ」
「……また、お出かけなのですね」
出立を見送る玄関先で、私は悲しげに微笑んだ。
胸の奥では、得体の知れない違和感が膨らんでいく。
「領地の鉱山視察と報告会だ。数日、戻れない」
淡々と告げる声。だが、その裏に何かを隠している――そう感じた。
「……ええ。お気をつけて」
笑顔を作った瞬間、扉が閉まり、彼の姿が消える。
私は力が抜けたように扉に手をつき、目を伏せた。
「アレクシス様……どうして……」
馬車は王都を越え、郊外の別荘へ向かう。
隣にはレティシア。
彼女の横顔を見ながら、アレクシスは自分に言い訳を繰り返していた。
(これは必要な休息だ。政務に疲れていた……それだけだ)
そう思おうとするたび、脳裏に私と息子・エドワードの笑顔が浮かぶ。
その微笑みが、彼を引き止めようとする。
けれど――レティシアが手を取って囁く。
「アレクシス……私と一緒にいて。今だけでいい、過去の続きを、もう一度……」
その甘い言葉に、彼は何も言えなくなった。
妻への罪悪感が、ゆっくりと飲み込まれていく。
「母上、お父様は……いつ帰ってくるの?」
夕暮れ時、エドワードが小さな声で聞いてきた。
庭園のバラが、風に揺れている。
私は苦しげに微笑んだ。
「もうすぐよ。……きっと、あなたの誕生日には帰ってくるわ」
だが、手にはアレクシスからの短い手紙。
そこには「報告が長引くため、戻れない」とだけ書かれていた。
(……アレクシス様、私たちを裏切らないと信じている)
そう言い聞かせても、疑いは消えない。
夫を思い浮かべるほど、冷たい何かが心を締めつける。
「でも……私は信じる。エドワードのためにも」
そう呟き、二人で食卓に座り、手を合わせた。
空いた夫の椅子は、静かに沈黙していた。
郊外の別荘では、暖炉の前でアレクシスとレティシアがワインを傾けていた。
「やっと、二人きりになれたわね」
「……ああ」
レティシアが肩にもたれる。
アレクシスは、その肩を拒めなかった。
むしろ、抱き寄せてしまう。
(ルシア……すまない。だが、今だけは……)
現実から逃げるように――。
彼はレティシアとの時間に溺れていった。