16.訪れた影
侯爵邸には、平和な笑い声が満ちていた。
エドワードは5歳になり、元気いっぱいに庭園を駆け回っている。
「お父様、見て!剣の稽古!」
木の剣を握ったエドワードは、アレクシスの前で得意げに構えた。
「おお、それは見事な構えだな。」
アレクシスは少し腰を落とし、息子と向き合う。
父と子の剣の構え——まるで騎士のような真剣さに、ルシアは微笑ましく見守っていた。
「気をつけてね、怪我をしないように。」
「大丈夫、母上!僕、強いから!」
少年らしい自信に満ちた声に、ルシアは思わず笑みをこぼした。
(こんな日々が続けばいい……。)
彼女の心は今、安らぎに満ちていた。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける侯爵邸の中庭で、ルシアはエドワードと共に、花咲くバラの庭園を散歩していた。
彼は花を見るたびに微笑む。
「エドワード、見て。このバラ、あなたの誕生の記念に植えたのよ。毎年綺麗に咲いてくれるわ。」
「母上、いつ見ても綺麗ですね。」
「ふふ、そう。あなたのバラよ。」
ルシアが微笑んだその時——
「奥様。」
侍女が、やや緊迫した表情で駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「……お客様がいらしております。遠方より、突然……。アレクシス様も、すでに応接室へ向かわれました。」
「遠方から……?」
胸に、ほんの僅かな違和感が走った。
(誰だろう……。)
エドワードを侍女に預けたルシアは、気持ちを整えながら応接室へと向かった。
歩を進めるごとに、胸の鼓動が速くなるのを感じる。
そして、扉の前で、執事が低く頭を下げ、静かに扉を開いた。
「久しぶりね、アレクシス。」
その声を聞いた瞬間、ルシアの心臓は止まりそうになった。
金色の髪を優雅にまとめた、気品あふれる女性。
端整な顔立ち、まるで王宮に舞い戻ったかのような威厳を漂わせたその姿。
レティシア・フォン・グリューンヴァルト。
かつて、アレクシスが深く愛し、そして失った女性。
「レティシア……なぜ、今ここに?」
アレクシスの声は、いつになく硬い。
「主人が亡くなったの。だから、実家に帰って来たから貴方に会いたいと思って。」
レティシア・フォン・グリューンヴァルトの言葉が、応接室の空気を一変させた。
その優雅でしなやかな姿は、喪に服しているとは思えぬほど凛とし、彼女が長く王宮で暮らしていたことを物語っていた。
アレクシスはしばらく沈黙したまま、視線を彼女から逸らさない。
「……お悔やみを申し上げます。だが、わざわざ私に会うために?」
「ええ。」
レティシアは、静かに微笑みながら歩み寄る。
「あなたとは……過去に様々なことがあったけれど、それでも私にとって、貴方はただの“過去の人”じゃない。」
彼女の声は穏やかだったが、言葉の奥には確かな意志が感じられた。
(この人は何を求めてここに来たのか……。)
ルシアは扉の傍でその様子を見ていた。
アレクシスの背中越しに見るレティシアの顔——
その微笑みが、どこか試すようにも、懐かしむようにも映った。
「……ルシア。」
アレクシスがふと振り返り、彼女に気づいた。
「……大丈夫よ、アレクシス様。」
ルシアは一歩前に進み、レティシアに向き合った。
「突然の訪問、大変でしたでしょう。お悔やみ申し上げます、レティシア様。」
ルシアの穏やかな声に、レティシアはふと目を細めた。
「ありがとう、奥様。」
「奥様、少しアレクシス様と二人にしてくれないでしょうか?大事な話があるのです。」
と、レティシアはルシアに少し遠慮がちにしかし、そこにいてもらっては困る。と言った表情で伝えてきた。
その言葉の中には、敬意とわずかな探りの気配が混じっていた。
「わかりました。。。。」
ルシアはチラッとアレクシスの顔を見上げた。
アレクシスは、ルシアを見て、「ごめん。」と言った様子で頷く。
ルシアは納得できなかったが、「承知いたしました。。。」と言ってその場を離れた。
ルシアが出て行ったのを見届けてレティシアはアレクシスに語り掛ける。。
レティシアは一息つき、両手を膝の上で重ねた。
「……実を言うと、主人の死をきっかけに、自分の人生を見つめ直したの。」
「私にとって、幸せとは何だったのか。何を求めていたのか……。」
アレクシスはその言葉を聞きながら、目を伏せた。
彼がかつて抱いた、彼女への情熱的な想いと、叶わなかった未来。
久しぶりに会ったかつて情熱的に愛した婚約者は相変わらず美しく凛としている。
彼女との婚約期間も10年と長かったこともあるが、アレクシスはその10年レティシアだけを見てきた。
「貴方と別れたこと、私は……後悔していたの。」
レティシアはそう言いながら、アレクシスを真っ直ぐに見つめた。
その言葉とレティシアの眼を見てアレクシスの心はドクンと跳ねる。
「でも、今の貴方を見て分かったわ。——貴方は、今幸せなのね。」
アレクシスはルシアの方を見やり、そして頷いた。
「……ああ。私は今、愛する妻と子供に囲まれて、幸せだ。。。。」
その言葉に、レティシアはわずかに目を細め、そして静かに笑った。
「そう……なら、よかったわ。」
彼女は、どこか寂しげに微笑んだ。そして、それ以上何も言わなかった。
「何故今になってそんなことを言ってくるのか。レティシアは1人になったからか?あの頃の私は、レティシアが私の元から去ってしまい、とても辛い思いをずっと堪えていたのに。。。」
「今再びまたあの頃が蘇ってしまいそうだ。。。」
と、アレクシスは複雑な気持ちを感じてしまい、深いため息を吐いていた。
その日の夜。
ルシアは寝室でアレクシスと共に、静かに過ごしていた。
「……驚いたでしょう。」
アレクシスが不意に口を開く。
「ええ……でも、大丈夫。あなたが私を信じてくれるなら。」
ルシアは穏やかに言い、彼の手を握った。
「私は、大丈夫よ。だって……あなたが選んだのは、私だから。」
アレクシスは彼女の手を強く握り返し、そっと微笑んだ。
「ルシア……私は、あなたを守ると誓った。今も、それは変わらない。」
「ありがとう。信じてる。」
そして、ふとルシアはアレクシスの肩に寄り添った。
「これから、どんなことがあっても……一緒にいましょうね。」
「ああ。。。。」
二人の心は確かに結び合い、揺るがぬ信頼を新たに誓ったはずだった。
しかし——
レティシアの訪問は、単なる別れの挨拶で終わったわけではなかった。
数日後、知り合いの貴族から手紙が届く。
そこには、ルシアに思いがけない内容が綴られていた——。