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これは俺の夢だ。
俺の空想。俺の不変的な日常にある非日常。
――そのなかで僕はいつも真っ白な部屋にいた。
そこだけが僕の世界だった。といえば大袈裟かもしれないが、僕はこの部屋から出たことがほとんど無い。だから、ここだけが僕の世界というのはあながち間違いではないだろう。
そんな僕に外の事を教えてくれる大切な人がいた。
とても可愛らしい女の子だ。
その女の子がどこか遠くの方へ引っ越すことになった。
彼女の父親が遠い場所へと転勤することになったらしい。どこにでもあるごく一般的な理由だ。
引越し当日の朝。女の子は僕の部屋へ訪ねてきてくれた。
「・・・・・・寂しくなるね」
心の底からそう思った。
僕はだんだん一人になっていくような気がした。
「ごめんなさい」
女の子はひどく落ち込んだ様子で謝ってくる。
別に誰かが悪いわけじゃない。
「仕方がないよ」
だから僕はそう言った。
女の子は何か言いたげな様子でうつむく。
そして会話は途切れた。部屋を包む静寂はとても居心地が悪かったけれど、僕は何も言えなかったし、彼女も口を開かなかった。
やがて女の子は部屋の時計を見て、悲しみに染まった表情を更に深めた。
どうやら時間が来たらしい。僕は笑顔を作って女の子に「さようなら」と挨拶した。
彼女はお別れの挨拶はしなかった。
その代わりに「約束しよう」と何の脈絡もなく彼女は言った。
「約束?」
「そう、約束。次に私と会う時はあなたの元気になった姿を見せて。それで、色んなことをしよう? どこかに遊びに行ったり、一緒に勉強したり、ご飯を食べたり、時には喧嘩するかもしれないけど、でもちゃんと仲直りして・・・・・・」
女の子は泣きそうな声で、でも笑顔を作って話す。
ありきたりで当たり前にあるものかもしれないけど、本当に幸せな未来だ。
叶えばいいと思う。叶えたいと思う。
でも、僕にとっては夢物語でしかないということも理解している。
「それは無理だよ」
だから、残酷な言葉を口にした。
その言葉の鋭さを僕は知っていた。知っていたけど、彼女のために声に出す。
「君は僕を忘れなければいけないんだ」
そう、忘れないといけない。彼女が笑って生きていくために。
これからの彼女に僕がいてはいけないのだ。
――だから。約束だ。
「・・・・・・僕はっ」
意識が戻るのが先だったか、身体を起こす方が先だったか。
俺は目を覚ましたと同時に飛び起きた。
「夢・・・・・・?」
口が乾く。俺は何を見ていたんだ。
「そうか、夢か・・・・・・」
何を言おうとしたのか、何を言われたのか。
意識がはっきりしていくとともに夢の景色が曖昧になっていく。
怖い悪夢を見ていたわけじゃないと思うのだが、呼吸は乱れているし、胸には何故か酷い罪悪感と消失感が残っている。それらを全て吐き出すように深呼吸をすると幾分か落ち着いてきて。
ゆっくりと辺りを見渡すと、俺は真っ白な部屋にいた。
自分の部屋とは違うのに何故か懐かしさが感じられる。
「こ、ここは・・・・・・」
保健室よりも狭い個室。
保健室のよりも寝心地の良いベッド。
なぜか懐かしい気分になる消毒の臭い。
すぐに思い当たるのは一つだけだ。
答えに至ったと同時にドアが控えめにノックされる。
「あ、はい。どうぞ?」
「よかった。目を覚ましたようだね」
「じゅ、準一さん――じゃなくて柏原先生、こんにちは」
見知った顔に慌てて挨拶すると、白衣を着た準一さんも頷く。
「君と僕の仲じゃないか。準一でいいよ、霧崎くん」
準一さんはなかなかの二枚目だ。背も高いし、性格も優しい。そして天才と呼んではばからない若手医師。そして理沙の実の兄でもある。
「しかし、突然倒れたと理沙から連絡を受けたときは驚いたよ。慌てて車を走らせてここまで連れてきたんだ」
「そうだったんですか、すみません、なんか迷惑かけちゃったみたいで」
「大事ないようでよかったよ、君が倒れた理由はおそらく寝不足からくる貧血だろう。睡眠を疎かにするのは感心しないぞ?」
「は、はい、ほんとすみません」
言われてみるとたしかに昨日寝たのはちょっと遅かった気がするし、倒れた理由は日頃の不摂生が原因か。
「君が気を失っているうちに一通りの検査をして、特に問題はなかったわけだけども・・・・・・特に変わったことはないかい? どこか痛いとか、その、記憶がこんがらがっているとか」
「特にはないです。記憶がこんがらがっているのはいつもの事ですし」
「・・・・・・そうか」
準一さんは頷くと、顎に手を当てたまま止まってしまう。
何か考え事をしているのか、おそらく仕事のことだろうし俺は黙って待つことにした。
それにしても病院の個室か。
退院してから三年経つ。
病院には月に一回くらい薬のために来るようなものだし、病室には来ていない。だからこの消毒の匂いが懐かしく感じるのも当然かもしれない。
(・・・・・・だけど、どうしてあんな事故に巻き込まれたんだろ)
友達や家族と旅行のために利用したわけでもないし、中学生の俺が電車を利用する機会が思いつかない。けれども、事実として俺は地元から電車に乗ってこの街に訪れようとした結果、あの事故に巻き込まれて――
「霧崎くん? どうかしたのかい?」
そんな言葉で意識が現実に戻される。
準一さんが心配そうな表情をして俺の顔を覗き込んでいた。どうやら準一さんの考え事が終わるのを待っている間に、俺も深く考え込んでしまっていたらしい。
「い、いや、なんでもないです。ちょっとどうでもいい考え事を」
何故だか事故のことを口に出す気になれず適当に誤魔化した。
きっと電車に乗った理由を忘れているのも事故の後遺症か何かだろう。
「そうか、それならいいけどね」
準一さんはどこか腑に落ちない様子だったが、少し間を置いて頷いた。
「記憶の方はだんだん良くなっていくと思うよ。身体の方も特に問題はない。むしろ健常者以上の健常者といった感じだからね。今日はもう帰って大丈夫だけど、念の為だ、車を出すよ」
「は、はい、ありがとうございました」
準一さんは「それじゃ、少し待っていてくれ」と言葉を残して病室から出ていく。引き戸のドアが 閉まる音が聞こえて、俺が一人になった事を再確認した。
不意に喪失感に似た感情が心をざわつかせる。
この感覚を俺は知っていた。
『じゃあ、またな』
『うん、またね』
『おう。また面白い話聞かせてやるからな』
『楽しみにしてるよ』
いつの日かの会話。誰かとのやりとり。
そして、ゆっくりと病室のドアが閉まっていく。
また一人になる。
「待って・・・・・・よ」
無意識にそんな言葉が口から洩れた。
・・・・・・何を言っているんだろう。
不思議な夢を二度も見たり、変な既視感を感じたりと今日は本当におかしい。
少し暗い気持ちになりながら、俺はベッドに身を倒した。
*
アパートの自室へ戻ってきた俺を待っていたのは、いつもの三人組だった。
「おおい、大丈夫かっ? 謎の黒ずくめに肉体改造されてないかっ? 特殊なベルトを着けたら変身できるようにはなってないよな? なってたら見せてくれ!」
俺はどこに連れていかれたんだよ、竜樹。
「貞操は、僕の貞操は無事かいっ?」
俺の貞操はお前のものじゃないぞ、昴。
「二人とも少し落ち着きなさい――って、貞操っ? あなた、私の兄さんと何をした!」
普通に診察してもらっただけだよ、理沙。
「・・・・・・って、意味が分からないよ!」
三人三様に迫ってきて思わず声を荒げる。
てっきり心配しているのかと思ったら、なんだよ。ふざけに来たのかコイツらは。
「はあ・・・・・・」
まあいつもの事か。
とりあえず落ち着こうと制服のブレザーをハンガーに掛けようとして、
「・・・・・・いやまて」
一つの疑問が脳裏に過る。
「なんで三人ともここにいるんだ?」
「なんでって、そりゃ俺達もこのアパート暮らしなんだからいるに決まってるだろ」
「それは分かっている。そうじゃなくて、どうやって俺の部屋に入ったんだ?」
朝は間違いなく部屋の鍵を閉めていったはず――というか、そもそも今朝の段階で昴が俺の部屋に上り込んでいた。合鍵は渡していないのに。
俺の問いに「なんだ、そのことか」と昴は当たり前の事のように言って、机の上に置いてある鞄を指差した。
「教室に置きっぱなしだっただろ、届けにきたんだ」
「あ、ああ、それは助かるんだけどさ・・・・・・。いや、そうじゃなくて」
「だって君、合鍵を植木鉢の下に隠しているじゃない」
理沙は「皆知ってるわよ」と当然のことの様に言う。
「・・・・・・一応言っておくけど、俺にもプライバシーというものがあるんだけど」
「分かっているわ。だから部屋の中を漁るなんてことはしてないでしょ」
「いやいや、そういうことじゃないと思うけど」
今までこれといって疑問に思ってこなかったが、朝に部屋に入り込んでいたのは隠していた合鍵を使っていたのか・・・・・・。隠し場所変えようかな。
「というか、鞄なら預かってくれるだけでもいいじゃないか」
「冷たい事言うなよ。いきなりお前が倒れたから出迎えてやろうと思ったんだよ。ただの貧血って連絡は来てたけどさ、急に倒れたりしたらそりゃ心配するだろう」
最初の雰囲気は心配している様子なんてなかったと思うが、竜樹らしくない真面目な顔で言われたら頭を下げることしかできない。
「それは、ごめん。心配かけて」
「本当に驚かせないでくれよ? 僕と竜樹が話していたらいきなり倒れるんだから、僕達も卒倒しそうになったよ。日頃から健康には気を使った方がいい」
「ああ、気を付ける」
頷いて見せるが、正直、貧血による失神と言われてもしっくりこないのが本音だ。
倒れる前に理沙と話していた時は身体に不調はなかったし、彼女と話していたら急にとんでもない頭痛に襲われたのだ。それが原因だと思うのだが、それしか分からない、頭痛ですとしか説明もできない。
「おら、何を考え込んでんのか知らねえけど、そんなに頭回してるとまた倒れるぞ」
竜樹が俺の背中を軽く叩いてきて思考の海から引き戻される。
「あ、ああ・・・・・・うん」
「君は一度考え事を始めると簡単には戻ってこなくなるからね、今日は早めにご飯にして眠ってしまった方がいいよ。・・・・・・ええっと、今日の当番は誰だったかな?」
「今日は俺。もう食材も買ってある」
竜樹はサムズアップしながら言う。
時間と食費の節約のために夕食など三人が揃ってご飯を食べるときはローテーションを組んで当番制にしているのだ。冷蔵庫に貼ってある当番表を見ると、昨日が俺で今日は竜樹。明日は昴となっていた。
「じゃあ竜樹の部屋に移動だね。理沙も一緒に食べるかい?」
「そうしようかしら。兄さん、少し用事があるみたいだし」
準一さんと一緒に暮らしている理沙は、準一さんに用事があるときや仕事で遅くなる日はこうして一緒にご飯を食べることもある。
「さて、それじゃあ行くか。理沙も少し手伝ってくれよ、一人分の手間が増えるんだから」
「いやよ。竜樹の作る料理なんて炒飯か何かでしょ。一人分増えたところで手間かからないじゃない」
「ここは火が使えないんだ、ホットプレートで炒飯作るの大変なんだぞ!」
「だったら炒飯なんてメニューにしなきゃいいでしょ」
竜樹と理沙がそんなことを言い合いながら先に部屋を出ていき、昴が「また痴話喧嘩が始まったよ」と呟いた。
「・・・・・・・・・・・・」
俺達の中ではありふれた光景。いつもの日常のはずなのに、何故だか今日はぶれて感じてしまう。何かが噛み合っていないようなそんな感じ。
「どうしたんだい? もしかしてまだ調子が悪いのかい?」
「あ、ああ、いや、なんでもない。すぐに行くよ」
昴の声に答えて、俺も三人の後に続いた。




