魔王
「ダ、ダンジョンマスター!?」
ゴルブル兄弟の一件に関してはなんとか口を噤んでいたが、流石に今回は我慢しきることができなかった。
ダンジョンというものと関わりの深いバリスにとっても、ダンジョンマスターというのはおとぎ話の中の存在であった。
この世界において、ダンジョンという存在は未だその原理が解明されていない。
故にダンジョンに関しては、様々な噂や学説が存在している。
ダンジョンはダンジョンマスターが操作している、というのもその中の一説だ。
巷で人気はあるが、あまりにも現実味がないということでどちらかといえば物語の中でしか語られることのないような扱いを受けている説だ。
これに関しては、流石のバリスも軽々に信じることはできなかった。
けれど現実は残酷だ。
自分の理解できないものが、自分の来てほしいと思ったタイミングまで待ってくれるとは限らない。
「いきなり言われても信じられないだろう。ということで証拠を見せようか」
ミツルは手を上に掲げると、パチリと軽く指を鳴らした。
一見するとただのキザな動きなだけのそれを見た瞬間、バリスの背筋に怖気が走る。
昔取った杵柄か、かつて冒険者をしていた頃の感覚が一瞬のうちに蘇る。
自分では到底敵わない敵と遭遇した時の、興奮と絶望の入り交じったあの感覚だ。
彼は突如として感じた新たな視線に対応すべく、臨戦態勢を取る。
正体を探るべくスキルを発動させようとすると……それは音もなく、ミツルの影の中から現れた。
「どうも、ギルドマスターのバリス。私、公爵級悪魔のティアマトと申します」
「……」
バリスは、言葉を失っていた。
冗談でも誇張でもなく――その悪魔を一目見た瞬間、彼は失語症のように言葉が意味をなさない記号の群れとしてしか認識することができなくなったのだ。
彼とて、悪魔と相対したことはある。
けれど彼が戦ったことのある悪魔は最高でもB級下位――悪魔達が自称するところの子爵級に相当する個体までだ。
それより強力な個体は人里にめったに出ることはない。
だがひとたび出ればその魔物は街を、都市を、国を蹂躙し、世界に大災害を与える。
公爵級悪魔――Aランク上位に相当する悪魔など、当時の文献にしか出てこないような正真正銘の化け物だ。
どれだけ強力な勇者であっても、倒すことなどできはしないだろう。
バリスの心は、目の前の悪魔――ティアマトに屈した。屈してしまった。
たとえ全力を出して戦おうが、勝ち目などない。
いやそれどころかこのマサラダの街の総力を挙げて戦ったところで、この悪魔一体に全滅させられて終わってしまうに違いないと。
そして悲しいことに、それは過小評価でもなんでもなく、ただの事実でしかなかった。
――バリスのレジスト系のスキルを貫通するほどのティアマトの存在感は、一瞬にしてバリスの抵抗を奪っていた。
悪魔の頂点に君臨するティアマト。
その存在は目にした人を発狂させ、視線で人を殺し、息をするように人の心を狂わせる。
彼を前にしてこれで済んでいるという時点で、それはバリスがひとかどの人物であるという証明であった。
「さて、信じていただけただろうか?」
「ああ、これほどの悪魔を見せられては、信じないわけにはいかない……」
多少論理は通っていなくとも、今のバリスにはミツルの言葉を信ずる以外の選択肢が頭から消える。
今後ミツル達と話をする時には戻っているだろうが、少なくとも今ティアマトを見た彼の心から抵抗心は完全に奪われていた。
こんなものに関わるのではなかった。
どうして自分は先代のギルドマスターの申し出を受けてしまったのか。
なぜ自分がギルドマスターになった時だけ、こんなに処理できない問題がやってくるのだ。
己の不運を嘆きながらうなだれるバリスの背中は煤けていた。
けれどそんな彼を見て、ミツルはゆっくりと笑みを浮かべる。
今後も良き隣人でいるためには、相手の性根は善性であることが望ましい。
少なくとも冒険者側の最高責任者であるバリスは、彼のお眼鏡に適う人間であった。
「俺はこのマサラダの街を滅ぼそうとなど思っていない。いやむしろ、このマサラダの住民達とは仲良くしたいと思っている。俺達によって良き友人で居てくれるのなら……ダンジョンを解放し、その恵みを分け与えよう。冒険者の質を上げ、資源を産出し、この街の発展にだって寄与してみせようではないか」
それは正しく、悪魔のささやきだった。
悪魔の中の悪魔を従えるダンジョンマスター。
彼こそ正しく――
(悪魔の王――魔王だ)
がっくりとうなだれるバリスは、実利を伴うミツルの甘い言葉に、首を縦に振る以外の選択肢を持たなかった……。
こうしてミツルはギルドマスターとの折衝を終え、無事平和裡にことを収めることに成功する。
混沌迷宮は冒険者ギルドマサラダ支部の認可を受け、ダンジョンとして認められることになった。
悪魔が笑い竜が鳴き、全てが渾然一体となり冒険者を待ち受ける混沌迷宮。
その存在が冒険者達にお披露目される瞬間は、刻一刻と近づいていた……。