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8 非日常の始まり・2


 シュトルヒが洗練された仕草で診察室の扉を開け放った。


 瞬間、患者の半分が診察台から転げ落ちて、残りの半分がひっくり返って新しい怪我を作った。




「みなさん、気を確かに……!」




 今日はこの台詞ばかり言っている気がする。


 メローレアは慌てて近くの患者を助け起こした。


 患者の大半がすっ転んでいる中でひとり助けても焼け石に水ではあるのだけれど。

 それでも手を貸してしまうのは夢見での経験も合わせて十余年の聖女生活の中で染みついた条件反射のようなものだ。


 振り返ると、意外なことにシュトルヒの方も、別の患者へと手を差し伸べているところだった。


「すみません、驚かせてしまって」


 丁寧な言葉遣いからみて、身分は隠すつもりのようだ。

 相手の男性患者は目を白黒させながらも手を取って身を起こしている。


「僕はいつもこうなんですよ。普通に振る舞っているつもりなんですが」


「おぅ……。何というか、兄ちゃん、大変だなぁ、それはそれで」


「ええ、ありがとうございます」


 ほのぼのとした会話が繰り広げられていて、会話にならないかもしれないという懸念が杞憂だったことに気づく。


「シュトルヒと申します。しばらくは見習い聖女様の助手として働かせていただく予定ですので、よろしくお願いしますね」


 シュトルヒは大きくはないが不思議と診察室全体に通る声で、流れるように挨拶を済ませた。


(そして、もしかしなくても、その見習い聖女というのは私のことかしら。見習いに助手が付くなんて、みなさん不審に思うのでは……)


「見習いの、助手?」


「そうです。あちらの」


 いきなり名指しされた。

 慌てて会釈してみれば、一瞬戸惑った様子を見せていた患者たちが、納得したように頷く。


「メローレアちゃんか。その子は見習いとは言っても、飛び抜けて優秀な聖女様だからな。この神殿で一番元気に診察室を駆け回ってて、一番上手く治療してくれる、一番人気の聖女様だ!」


 一番、一番と連呼する男性の言葉に、思わず赤くなる。


 上手く治療できるのは、夢の中とはいえ十年以上聖女を務めた経験の賜物だ。


 元からできたわけではなく、ただの年の功のようなものなので、褒めてもらうのは少し居心地が悪い。


 そんなメローレアをよそに、シュトルヒは我が意を得たりと大きく頷く。


「そうなんですよ。彼女は本当に素晴らしい聖女様なんです! 慈愛深く、行動力があって、優しい。やはり皆さんもそう思われてるんですね」


「ちょ、殿──」


 言いかけてから、慌てて口をつぐむ。

 彼が身分を隠すつもりだったことを思い出したからだ。


「兄ちゃん、良かったな。あんた只者じゃなさそうだし、どういう事情があるのか知らねぇが……あの子の助手なら、良い経験できると思うぜ」


「はい、頑張ります。じゃあ、早速ですが腕を出してもらっても?」


 テキパキと男性の患部に薬草を当て、包帯を巻き終えたシュトルヒが、こちらに歩み寄ってきてそっと囁く。


「というわけで、診察室では身分を隠すことにするよ。メローレアもこれを機に、名前で呼んでくれると嬉しいな」


「そういうことでしたら。その、……シュトルヒ様」


 早く慣れられるようにと名前で呼んでみれば、シュトルヒは嬉しそうに顔を輝かせた。


「さあ、あの男性に仕上げの聖力を」


「はい」


 シュトルヒによって手当てされた患部を見て、関心する。

 なんでも付き人にやってもらえる立場のはずなのに、包帯の巻き方も留め方も、とても上手い。


(やり直す必要はなさそうね)


 そう思いながら包帯の上に手を当てる。手当の仕上げは聖女の領域だ。


 手のひらから聖力を流せば、じんわりと温かさを感じる。順調に治癒が行われている証拠だ。


 柔らかな黄金色の光が、メローレアを取り巻くようにして美しく煌めく。


「こんな風にはっきりと聖力が目に見えるのは初めてだ」


 通常、聖女の聖力は、力を流す手のひらの辺りがぼんやりとわずかに光る程度なので、初めてメローレアの聖力を見たシュトルヒは驚いたように呟いた。


「私の聖力はなぜか、こうして大きく輝くのです。効いていると分かりやすくて、患者さんにも好評なのですよ。

 ただし、実際の効果は他の聖女と同じなので、結局は見た目だけの違いですが」


「いや、メローレアちゃんに治療してもらうと治りが早いってのは評判なんだが」


「そんなはずはないのですけれど」


 夢見の聖女を担っていた夢の十年間でも、治癒力はずっと人並みだったのだから。


「聖力の光が目に見えるから、良くなりやすいのかもしれませんね。ほら、病は気からという言葉もあるでしょう?」


「そんなもんかねぇ」


「私の力の見た目がみなさんの治療の役に立っているのなら、それだけで、とても嬉しいです」


 メローレアを取り巻く光を、シュトルヒが眺める。


「……ああ、これはまた、すごく良いな」


 小さく呟く彼の眼差しは、相手の能力を検分するような冷たいものだった。







***




「今日の患者さんは、先ほどの方で終了みたいです」


「そっか。……あ、その薬草片付けるの? 僕がやるよ」


 シュトルヒがメローレアの持っていた薬草の箱をすっと取っていく。


 この調子で終始手ぎわよく手伝ってくれるものだから、いつもよりも随分と早く仕事が終わった。


「ありがとうございます。おかげで今日は早めの夕食がとれそうです。シュトルヒ様は……手当てがお上手なのですね」


 すると、シュトルヒは頷く。


「一時期、市井に身を隠していた話はしただろ? その間は神殿を頼るわけにもいかなくてね。怪我をした時は自分で何とかしてたんだ。

 その時につるんでた仲間たちも、治療の対価として神殿に収めるほんの少しの寄附金すら、払えない奴が多かったから。仲間内で手当てし合ったりしたものさ」


「そうだったのですか……」


「きちんと手当てしないと悪化して酷い目に遭うからね。それもあって治療が得意な奴に教えてもらったりしたな。

 あの頃は剣術も練習してて生傷が絶えなかったから、治療の実践には事欠かなかった」


 シュトルヒのそんな話を聞くたびに胸が痛みそうになる。


 けれどなぜか、同情めいた感情は相応しくないように、メローレアには思われた。

 内容の痛ましさとは裏腹に、シュトルヒはその頃の話をいい思い出のように語っているように聞こえたからだ。


(そういえばルペ様とも、市井で出会ったと言っていた)


 彼の少年時代の思い出が辛いばかりでなかったことは、素直に嬉しい。

 同年代の子どもたちと、泥だらけになりながら自由に町を駆け回るシュトルヒを想像すれば、するりと言葉が出た。


「助け合える、良いお友達がいたのですね」


 するとシュトルヒは意外そうにこちらを見て、それから柔らかく微笑んだ。


「ありがとう」


(あ……)


 その時メローレアは、ここ数日で初めて彼の素顔を見たと直感した。


 出会ってからずっと、彼の言葉は甘く、笑顔は美しい。


 けれど、どこか一線を引くような壁が存在していることに、メローレアは薄々気付いていた。


 巧みな話術は彼を守る鎧。誰もを魅了する表情は彼が振るう剣。


 これまで命を狙われ続けていたのだから、いくら命を助けられた相手とはいえ、急に心を開くことが難しいのは当然だ。


 彼の振る舞いがあまりに巧みだから確信めいたものはなかったけれど、今の柔らかい笑顔をみれば、違いは一目瞭然だった。


(シュトルヒ様の素顔は……どこか少年のようで可愛らしいのね)


 メローレアの感想は年上の男性への表現としては大胆なものだったが、思うだけなので咎める者はいない。


 ただ、いつもの隙が無く華やかで皆を魅了する表情よりも、先ほど垣間見た少年のような笑顔の方が、メローレアには魅力的に思えるのだ。


 彼が初めて見せてくれた素の感情に、なんだか無性に嬉しくなってしまう。


 けれどシュトルヒ本人にとってはどうやら見せるつもりのなかったものだったようだ。

 不測の事態を誤魔化すように、とんでもない所見を付け足し始めた。


「まぁ、皇后から逃げるために色々経験を積んだおかげで、今こうして君の役に立ててるんだ。そういう意味では皇后には感謝しないとね」


 何度も殺されかけているというのに、そんな無茶苦茶な台詞で、築き損ねた壁を再構築しようとするシュトルヒを軽く睨み付ける。


(まったく笑えない冗談……)


「ごめん。今のは笑えない冗談だった」


 シュトルヒが両手を降参の形に挙げながら、メローレアの思考をなぞるように全く同じことを言うので、思わず吹き出してしまう。


 夕焼けが診療室に差し込むなか、穏やかな時間が流れていった。







 シュトルヒが毎朝部屋の前に迎えに来ること。一緒に食事をとること。診療室で働いていること。そして仕事が終わればわざわざ部屋まで送ってくれること。


 メローレアがそんな毎日に慣れてきた頃、予期せぬ出来事が起こった。


 ──夢を、見たのだ。


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