9 事件・1
その日も、メローレアは診療室に立っていた。
見慣れた風景。しかし、漂う雰囲気は明らかに普段と異なっていた。
患者同士のお喋りや聖女たちの慌ただしく動き回る音が全くしないのだ。そこにあるのは、重苦しいほどの静けさと微かな呻き声ばかり。
嫌な予感に抗うようにしてゆっくりと見回すと、おびただしい数の患者たちが力なく倒れている。
ベッドが到底足りず、床にまで横になって呻く人たちの身体で、足の踏み場がないほどだ。
その異様な光景にぞくりと肌が粟立つ。
(感染症? 事故? それともまさか、戦争? とにかく落ち着いて状況を把握しなければ……)
冷静になろうと自分に言い聞かせながら患者の顔を覗き込み、メローレアはいよいよ戦慄した。
「倒れているのは神殿のみんなだわ!」
「……ううっ」
メローレアの耳が、聞き慣れた声を捉える。血の気が引くのを感じながら、まろぶようにして声の主に駆け寄った。
「そんな──ララ!? しっかりして!」
「メロー……無事、だったんだね。良かった。あたし、朝ごはんを食べてから、お腹が痛くて。げほっ」
咳き込んだララの口元が、血で真っ赤に濡れる。手を握れば、燃えるように熱い。
「だめよ! ララ、なにも話さないで。今、私がなんとかするから。お願い……っ」
けれど、闇雲に聖力を込めるだけでは治るものも治らない。せめて、と必死で涙を堪えながら、ララに聖力を注いで眠らせる。
「これほどの病人がいるのに、どうして聖女や神官が誰もいないの?」
その時、ツンと後ろから服を引かれた。背後に横になっていた別の聖女だ。ララよりは病状が軽いながらも、顔色は青白く、必死にこちらを見ている。
「ここに誰もいないのは……ううっ、原因が、分からないからよ。伝染病の可能性があるから、誰も近づかないように……お触れが出たの」
「そんな!」
伝染病だとしたら、これほどまでに神殿の者ばかりが倒れているのはおかしいではないか。
神殿側としてもそれは分かっているはずだ。ただ、不用意に動くわけにも行かず、まずは伝染病でないと確かな証拠が取ろうとしているのかもしれない。
(でも、患者は一刻を争う病状よ。もたもたしている間に、ララが。みんなが──)
居ても立っても居られず、メローレアは声を上げる。
「私が! 私が、皆さんを助けます! だから何か、手掛かりになることを教えてください。いつ発症したのか。どんな行動を取っていて、直前に何を口にしたのか。なんでも構いません」
すると、部屋のあちこちから患者が応えた。
「朝起きて、朝食を食べたら気分が悪くなって……」
「あたしは……水を飲んだだけよ」
「私は、朝食をとっていないの。身支度をして、部屋を出てしばらくして倒れたわ。ああでも、朝に汲んだ水で、顔を洗ったわね……」
──水。共通項は水だ。
そして朝食をとっていない者まで罹患しているため、食中毒という可能性はゼロに近づいた。
水が原因で血を吐くほどの食中毒になることなど、毎日新鮮な水を汲んで使うこの神殿では、ほぼ考えられないからだ。
(ならば病原菌、もしくは毒のどちらかだわ……! 神殿の水は、全て裏手にある井戸から汲んできている)
「私、すぐに井戸を調べてきます。皆さんどうか、耐えてください!」
水から来るなにか。腹痛に、吐血に、発熱。
足をもつれさせながら、井戸に向かって必死に走る。そして井戸から水を汲み上げて、それを沸騰させることで見えてきたものに、息を呑んだ。
点々と存在する、ほんの小さな赤黒い結晶。
メローレアは夢見の聖女として経験したことを思い返す。来る日も来る日も、たくさんの人を治療した。もちろん毒もだ。
「そうよ。これは……」
必死になって街まで出て、特殊な薬草を入手して。
そうして病室にとんぼ返りしたメローレアが目にしたのは、すでに冷たくなり、病室から運び出される大勢の患者たちだった。
その中には、ララの姿もあった。
「──ッ!!」
***
声にならない叫びを上げて、メローレアは目を覚ました。ドクドクと脈打つ心臓をそのままに、寝台からまろび出る。
着の身着のままで部屋の扉を開けると、目の前でシュトルヒが驚いたように目を見開いていた。
今日も待っていたのか、なんて考える余裕もなく、メローレアはシュトルヒに駆け寄る。
「メローレア?」
「みなさんは!? 無事ですか? なにかいつもと違う様子はありませんでしたか!?」
縋るように服を掴んで揺さぶる。
「みんなが……っ、私っ、なんとかしないと」
いきなりこんな事を言われても、シュトルヒは何が何だか分からないだろう。
頭の片隅でそう分かってはいるのに、思考が混乱してうまく言葉が出てこない。
あの夢見はいつ起こる出来事なのか。
もし今日ならば、すでに水に触れてしまった者がいるかもしれない。
今は何時ごろなのか。それほど寝過ごしてはいないはず。すでに食堂にいる人は。食事を済ませてしまっている人は一体どれくらい──
ララが冷たくなって横たわる姿が、脳裏に焼き付いて離れない。指先がカタカタと震える。
「メローレア、落ち着いて」
シュトルヒの冷静な声が降ってきたので、はっと目線を上げる。
シュトルヒはそんなメローレアに、静かに目線を合わせると、メローレアの手の震えを止めようとするように、そっと大きな手で包み込んだ。
「何を見たんだ?」
"見た"
シュトルヒが言うそれは、占いのことだ。
告げても大丈夫だろうか。あまり具体的な事を言ってしまえば、夢見を疑われるかもしれない。
そんなことが一瞬頭を過ぎったけれど、神殿の仲間を失いたくないという想いに突き動かされるように、口を動かす。
「毒、です。神殿の水に、毒が」
声が掠れて、囁くようになってしまった。
(でも、夢見だと明かさずに信じてもらえるの? 占いだなんてそんな不確実な物では……)
シュトルヒは考え込むようにして黙っている。
次の言葉を聞くのが怖い。
(シュトルヒ様は私に占いを望んでくださったけれど、それはきっと、願掛けのようなもの。
……もし信じてもらえなかったら、みんなは、神殿は、どうなるの? もう、夢見の能力のことを明かすしか──)
メローレアはぎゅうと目をつぶった。
そんなメローレアを勇気付けるように、シュトルヒのきっぱりとした声が耳を打つ。
「ルペ。今すぐ食堂に行って、水と食事の提供を止めさせろ。水に触れるなと警告を出せ。理由は適当でいい」
「はい」
落ちてきた言葉にメローレアが目を見開いた時には、ルペはすでに視界から消えていた。
メローレアは、信じられない気持ちでシュトルヒを見上げる。
「信じて……くれるのですか?」
「当然じゃないか。僕自身の運命だって委ねようとしてるくらいなんだからね。今信じられないようなら、僕に君の力を乞う資格はない。──そうだろ、僕の大切な聖女様?」
シュトルヒはいつにも増して軟派な様子でウインクをしてみせた。
きっとメローレアを落ち着かせるために、わざとそうしたのだ。大したことではないとでも言うように。
彼の気遣いを悟って、メローレアは感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとうございます。一体どうお礼をすれば」
「すべてはこの問題が無事に解決してからだ。それで、僕は何を手伝えばいいのかな?」




