6、襲撃
「…エル、ギオ…?」
うまく動かない口から、震える声が漏れる。
それを聞いたエルギオは、キッと顔を変えて店の外に飛び出した。
手を伸ばす間もなく、彼の後ろ姿が屋外に消える。
「メルリ!エルギオ追いかけねぇと!」
硬直していた私を呼び戻したのは、カイの声だった。
ふと横を見ると、彼も私の肩に手を置いていた。
私より少し年下の彼も、私と同じく恐怖で手を震わせている。
けれどそれ以上に私を思ってくれていることが、真剣な瞳で分かった。
それで私も、少し落ち着いた。
「う、うん…」
「急ぐぞ。彼を、本当に死なせてしまう前に助けなければ」
ダックさんが、いつもと同じ落ち着いた声で言う。
その聞き慣れた声に、指の震えがおさまっていく気がして安心する。
「分かってる…!」
恐怖は消えていないし、膝はまだ震えている。
それでも、二人の声のお陰で私はなんとか立ち上がれた。
未だ床で震えていたペミーを拾い上げて、ギュッと抱く。
ペミーの震えが伝わってきた。
怖いよね、私も怖い。
でも、逃げない、逃げたくない。
今度は、今度こそは、彼と一緒に。
店を飛び出す。
辺りはメチャクチャになっていた。
(エルギオ…一体どこに!?)
悲鳴が飛び交い、一部の人々が内陸へと逃げている。
大部分は、地面にへたりこんで声も上げれず、港の方を見ている。
恐怖で立てないんだ。さっきの私みたいに。
滅茶苦茶な事態に視線を回しても、彼の姿をどこにも見当たらない。
視線を動かしたところで、空に幾つかの煙が上がっているのが見えた。
空船や港の建物が燃えているんだ。
港を象徴していた塔が、炎にのまれて崩れていく。
そして、その後ろから空を覆うような巨大な影が、現れた。
災竜だ。
赤銅色の、鎧のような鱗を液体みたいにうねらせ、黄色の目を光らせている。
一対の巨大な角から、薄い膜が薙いでいる。
その姿に、まるで花嫁のようだと他人事のように思った。
「災竜…」
その圧倒的な姿に、再び体が凍りつきそうになる。
あの日の記憶が蘇って、四肢が震えそうになる。
恐怖の束縛を解いてくれたのは、またしてもカイの叫びだった。
「どうする…!?」
「と、とにかく、エルギオを探そう!それに、逃げ遅れた人を助けないと!」
カイに叫び返して走り出す。
エルギオの真意は分からない。けれど、災竜に何かするのは確かだ。
私を守ると言ってたんだから。
災竜の気を引くとか、色々と方法はあると思うけど、何にしたって危険だ。
だから私も、とりあえず災竜に近づく。
そうすれば———
「う、うわぁ!なんだあれ!」
その時響いた声に、再び顔を上げて。
ありえない光景に、思考が止まった。
硬直した口から、呆然とした自分の声が漏れる。
「さ、災竜が…二体…!?」
いつの間にか、巨大な影が二つに増えていたのだ。
二体目。
二体目の災竜だ。
それは、真っ白の毛のような鱗を持っていて、夕焼けのような橙の瞳を持っていた。
頭から一本生えた、長く大きな黄色い角が、まるで白髪の中のメッシュみたいだと。
「う、うわあぁ!!」
「なんで、なんで二体もいるの!?」
「いや…助けて…」
周りの混乱が加速する。
一体でも島を滅ぼせる災竜が、二体。
ようやく動き出した思考が、さらなる恐怖と絶望に上塗りされる。
だめだ。逃げろ。あそこに行ったら生き残れない。
どう足掻いても、無理だ。
エルギオだって、もう死んでるかも。
エルギオだって……
「——!!」
二体目の災竜が吠えた。
空気がビリビリする。
ああだめだ。逃げることもできない。
逃げることすら許されない。
だって二体が同時に暴れたら、どう逃げたって逃れられない。
へたり込んでしまった私の視界で、二体の災竜が向き合う。
——そして、信じられないことが起こった。
白い方の災竜が、赤銅の方に襲いかかったのだ。
木々や建物が吹き飛ばされるほどの衝撃が、私たちのところまで届く。
大きな爪と牙がぶつかり合う音と、二体の竜の咆哮が響きあう。
びりびりと飛びそうになる意識を、必死に引き留める。
その中で、かろうじて疑問を持つことはできた。
何がなんだか分からない。
(…なんで災竜同士で戦っているの…?災竜同士って、べつに仲間じゃないの…?)
そもそも災竜が一度に二体なんて、今まで聞いたこともない。
私は、災竜についてなにも知らない。
巨大な体同士がぶつかり合い、周りの建物や木々を壊していく。
私も、逃げ遅れた人たちも、追いついたカイ達も、呆然とその様子を眺めることしかできない。
「なんだよ…これ」
カイがつぶやくように声を漏らしても、誰もその答えを持っていない。
その間にも、竜同士の闘いは激しくなっていく。
何度目かの牙と爪の激突の時、私は白い方の災竜が赤銅の方を、島の内側に行かせないようにしていることに気づいた。
まるで、これ以上港を傷つかせまいとしているように。
白い方に押されて空岸沿いまで退けられていた赤銅の方の足が、ついに片方空岸から落ちた。
バランスを崩した赤銅の方に、白い方の牙が襲いかかる。
赤銅の災竜の喉の鱗が剥けて、軟い肌が剥き出しになる。
それを見逃さなかった白い方が、その首に齧り付いた。
一瞬の硬直の後。
ゴリッという音が、聞こえた。
赤銅の竜の黄色の目から、光が消える。巨大が地面にダラリと垂れ落ち、土煙と地震を起こす。
静寂が降りた。
「死んだ…のか…?」
カイが呟く。
災竜が死んだ、なんて信じれない。
だって災いだ。災害だ。
災害は死なないはずだ。
白い災竜が、死んだ赤銅を地面に降ろした。
どこか、優しいと思えるゆっくりとした仕草で。
そして、こっちを見た。
「まずい…逃げるぞ、メルリ」
ダックさんが言った。
そうだ。災竜が二体目現れて、片方が死んだところで、何も変わらない。
勝った方が、人間の災害になるだけだ。
だから、逃げなきゃいけないのに、私は動けなかった。
だってその瞳が。
災害なのに、分かり合える筈のない怪物なのに。
こっちを見る災竜の瞳が。
私たちを、私を見る瞳が。
その瞳に映ったものが。
酷く、優しく思えてしまったから。
橙の瞳が細められる。まるで私たちを見つけたことを喜ぶように。
そして次の瞬間、二体の災竜の姿が煙のように消えた。
「消え、た……?」
カイの口から、溢れるような声が出た。
ダックさんも、ペミーも、周りの人達も、起こったことを整理できずに呆然としている。
「一体、なにが…」
「ペムゥ…」
ダックさんですら、状況を理解できていない。
私の腕から落とされたままのペミーも、どこか苦しそうな声を出した。
私は、何かに突き動かされるように足を踏み出す。
そのまま、後ろから響いた静止の声を無視して、災竜の居た場所へと走り出した。
港だったはずの場所は酷い有様だった。
もはや元の建物の跡形すら無い。未だパチパチと燃え続けている所もある。
崩れた瓦礫を乗り越え、倒れた木々を退けて。所々傷や泥をつけながら、私はどうにか件の場所へ辿り着いた。
(え…)
口にも出せずに困惑する。
なぜならそこに、なぜかエルギオがいたから。
俯いて何かを見ている。
大事な仲間の安全を知って、ひとまず胸を撫で下ろした。
そこで、エルギオの隣に、女の人が倒れているのに気づいた。
赤っぽい肌を白い服を身を包んだその人は、頭に被ったヴェールも相まって、花嫁を思わせた。
そしてその人は、首の骨が折れていて。
「死ん、でるの…?」
口から声が漏れる。
その声に、エルギオが振り返る。
小さな傷を多くつけた彼は、口周りに血をつけていた。
まるで、エルギオがその女性の喉を噛んで殺したようで。
それで。
それで、察してしまった。
でもそれは、到底信じられなくて。
「どういう、こと、エルギオ…?」
震える声が漏れる。
エルギオは、驚いたように目を見開いて。そして、少しの逡巡の後に言った。
「…今まで、黙っていてごめん。到底、信じられないと思うけど…」
そこで彼は、一つ溜息をついて。
覚悟を決めたような、それでもなお苦しんだような顔で。
「僕、災竜なんだ」
私は、とっくに何が何だか分からなくなっていた。