1、聖女の誕生
第一章 世界の夜明け
深く、深く沈んでいる。
まるで水の中のような体の重さに、無意識に瞼を開ける。
小さな、小さな光が見えて、私はそれに手を伸ばす。光はその強さを増して、いつしか視界全体を覆って。
「…あ…?」
そうして、私は目を覚ました。
一般的な木造の部屋。
温かみのある木目の壁に、白を基調としたベッドと机と本棚。
何年も使い続けた、自分の部屋だ。
「…ゆめ…?」
なんだかひどく昔の夢を見ていた気がする。遥かな、旧い記憶だ。
十年以上の時間が流れた今でも、あの時のことは覚えている。
空船事故にあって、無人島に流れ着いて、そこで彼と会った。
「エルギオ…」
記憶にこびりついた彼の名前を呟く。
無人島で災竜に襲われて、そこで私は気を失って。そこで私は、エルギオと離れ離れになった。
あれ以来、私は彼と会えていない。
一体今、どこに居るのか。
…そもそも、生きているのか。
「…」
記憶の最後に映る彼は、災竜と向き合っていた。
あの状態からは、どうやっても生き残るのは不可能だ。
恐らく、彼はもう。
「…災竜」
呟く。
今も世界中を脅かす、災害そのもの。その脅威は、変わらず人々を恐れさせている。
「いつしか災竜は人を滅ぼす…誰が言った言葉だっけ…」
寝起きだからか、思考は無意味な方向へ転がっていく。そんな雑考を断ち切ったのは、扉の音だった。
「メルリさん、起きてますか?そろそろ準備を始めないと、間に合いませんよ」
「あ、はーい!」
扉の向こうから、女の人の声がした。
声の主に返事をして、ベットから起き上がる。
そうだった。
今日は自分にとって、とても大事な日じゃないか。
急いで準備をしないと。
壁側の鏡台に早足で張り付く。
いつも通りの黒い髪と、空を思わせる水色の瞳が鏡に映る。
メルリ・ルアーナ。今日で18になる、自分の名前。
「…よし!」
感慨を振り払って、顔を洗う。
寝巻きからいつもの白い服に着替え、儀式用の紫色のローブを羽織る。
そこまでを急いでやって、私は部屋を出た。
廊下を端まで渡り、そこの階段を下りる。下の階に、さっき私を起こしに来た人、マリーおばさんがいた。
「メルリさん、おはようございます」
「おはようございます、マリーおばさん」
彼女は、ダックさんという人と一緒に、本当の孫みたいに私を育ててくれた人だ。
「儀式用のローブ、似合ってるじゃない」
「そうですか?私はコレ、あんまり好きじゃないんですけど…」
「こらこら、そんなこと言うと、爺さまとダックが悲しみますよ」
そう言って、マリーおばさんは笑った。
もはや見慣れた、そして今後はもう見れない笑顔。
少し、胸が苦しくなった気がした。
「それじゃあ、行きましょうか」
「はい」
マリーおばさんと廊下を歩き、大きな扉の前で止まる。
扉を開けると、天上の高い、広い部屋が広がる。
部屋の奥の壁にステンドグラスがはめられ、島中の住民が息を呑んで、部屋の左右を埋め尽くしている。
「この島から生まれた聖女。メルリ、こちらへ」
「…はい」
部屋に響いた低い声に、一呼吸して答える。
そして、緊張に震える足に鞭打って、私は部屋の中へ踏み入れた。
ーーー
メルリが流れ着いたネイケシア島。
ある時この島から、聖女が生まれるとの予言がされた。
生まれた聖女は人々を導き、災竜の脅威を退けるのだと。
世界中で恐れられる災竜。その脅威を退けられる存在は、とても重要だ。
ある人は言った。
聖女は、災竜という夜から世界を救う者だと。
世界に、夜明けをもたらす者だと。
今日は、そんな聖女の旅立ちの日。
島を上げての旅立ちの儀式が、大聖堂と呼ばれる施設で行われるのである。
ーーー
左右の島民の視線に晒されながら、私は大聖堂の奥へ進む。
最奥には、さっきの声の主、島主のゲルゲレム爺がいた。
「聖女メルリ。これより、其方へ旅出の祝詞を授ける」
「…はい」
口の中に溢れる唾液を、飲み込んで答える。
少し俯いて目を瞑ると、ゲルゲレム爺の口から、低い声で祝詞が流れ出した。
不思議な文言で、音も意味もわからない。
だから私の意識は、覚えてる中で一番古いあの日へ飛んでいた。
今でも覚えている。
決して忘れることはない。忘れてはいけない。
エルギオの、一見冷静に周りを見る強さを。
それでいながらの、見た目相応の弱さを。
そして私を助けるために災竜の前に出た、あの優しさを。
(聖女の、旅…)
思考は別の方向へ飛ぶ。
世界を脅かす災竜を倒す。
聖女とされた自分に課せられたのは、そんな使命だった。
大聖堂に、ゲルゲレム爺の低い声が響き続ける。
飽きた子供がくずりだし、周りの大人が静かにさせる。
そんな時間がしばらく続いて、ゲルゲレム爺はようやく口を閉じた。
「以上を持って、旅出の祝詞とする」
その言葉を最後に、ケルゲレム爺はメルリの頭に手を乗せた。
「聖女メルリ。汝の旅に神の御加護があらんことを」
「はい。行ってきます、島主様」
メルリが返事をすると、途端に歓声が巻き起こった。
「行ってらっしゃい、聖女様!」
「どうかお元気で!世界に夜明けを!」
あちこちから飛ぶ歓声に会釈をして、少女メルリは壇を降りた。
この日、世界に夜明けをもたらす聖女が、誕生した。
———
「…はあぁ」
自分の部屋に戻ってから、私は大きく息を吐いた。
島中の人から喜ばれるのは正直嬉しい。
でも同時に、背負う責任はとても重い。
出来ることなら静かに旅へ出たかった。
「でもまぁ、これでようやく旅立ちだし」
心は軽かった。長年の夢だった旅ができるから。
『世界を脅かす災竜を倒す』
夢物語のようなそんな使命を、叶えるための旅。
きっと楽しい事だけじゃない。辛い事だって沢山ある。
なんであれ、旅の目的は災竜。
…いやまぁ、広い世界を見てみたいって気持ちもあるんだけど。
思考を打ち切って旅立ちの準備を始める。
自分が暮らしているのは、大聖堂がある島の教会の一室だ。
島に流れ着いてからの十年間。使いこんで少し古びた、私だけの部屋。
昨日のうちにベッド横にまとめておいた荷物をとる。
中は最低限の旅装。
それらを詰め込んだ皮の提げ袋は、初めての誕生日にもらった大事なもの。
今日私は、ここを去るのだ。
そんな感慨を覚えながら、最後に片付かれた部屋を見回す。
口を開きかけたその時。当然ドアが開いて、部屋の中に白い物体が飛び込んできた。
気付いて振り返った時には、もう遅い。
白いそれが、頬に思いっきりぶつかった。
「っわっ!」
「ミィ!」
お互いに声をあげて、床に転げそうになる。
なんとか踏ん張ってから、床に落ちたそれを拾い上げた。
「もう、いつもノックしてって言ってるでしょ、ペミー」
白く丸い体に、同じく白い大きな耳二つ。手足はなくて、大きさはヒキクの実三個分(約30センチ)くらい。
耳の生えたボール、とでも言おうか。
メムリット族と呼ばれる、可愛い小動物だ。
名前はペミー。島に流れ着いてから飼っている、いわゆるペットだ。
「メルリ、大丈夫だったか?すまんな、抑えきれんかった」
「ダックさん…いや、大丈夫。いつものことだし、慣れました」
ペミーに続いて大男が入ってきた。
少し長めの黒い髪を後頭部で纏めて、吸い込まれそうな紺の瞳を細める。黒めの肌に橙の服と真っ黒な鎧を着ている。
ダックさんだ。
フルネームはダック・ボンデール。歳はアラフォー、らしい。
島に流れ着いた私を保護し、いろいろ面倒を見てくれた。戸籍上は義叔父らしいけど、私からしたら親同然の存在だ。
父さん、とか叔父さん、とか呼ぶのは、本人が嫌がるからしないけど。
「いつもすまないな。お前は本当に強くなった」
「え、えへへ…」
そんな事を言ってくる。
この人はちょっと不器用だけど、すっごく色々と考えてくれている。
おまけに顔がイイ。島一番のイケメンとか言われてるぐらいだ。
…たまに、何を考えているのか分かんない時があるけど。
「ミィ!ミィ!」
「あーはいはい、分かってるよ。行こう。」
催促したペミーを抱き上げて立ち上がる。
ダックさんが部屋を出るのに続いて、私も部屋を出た。
最後に、長いようで短かった十年間。
その間毎日寝起きした部屋を振り返って。
「……さようなら。」
私は、どこか晴れ晴れとした気持ちで呟いた。