風作の歌
(一)
風作は固唾を飲んだ。テーブルの向かいに座るアメリカ人青年の問いかけに何一つ答えることができないのである。
英語会話に真剣に取り組むようになって数年が過ぎた。風作が話す英語の発音は今では聞くものを圧倒するほど上達していた。風作が通う立志大学の友人たちの間でも、彼の英語の美しさは群を抜いていた。歯茎後部半母音の「R]、歯茎側音の「L]、舌歯摩擦音の「TH]の音など、彼が発する英語の音はネイティヴの発音のように優雅に響いた。英語学科のゼミナールの発表会の場で3回生の同志を前にして英語のプレセンテーションをするとき、風作は食い入るように見守るクラスメートの無言の賛辞を浴びながら得意の絶頂にあった。水を打ったように静まり返る講義室の中で低く声を響かせ、淀みない清流のように彼のスピーチは流れた。
風作は喫茶店の片隅で、先ほど会ったばかりのアメリカ人青年と向き合ったまま黙り込んでいた。腕組をして額には脂汗がにじんでいた。うつむくとコーヒーカップの湯気の中でルームランプの灯りが銀板のように揺らめいていた。
「私はクリスチャンです。あなたは何の宗教を信じていますか。あなたは何を信じて生きていますか」
青年は唐突に切りだした。彼にとってはありふれた問いかけなのだろうが、風作には、いまゴングが鳴ったばかりのボクシング戦で突然ストレートパンチを食らったような衝撃を与えた。
風作は「分からない」とは言えなかった。英語で‘ I don't know. ’と言うことが「自分は愚か者です」というに等しい響きを持つことを知っていた。これまでに「分かりません」と答えると、見下ろすように冷淡な眼差しを差し向けるネイティブが多かったことを風作は思い出した。
風作は必死になって滋賀県の湖東に住む両親の会話を思い出そうとした。その顔に焦りの色が滲んだ。
「うちの親はどんな宗教を信仰しているんだろう。たしか、家にはお経の本があった。そうだ!仏壇もあるじゃないか。僧侶による法事も執り行われていた。どうしてすぐに気がつかなかったんだ。そうだ、僕の家族は仏教徒なんだ。僕のところは・・・」
風作は腹が決まったように、きっぱりと言い放った。
「私の家族はみんな仏教徒です」
不思議そうに風作の顔を見つめていた青年の顔に微笑が浮かんだ。
「ああそうですか。分かりました」
風作は大きな仕事を一つ終えたように安堵した。しかし青年の眼差しは獲物を狙う獣の
ように静かに風作を見据えていた。風作はその視線を痛いほど感じた。
青年は再びゆっくりと問いかけてきた。
「仏教とはどのような宗教ですか。私は日本人が信じている宗教にとても興味があります。あなたの家族の方々が信じておられる仏教がどのような教えであるのかを説明していただけますか。仏教には多くの宗派があるのですか」
風作は絶句した。「愚の音も出ぬ」とはこのようなことを言うのだろう。
「こんなことになるのなら調子に乗って通りすがりの外国人に声など掛けなければよかった。『ネイティブの英語を求めて』と意気込んだのは良かったが、出会った相手が悪かった」と風作は自らを責めた。
自分が得意とする話題にその青年を引き込む前に、突然、彼の先制攻撃が始まったのだ。理知的で純粋そうな青年の顔を見ているうちに「もっと融通の利きそうなネイティブに声を掛けるべきだった」と悔やまれた。しばし沈欝な時が流れた。
「お客様、コーヒーをお注ぎしましょうか」
ウエイトレスがタイミングよく間を埋めてくれた。これを渡りに船と風作は突然、話題を変えようとした。
「その前に、あなたのことを聞かせてくれませんか」
アメリカ人青年は眉をひそめて不快を露にした。
「そう、例えば、あっ、あなたが日本に来られた理由とか、そ、その、日本のどのような所を訪れたいとか、あっ・・・」
風作の呼吸が乱れた。蛇ににらまれた蛙である。風作はわざと大きなジェスチャーをしながら話しかけた。
「ああっ、あなたのお名前、まだお伺いしていませんでしたねえ」
「私はデイビッド、ハンセンといいます。いま京都の大学で日本文化について研究しています。日本に来て半年になります。私はもっと日本や京都のことを学びたいと思っています」
「なるほど大学で日本研究をしているのか。それで切込みの鋭い質問ができるわけだ」
風作は、そう聞いて自分を慰めるに足る十分な理由を掴んだような気がした。
「私は森 風作です」と言うが早いか、青年は「フサク・モリ」と言いにくそうに顔を歪めて口の中で何度か繰り返した。
「いえ、フサクではなくフウサクです」と説明しても彼には「フサク」となるらしかった。
「OK、フサク、あなたの質問にはすべてお答えしました。今度は私が質問をする番です。先ほどの質問に戻ります。仏教とはどんな宗教ですか。教えて下さい」
風作は自分が彼にどのような質問をしたのか、また彼がその質問にどのように答えたのか分からぬほど舞い上がってしまっていた。風作とは対照的に、その青年の顔は好奇心に満ちていた。彼の瞳は吸い込まれそうになるほど強い引力でこちらの説明を待ち受けていた。彼の真摯な態度を見ていると、お茶を濁してその場を切り抜けようとしている、いい加減な自分が許せなくなってきた。そう思うとすべて腹が据わった気分になった。知らないことは知らないとして正直に伝え、青年の疑問に答えることができるように自分なりに調べ上げ、後日、再会したときに説明させてもらうこと、そうすることが最も誠実なあり方だと思われた。風作は一つ深呼吸をして真顔になって言った。
「アメリカ人がアメリカのことをすべて知っているとは限らないように、日本人も日本についてもっと学ばねばならないことがたくさんあります。残念ながら今、あなたの質問に手放しで答えることはできません。あなたが質問されたことについて私は私なりに学習し、よく理解した上でお答えしたいと思います。少し私に仏教について学習する時間を下さいませんか」
我ながら良くできた答え方だと思った。青年はコクリとうなずいて言った。
「OK。分かりました。それでは、次にお会いできるときを楽しみにしています」
風作は青年の瞳を見つめて言った。
「そのときは私からご連絡致します。あなたの電話番号を教えていただけますか」
二人はお互いの連絡先を交換した。そして強く握手を交わし、再会することを約束し別れた。
風作は京都市北区一乗寺の下宿に向かった。緊張感と疲労が折り重なって彼の背中に張り付いていた。見捨てられた案山子のように、力ない面持ちで、うなだれてとぼとぼと歩いた。そうしていると、先程のデイビッドとの会話の中で彼を煙に巻こうとしていた情けない自分が思い出されてきたのである。
彼と交わした会話の中で彼がこんな事を言ったのを思い出した。
「あなたが仏教を本当に理解しているのなら仏教について易しい言葉で簡潔に説明できるはずです。本当に物事を心得ている人はだらだらと講釈などはしないものです」
禅問答を心得ているかのような切口だった。それは風作の心を突き通すような厳しい言葉であった。先ほどはデイビッドのこの言葉で心の中に動揺が走ったのである。
「なるほど、その通りだ」
風作は人ごとながらうまいことを言うものだと思った。
気が付くといつの間にか北白川通りに出ていた。先ほどまで初夏の日差しが照りつけ、じっと汗ばむほどの暑さだったが、知らぬ間に日が西に傾き始めていた。この分では梅雨は近いだろうと思われた。
いつもは大学前から乗る路線バスの経路を今日は一人で歩いて下宿に戻る自分が不思議だった。北白川通りを北上し眼の前で移り変わる景色が徐々に黄昏ていくのが何故か悔しかった。
いつもはバスで通りすぎるだけの街並みが今日はいつもとは違って見えた。この時期は街路樹の葉が青みを増し日差しを照り返しキラキラと輝き始めるのだが、それさえも何とはなく今日は精彩を欠いているように見えた。北白川通り沿いの商店街もいつもの活気を見せてはいないようだ。それにいつもなら日暮れ前のこの時間には値引きされたばかりの商品を我先にと奪い合う買物客のおばさん達の姿が見えるのに、今日は不思議とどの店も静まり返っていた。豆腐屋のおじさんも店の奥に姿を消してキセル煙草をふかして手持ち無沙汰にしているし、魚屋の威勢のいいお姉さんは少し斜に構えてよく通る声で隣の八百屋のお上さんと世間話をしている。話にあまりに熱中しているのか拳を握りしめ八百屋のお上さんに何かを訴えているようだった。拳を振り上げる度にそのポニーテールが筆先のように微かに揺れていた。向いの呉服屋では店主が竹箒で店の前を掃いていた。通りすがりの学生やサラリーマンが躊躇なく投げ捨てる紙屑やタバコの吸殻などで店の前が汚れるために数時間置きに掃き掃除をするのが店主の日課になっていた。
風作は八百屋の前を通りすぎ横断歩道の手前で信号が変わるのを待った。西日が眩しく街中を照らしていた。家並はセピア色に染まり、一斉に東の方に長細く尖った影を作っていた。風作は左手を額にかざして西日を遮った。すると横断歩道を隔てた向い側に古ぼけた古本屋が目に入った。こじんまりとしていて申し訳なさそうな店構えだった。不思議なことにその店を見るのは初めてのことだった。いつも路線バスで同じ経路を行き来しているため、知っているようでいて意外と見落としている街の顔があるものだと思った。風作はふと、デイビッドとの約束を果たす糸口がこの店で見つかるのではないかと思った。
『万字堂』と草書体で書かれた板看板が入口の脇に無造作に吊されていた。ほこりを被って屋号そのものが見えにくくなっていた。ガラス戸の向こう側には、分厚い板で仕切られただけの本棚に赤茶けた背表紙が所狭しと並んでいた。
風作は吸い寄せられるようにガラス戸を開け中に入って行った。むっとした熱気が彼を包んだ。店の奥では、店主が畳座の木製のカウンター席に座ってこちらを見ていた。小型扇風機が小さな首を振って店主の方だけに風を送っていた。
無言で目当ての書物を探すふりをした。どういう配列でどの棚にどの様な種類の書物が並べられているのか見当もつかず、上段の隅から順番に一冊々確認するほかなかった。異常な暑さで、何故ガラス戸を閉め切ったままでいるのか不思議に思った。額から汗が流れ頬を伝った。
「どの様な本をお探しで?」
しばらくすると、かすれた声で店主が尋ねた。
「えっ、あの宗教関係の本を、ちょっと、仏教とかキリスト教とかの・・・」と自信なげに答えた。
今の風作の心はデイビッドとの約束で占められていた。自分なりに仏教を学び取り彼に日本仏教について説明すると約束したこと、そのことが鉛のように風作の心を重くしていた。いささか滅入った気分ではあったが、とりあえず仏教関係の入門書の類を数冊読んで自分なりに理解しさえすれば大抵のことは分かるだろうと思った。
「仏教なー、仏教のどういう本をお探しで?」
そう言いながら首に巻いたタオルで汗を拭きながら店主が近づいてきた。小太りで六十は越えているように見えた。上は肌着のランニングシャツ、下は綿のズボンを穿いてその裾を幾重にも折り上げていた。頭頂部は禿上がり黒縁のメガネを掛けていた。杓子定規そうなイメージは眼鏡のフレームのためだった。
「何か入門書のようなものがありますか」
風作は小声で尋ねた。
店主は禿上がった頭を掻きながら書棚の上をじっと見つめて「さーて、確かこの辺に数冊あったはずやがなー、仏教入門とかいうタイトルの・・・」と言う。
しかし一向に見つかる気配はない。店主は正面の下段、裏の棚、果ては隣の物置小屋に至るまで目につくところは大方探したようだが、結局見つからなかった。肌着のランニングシャツが汗で小太りの店主の胸に張り付いていた。
「お客さん、ありまへんなー。確かあったと思ったんやけどなー。すんまへんなー」
人の良さそうな店主が頭を掻きながら詫びた。風作は当の書物が見つからないことに少し落胆し無言のまま店を出ようとした。そのとき風作の背中に店主の声が速球のように飛んできた。
「お客さーん、ありました、ありました」
店主は木製のカウンター席横で右手に本を掲げて言った。
「ここに、ほら、私の目の前やがな。毎日、嫌でも目につくさかいに本のタイトルは覚えてましたんや。せやけど私もボケテまんなー、目の前に3冊もありまんがな。こんなとこにあるやなんて、これっぽっちも思いもしまへんでしたわ」
風作は全身の力が瞬時に抜けて行くのを感じた。しかし老店主の子供の様なはしゃぎように圧倒されて、納得のいかない不自然な笑顔を作らざるを得なかった。
店主の小さなカウンターに近づき見ると、当の書物は彼が座っている半畳程の大きさのカウンター席の右横にある長細い本棚の中で、店主の目線の高さ程の所に鎮座しているのだった。
(二)
二講時目の「英文学講義」は風作にとってもこの上なく退屈なひとときだった。蒸し暑くガランとした大講義室で覇気のない教授のかすれ声を90分もの間、聞かされているのはたまったものではなかった。出席している受講生の中に見知った顔はなかった。風作の知り合いは世渡り上手で機転が利くものが多く、彼らの多くはアサインメントの提出日か学期試験直前にしか講義に顔を出さなかった。日頃、彼らは空の出席票を誰かに提出してもらうのを常としていた。
いつ始まり、いつ終わったのかも判然としないまま教授が講義室を立ち去った。学生たちはけだるそうに腰を上げ、それぞれの方向に足を向けた。風作は大学構内のカフェテリアに向かった。数百人は楽にこなせる広さで、ここはいつ来ても学生達の活気で溢れていた。栄養豊かな食品類が低価格で口にできるのが魅力だった。風作はいつものように「日替りランチ」とアイスコーヒーを注文した。 昨日、古本屋で手にいれた例の書物を鞄から取り出しパラパラとページをめくってみたが、ページとページがへばりついていて一枚々を上手く剥がさなければとても読めたものではなかった。かなり古いもので、全体的に黒ずみ所々赤茶けて錆びた色をしていた。著者は『野本 潔』という初めて名前を聞く仏教学者だった。
見慣れない仏教用語には難解な漢字が多用され、その小さな文字がページを埋め尽くしていた。仏教は捉えどころのない形而上学であることや目を通すべきページ数の多いことなどが、初めて仏教を学ぼうとする風作をすでに辟易とさせていた。
風作はため息をついた。まるで六法全書を前にして法律を学び始めたばかりの法学生のようだった。ここに至って風作はデイビットに自ら仏教を学ぶなどと宣言したことを後悔したのである。
「おう風作。何を難しい顔をしてんのや。お前、いつもの日替わりか。俺、今日は何を食おうかなっ」
三井 俊 大阪出身で、この大学の軽音楽部に所属しているクラスメートである。授業ではほとんど顔を合わせることはないが、このカフェテリアではよく見かける「要領のいい連中」の一人だった。ルックスが良く無精髭を蓄えていた。頭の回転も速い男で、軽音楽部ではブリティッシュロックバンドのコピーをしてボーカルを担当している。女子学生に人気があり近隣の高校生までがコンサート会場に彼のサインを求めに来ることもあった。しかし見かけによらずストイックなところもあり、そのバランスの悪さが彼の魅力でもあった。ロック音楽に執心しているためリズムとしての英語に対する関心が強く「英語は音楽や」という言葉をよく口にしていた。
「おまえ何読んどんにゃ。仏教入門? 何やこれ?」
生玉子入りきつねうどんの湯気の向こうから大阪弁丸出しであっさりと三井に言われると風作は何か説明をするのが億劫になった。
「風作、お前、坊さんにでもなるつもりか。何や突然、仏教やて、おもろいやんけ。お前が袈裟かぶって歩いてるのを想像したら・・・こらおもろいわ」
こういうときの三井は異常に軽薄に見えた。風作はむっとした。
「英語のためだ」とだけ言った。
「英語のためって、何のことや」
三井は怪訝な顔をした。風作は言葉の隙間を埋めることが面倒くさくなり敢えて説明を避け横を向いた。あまり物事にとらわれない性格の三井はあっさりと話題を変えて言った。
「おい、お前、仏教言うたら、明日の昼、仏教の講話があんのん知っとるか。暇なんやったら行ってみんか。なにしろアメリカ人でアーネストという名前の坊さんが講話をするそうや。河原町今出川のバス停辺りにその坊さんのお寺があるそうやで」
「アメリカ人のお坊さん? アメリカ人が仏教を語るか・・・」
風作は怪訝そうに独り言を言った。
「あのな、俺の友人で市川という奴がおるんや。そいつはこの大学の経済学部3回生や。以前にそいつがその坊さんの講話に冷やかしで顔を出しよったんや。そいつには仏教も信仰心も何もあらへん。生の英語がただで聞ける。ただより安いもんはない。それだけの理由や。即物的な男や。そいつは物事に情をさしはさむのを極端に嫌う奴や。そいつの持論は『人生は金と力』やったんやけど・・・それがな、その坊さん、日本語が上手で講話の最初から終いまで全部、日本語で話したそうや。その講話を聞いて市川はたった1週間で入信してもうたんや。驚いてもてなあ。ほんまにびっくりや」
三井は額に汗をにじませて、うどんの湯気を無精髭を生やした口から機関車のように吐きながら早口でまくしたてた。
「それでその市川という人、今はどうしたはるんや」
「それがな。おもろいことに奴があまりに仏教に入れ込むさかい奴の親父さんが・・・奴の父親はこの街の市会議員なんやけど、『学問を忘れて宗教に専心するのは約束が違う。学生の本業を忘れて脇道に逸れているかぎりは親子の縁を切る!』とか言われて、今は別居状態や。本人は『自分にとって仏道修行に代わるものはない』とか言うて、目下、仏教研究に没頭しているらしいのや」
低俗週刊誌の根も葉もないゴシップ記事を楽しむように三井はどんぶり茶碗を片手で持ち上げて、うどんのスープを飲み干しニヤリと笑った。
「おい、何を考えてんねん、お前」
三井は顔を紅潮させて言った。
「そんな深刻に考える必要あらへん。嫌やったらええねんで。俺一人でも行ってみよかと思うてるし」
風作は別に深刻ぶっているわけではなかった。風作は昨日のデイビットとの出会いを思い出していたのだ。
『仏教を学びデイビッドに日本仏教の何たるかを説明するのであれば、アメリカ人とはいえ僧侶に直に会い仏教の教えを乞うことに意味はあるだろう。それで仏教について理解を深めることができれば好都合ではないか』と思った。
「面白そうだな。明日は予定もないし、バイトも入ってない。行ってみようか」
考えを巡らせながら焦点の定まらぬ面持ちで風作はつぶやいた。
その夜から下宿で例の仏教書との格闘が始まった。風作は第一章「仏教の歴史」を読み始めた。
インドで興った仏教が中国、韓国を経て日本に入り、その教えが飛鳥、奈良、平安、鎌倉など、それぞれの時代の求めに応じて変貌し深化していったこと。また、今世にも名を残す高僧が各時代で生まれたこと。そして彼らが、その後の時代を変革する影響力のある教えを残したこと。また、日本に伝えられた大乗仏教は彼らにより極めて日本化され、日本仏教として多くの民衆に受け容れられてきたこと。さらにインド、中国はそれぞれ独自の大文明の発祥の地であり、その意味において仏教は二大文明の精神を受け継ぐ教えであること。さらに仏教はギリシャ文化の影響をも色濃く受けていることなど。約2時間の読書で得た知識は膨大で、同時に風作が日頃、何とはなく疑問に思っていた事柄に明確な答えを与えてくれる形となった。
風作は知らぬまに読書に熱中し我を忘れている自分に気づいた。意外と面白いのだ。ほんの数時間の読書によって人類史のダイナミズムに触れることができるのが嬉しかった。
この調子なら仏教について一通りの知識を仕入れることはさほど困難なことではないと思われた。1週間もあればデイビッドの質問に答える位の準備はできるだろうと高をくくった。
翌日、風作は河原町今出川を一筋下がったところの仕出し弁当屋の前で三井を待った。彼の遅刻癖には定評がある。10分やそこら待たされることは覚悟の上だ。風作は革のショルダーバッグから例の書物を取り出し昨晩の続きのページを探した。
京都の夏は容赦がない。アスファルトの大通りに滞った狂おしいほどの真昼の熱気には僻易とする。額に汗をにじませて風作は第二章「仏教の生命論」を読み進んだ。その章の最初の1ぺージを読み終えたときすでに風作はその「生命論」という言葉に吸い込まれていた。
「古今東西の諸宗教、哲学はその教義・主義の相違はあれど、それらの根本とするところは人間の『生』に対する回答であり、また『死』の解明であると云える。『死』に向かう個々の人間存在に『生』の輝き、つまりは『不壊なる幸福』を実現する方途を示すのが宗教、哲学の役割である。『生命』という、万人がもれなくその中に有するという実際でありながら、何やらいわく捉えがたい事象を対象とするが故に『生命論』を学ばんとする者は学識に差別なく、社会的立場の上下、貧富、年齢、性別など如何なる差異もこれを受け入れるものである。
水は三種の変化相を持つ。熱という縁によりて蒸気となり気体の相で空を舞う。また冷えるという縁により氷となり固体の姿で存在する。姿は三様なれどもすべては水であることに変わりはない。生命も同じである。生命の実際は変わらずともその変化相は水と比較できぬほど微にして妙である。
中国は南北朝時代の僧、天台大師は人間生命の変化相を『一念三千』と解き明かされ、人間生命は一瞬の内にその中に三千種もの変化相を内在していると説かれた。その意味に於いて、生命は決してガンジス川のように悠久のリズムを刻み「不変」という名を冠して淘々と静かに流れている大河ではないのである。それは、例えるならば、地下何千メートルもの闇の洞窟から世界最高峰の晴れ渡る山の頂に瞬時にして跳び上がり、再び地上へと駈け下り、また次の瞬間にはどす黒い海の底に沈んでいくこともあれば、宇宙の果てに飛び発つこともある。さほどに動的に、かつ目まぐるしく人間生命は変化すると説かれているのである・・・」
「『生と死』の解明・・・」 風作は全身に悪寒が走るのを感じた。
「おい、風作よ。おい、お前、何を見とるんじゃ。さっきから通りの向こうから大きな声で呼んどるのに、お前、何を考えとるんじゃ。けったいな奴っちゃのー」
風作は夢遊病者のようにそれとはなく三井の顔に視線を移した。三井の不精髭の間から何か自分を責めたてているような言葉が泡のように宙に舞うのが感じられた。
「おい、風作、お前、どうしたんじゃ」
風作の左腕をぐいと前に引っ張り三井は顔をしかめた。風作はようやく我に返り彼の顔を見つめた。
「おお、お前か」
風作は生返事をした。
「お前かはないぞ。けったいな奴やのー。何を道のまん中でボーッとしとるんじゃ。夏の陽気で頭がおかしゅうなったかと思ったやんけ。大丈夫かいな、ほんまに」
そう言いながら三井は風作の背中をポンと叩いた。
「さあ行こか。ほら、あの辺や」
三井の指さすアスファルト通りの向こう側には、大きな杉木立ちに囲まれた古びた木造の伽藍が見えた。その建物は初夏の日差しを柔らかく吸い込むようにして静かにそこに在った。
河原町通りを東に横切り2筋ほど下がると、通りの角に小さな洋菓子屋があった。その店の中では2人の若い女店員がガラスケースの裏側で冗談を言い合いながら何やら手作業をしていた。その角を左に曲がると細長い路地が20mほど続き、その先に先程見えた杉の大木が数本、厳かに立ち並んでいるのが目に入った。数メートルも行くと左手には琵琶の木が数本、葉を青々と輝かせていた。琵琶の木の真下には直径1m程のコンクリート製の土管が3本積み重ねられゴロンと横たわっており、風が止むと琵琶の葉影は青写真のようにくっきりとコンクリートの地肌の上に写し出された。琵琶の木を通り過ぎると左手奥には千坪はあるかと思われる空き地が広がり、抜き取られた後にまた生え始めた雑草が微風の中でゆっくりと頭を揺らしていた。手前に、土が盛られたように畝高になった所が幾筋か見え、以前は誰かが夏野菜か何かを育てていたのだろうと思われた。初夏の日差しが心地良く、空を仰ぎ見ると大きく開けた青空が少しのすじ雲を身に纏いそこに伏臥していた。
「京都のど真ん中にこんなに広い空き地があるとは思わんかった。なかなか、ほっとする感じでええなあ」
何気なく三井が言った。風作も同じ思いだった。思いもよらぬ安堵感に包まれ二人は杉木立のなかに吸い込まれて行った。
「ごめん下さい」
玄関の引き戸を開け奥の方に届くように大きな声で風作が挨拶をした。
「はーい」
すぐさま明るい声が応えた。忙しげに廊下を走る足音が聞こえ、40歳前後の小柄な婦人が前掛けで両手をせわしげに拭きながら、かがみ腰で現れた。
「あっ、いらっしゃいませ。お講話にお出で下さいましたか。これは、これは、ご苦労様です」
腰の低い快活そうな婦人である。
「さあどうぞ、お暑い中を大変でしたね。さあ、さあ、お上がりなって、こちらにどうぞ」
弾けるような声に導かれて二人は広く日当たりの良い本堂に入った。木製の引き戸を開けると畳表からは快い藺草の香りがした。十数名の参加者が大柄の僧侶を取り巻くようにして座っていた。風作たちを認めると参加者は2人分のスペースを空けてくれた。風作達は僧侶の正面に座った。
参加者の一人が小さな声で尋ねた。
「先生、私、仏様は本当にこの世においでなのかと思うことがあるんです。私、本当は仏様を疑っているのでしょうか」
風作の右手で、こじんまりと正座をしている若い女性が緊張気味に尋ねた。小柄でほっそりとした美しい顔立ちの女性だった。風作には不思議と見覚えのある人だった。彼女は一言一言、言葉を選びながら頷くようにして話した。
「仏様が本当においでなら、どうして世の中の不幸を見過ごしておいでなのでしょうか。世の中には数え切れないほど多くの悲惨な出来事が起こっているというのに・・・」と女性は嘆くように言った。
「冴子さん、仏は一瞬たりともこの世から目を背けられることはありません。仏はこの世に常住しておいでです。そして、我ら凡夫の諸行を慈悲の眼でご覧になっておられます」とアーネスト氏は答えた。
「それではなぜこの世には未だに苦しみが満ち溢れているのですか、先生。この世には今も血を血で洗うような戦争が続いております。卑劣で恐ろしいテロ行為が一度に何千もの人々の生命を飲み込み、人間の力ではどうにもできない災厄が世界各地で起こっています。それに、癒える望みのない病や貧困で多くの人が苦しんでいます。もしも本当に仏様が私たちを見守っておいでなら、どうして苦悩に打ちひしがれる私たちに手を差し伸べて下さらないのでしょうか。どうして私たちをその大きな苦しみから救っては下さらないのでしょうか」とアーネスト氏が冴子と呼んだ女性は悲しげに語った。
「冴子さん」とアーネスト氏が名前を呼ぶと、彼女は他の参加者には届かぬほど小さな声で「はい」と返事をした。膝の上で花柄のハンカチをきつく握りしめる様子で、彼女が勇気を振り絞って一つの問い掛けをしていたことが見て取れた。そして、彼女は少しだけ顔をコクリと右に傾け僧侶を見つめた。
「先ほどもお話しましたように仏法は観念論ではありません。仏教の理論、理屈が頭で分かっても、それだけで苦悩に満ちた衆生の中に入って行くことは出来ません。それは人々の苦悩から厭離した机上の学問でしかありません。私たちは自己の知的欲求を満たすための学問をしているわけではないのです。仏法を実践するとは、苦しむ衆生の中に身を沈め、仏の教えを通し、その懊悩の汚泥にまみれながら苦楽を共にする、その姿を云うのです。この点で仏法は観念的な哲学とは異なるのです。仏法は行動です。その行動の積み重ねの中においてのみ、我々の生命の中に眠る仏の生命が湧き出でるのです。仏はどこか他の聖域で我々を見守っておいでなのではありません。仏は我々衆生の肉身の中に現としておいでなのです」
アーネスト氏はそう言って彼女に微笑んだ。
「それでは、私たち一人一人の命の中に仏様はおいでなのですか」
冴子はアーネスト氏を見つめて言った。その言葉は潤んだピンク色の唇から赤い実がこぼれ落ちるように響いた。
「その通りです。仏は、死後の世界や天国のように私たちから隔絶した宇宙の彼方に在るのではありません。仏は私たちの眼に映ることがなくとも、私たちの住む娑婆世界に在り、私たち衆生の生命の中に常住しているのです」
紺色の作務衣姿の僧侶は低く太い声で十数名の参加者に語りかけていた。彼が話す日本語は多少は英語のアクセントを帯びてはいるものの、明瞭で正しい響きを伝えていた。その大柄で引き締まった体格と広い肩幅は、柔道か何か日本の武道に通じている事を思わせた。大きな体躯の背後にはうっすらと燈明が灯り、ひときわ大きな黒壇の仏壇の中には八等身もあるかと思われる伸びやかな観世音菩薩像が安置されていた。その本尊は所々金箔が剥げ落ちており銅製の地肌がその部分だけ黒ずんで見えた。奥深い仏壇の薄暗がりの中で女性的で柔和な眼差しを我ら衆生に投げかけてはいるものの、何やら近寄り難い厳かさを漂わせていた。
その場に居合わせた老若男女の参加者は食い入るように僧侶を見つめていた。僧侶は流暢な日本語で淡々と語り続けた。
「信仰といっても何も難しいものではありません。親が子を大切に思うように、恋人同士がお互いを守り合うようにして確かなものを求める、その姿勢が信仰の道に通じるのです。ただ、信仰とは観念的なことだけに終始するものではありません。仏法は一切の衆生のための教えです。社会的立場や貧富の差を乗り越えて、あらゆる人々を苦悩と迷いから救う行動の教えなのです。すべては実践です。人と自らを救済しようとする実践なくして仏の教えの本質を身で読むことは出来ません」
淀みない声で彼は仏教の基本を説いていった。参加者たちは僧侶の眼をじっと見詰め、彼が語る一言一言に深く頷いていた。それはまるで彼の背後に厳かに佇む観世音菩薩像に頭を垂れているようであった。
「先生、生きるとか死ぬとか・・・俺、時々、夜、寝るときに下宿の部屋の天井を見つめて考えるんですけど・・・死んだら人間どこに行くんでしょうか。俺、死ぬのは何か怖いし、死んだ後にどこかに独りで行くのかと思うとぞっとするんですわ・・・死んだら何か真っ暗な世界で、自分独りでさ迷っているんやないかって・・・先生、人間、死んだらどうなるんですか。一体、何処に行くんですか。もしかしたら、死んだらすべて終わりで、何もかも無くなってしまうんですか。人間は誰でもいつかは死ぬ。そんなことは分かっている。それやのに何で自分の周りの人は何も怖がってないように見えるんやろ。こんなこと考えんの俺だけなんやろか・・・」
小田という名の青年はそう言うと他の参加者を見回した。小太りで、自信無げに辺りの顔色を窺うのが癖のようだった。小田は僧侶に視線を返し、自分を癒すに足る確かな答えを目の前のアメリカ人僧侶に求めた。小田の仕草は怯えたような不安定な感覚を伝えてはいたが、その問いは参加者の誰にとっても心当たりのあるものだった。今しがた訪れたばかりの風作にとっても、そうであった。そのとき風作は自分がこの寺を訪れたタイミングの良さを不思議に思った。風作は目の前のアメリカ人僧侶が「生と死」をいか様に説くのかを見極めたいと思った。
「小田さん、これは少し難しい話になりますが・・・」と言って僧侶は小田に優しい眼差しを投げかけた。
「人生には辛いことや悲しいことが多いでしょう。悲しみや苦しいことと毎日向き合っているうちに、知らぬ間に私たちは、苦しいことが生きるということなんだと思ってしまうんです。今から約2500年前に仏教を創始した釈尊は、生きることは苦しみに満ちている、と断言しています。釈尊は、苦しみは人間が生きていく上には避けられないものとし、人間が必ず味わう苦しみを四苦八苦とし具体的に説き切っています。生老病死、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、そして死ぬ苦しみ、として説かれた四苦は人間の根源的な苦しみを端的に示すものです。私たちは望むと望まざるにかかわらず、苦しみに満ちた世界に生れ落ちてきたのです」
僧侶は難解な仏教の哲理を努めて分かりやすく説いた。僧侶は続けた。
「人は自分が苦しみの渦中にあるとき、誰しもその苦しみを乗り越えた先にある安らかな世界を思いながら精進するものです。病の苦しみに呻吟するとき、人は今を乗り越えたときの状態を思い浮かべてその病と闘うのです。もしもこの病に打ち勝たなければ死が待っている、と覚悟するとき、人は想像もできないような恐怖と孤独と絶望を感じることでしょう。人は例外なく皆、死に到るのです。ここにいらっしゃる皆さんも私もいつかは死を迎えるのです。皆が同じように死を迎えるのであれば死は怖いものではないはずなのに、人は死の覚悟をするときは筆舌に尽くせぬ孤独と恐怖を実感するのです」
じっと僧侶の話に耳を傾けていた小田が再び問いかけた。
「先生、死ぬことはやっぱり怖いことなんでしょうねぇ。死んだ後の世界ってどんなふうになっているんですか。お釈迦さんは死後の世界をどんなふうに説いておられるんですか」
「仏は八万法蔵といわれる膨大な教えを残しています。日本に伝播した大乗仏教も仏の教えです。釈尊はインド北部に生まれた歴史上の人物でありながら紛れもなく仏様です。仏は過去、現在、未来の三世を通暁しておいでです。この世のあらゆることを見通した仏が経典という形で、私共のように道理に暗い衆生に、あるべき生き方を説き残したのです。しかしながら、釈尊は死後の世界については何一つ説いてはおられないのです」
「えっ、それ、どうしてですか。何でも見通している仏さんなら、どんなことでも分かるんじゃないですか・・・それって何か変ですよね・・・」
「仰る通り、仏は宇宙における一切の事象を通暁しておいでです。それと同時に我々人間の心の内も見通しておいでなのです。ですから、死そのものについては秘しておいでなのです」
「それって・・・どういうこと? ねえ、みんな分かる?」
小田は再び周りを見回して参加者の顔色を窺った。
風作にもアーネスト氏の言うことが飲み込めなかった。他の参加者も恐らく同じ思いでいると思われた。参加者は皆、僧侶の語る言葉は理解できなくても、その安定した声と柔和な表情に込められたゆるぎない信念を感じていた。一瞬の静謐に障子戸の向こう側から、か細い蝉の声が届いた。僧侶の低く温かい声が蝉の鳴き声を遠くへ押しのけた。
「人は死の何たるかを知りません。絶対に知ることもできません。どれほど死後の世界を見てみたいと思っても、その世界に入って帰って来ることはできません。だから死は永遠の謎なのです。そして、万が一その謎の理を知った者が、その包みを紐解いて、その片鱗でも言葉に出して説き始めて御覧なさい。人間はほんの僅かな言葉で、がんじがらめになり『死』を自分に都合の良いように解釈し始めてしまうのです。そして『死』は時間が経てば経つほどディフォルメされて実際とは異なるものとして変容させられてしまうのです。それは私たちが想像する以上に恐ろしいことなのです。人間が『死』を自分たちに都合の良いように解釈し始めると、今ある社会も一切のイデオロギーも根底から覆されてしまうでしょう。一切の人間性も、これまで人間が築き上げてきた一切の普遍的な価値観も何もかもが死に絶えてしまうでしょう。その意味で、死と死後の世界の認知は麻薬性を帯びていると言えるのです。人間が『死』を知るとなると、それは如何なる戦争よりも恐ろしい事態を生むのです。お分かりでしょうか、私の意図するところが。今ある社会体制が、社会機構が期待されているように機能している、その根幹には『死が不可知である』という大前提があるのです」
風作にとって、この話は衝撃的だった。風作はしばらく呆然と僧侶を見つめていた。これまでに人からこのような話を聞かされたことがなかったからである。語り続ける僧侶の青い瞳は遥か彼方の宇宙の神秘を解き明かしているように見えた。
「これはすごい話やで。風作、これは、どえらい話やで・・・」
三井が右の肘で風作の脇を小突きながら小声で言った。
「うん・・・」と風作が頷いた。
「釈迦は人間の愚かさを知悉していたのだ。だから『死』を説き明かすことを敢えて避けたのだ」と風作は考えた。
「先生、釈尊は『死』を説くことを避けたと仰いましたが、『生』についてはどのように説いているのですか。釈尊は生命をどのように説いているのですか」
小田の友人が尋ねた。小田の隣に座り痩せて神経質そうな顔つきをした大学生だった。ジーンズをはいてジョンレノンに似た丸めがねと髪型が印象的だった。
アーネスト氏はその青年に視線を移し次のように答えた。
「私たちが盲目の内は、どんなに光り輝く宝石を賜ったとしても、その美しさは分からないでしょう。生命は燦燦と光放つ宝石です。その輝きが理論、理屈で分かったとしても、それは幻に過ぎません。先ずは私たちが心の眼を開くことです。そうすれば釈尊の生命哲学は否が応でも、皆さんの命に大河のように流れ始めます」
そのとき風作の右手前に座る一人の男が唐突に話し始めた。グレーの作業着を着た貧相な風体の男だった。彼はアーネスト氏に向かって、しわがれ声で吐き出すように喋り始めた。
「話に割り込んで悪いがねえ、あんたね、仏さんちゅうもんがほんまに居るんやったら、何で人間がこんなに苦しむんだよ。そやったら何で惨めに生きる人間がいるんだよ。何やおかしいで。何でこんな姿で俺は生き恥をさらさなけりゃならないんだよ。俺にとっちゃ人生は長すぎるんだ。苦しいだけの人生なら生まれてこなけりゃいいんやないか・・・何も好きこのんで苦しまんでもええやないか。世の中にゃ何の苦もなく楽に生きてる人もありゃ、そりゃ泥の中をのたうち回って悲鳴を上げてるうちに日が暮れちまう、そんな人間もいるやないか」
男はそう言うと鋭利な刃物のように僧侶を睨んだ。
「失礼ですがお名前をお聞かせ下さい」と僧侶は言った。
「俺の名前? 俺は林や」
「今、林さんがお話しになったこと、それは仰る通りだと思います。人間何も苦労をするために、わざわざ生まれてくる必要はありません。どうせ生まれてくるなら幸せで満ち足りた生活を送りたいと思うのは当たり前のことです」と僧侶は手短に語った。
「それじゃ、なんで俺はこんな惨めな生き方しかできんのや」
林という老人は着ていた作業着の右袖に目をやり、その肩を左手で撫でた。
「若い頃、作業現場の事故で、この通り肩から右腕がもげちまいやがった。30年も昔のことやけど・・・日本は片端者には冷たい国やで。その日から、俺の人生は無茶苦茶や。冷たいのはこの国だけやない。兄弟も親戚も、友達と思っていた奴らでも、こんな俺から水が引くように離れて行きやがった。そんなもんなんや、人間ちゅうのは。調子の良いときはあれやこれやと言ってはくるけど、一旦落ちれば後は見向きもしない。俺はこんな人生を30年間、呪って生きてきたんや」
そう言うと、男の顔が曇った。
「そう、呪って生きたんや。仕事が無い、金がない、せやから食えん。まともに人間扱いされん。誰からも見向きもされん。振り返って俺を見る奴は、俺を哀れむか見下すかのどっちかや。人間ちゅうのは露骨なんや。ケダモノや。人間ちゅうのはケダモノやで。あんたらは偉そうに言葉をもてあそんで人を救うとか言うてるけど、この三十年間、俺は人から救われたことなんか一度もあらへん。そういうことなんや。言うのは簡単や。立派そうなことを言うのは誰にでもできるんや。俺の腕と人生を元通りにしてやる、と言うのは簡単や。言うだけやったら子供でもできるんや。せやけど、いつまで待っても元通りにならんことが分かったとき、はらわたが凍りつくような思いをするのは本人だけなんや。できんことをできるという奴の腹は何も痛まんのや。できんことを思わせぶりに偉そうに言う奴はケダモノといっしょや。あんたらもそうなんやろ。お前もそうなんやろ。えっ!」
林はアーネスト氏を指さして叫んだ。
「お前も偽者なんやろ。宗教や善意を売り物にして何も知らん者から金を巻き上げたり、女を寝取ったりする詐欺師なんやろ、お前も。えっ、そうなんやろ」
林は激昂した。話せば話すほど、自らの苦渋にまみれた半生が轟然と渦を巻き始めるのだった。針金のようにやつれた身体を軸にして妬みや愚痴がとぐろを巻いていた。興奮気味に身体を揺らす度に、油まみれの作業着が右腕のところで風を失くした吹き流しのように空しく揺れた。男は両眼から滴のように流れ始めた涙を左の掌で拭った。
僧侶は柔らかな毛玉を包むように男の心を受け止め、そして言った。その言葉に躊躇いはなかった。
「もしも林さんに今、右腕が蘇るなら林さんはその腕をどのように使われますか。右腕が元通りになられたら、これまでの人生をどのようにやり直すおつもりですか」
「そんなあり得んこと考えてどうすんねん。右腕が元に戻るやて? 何を言うてんのや。今まで腕のことでさんざん人にからかわれてきたけど、こんな風に、あほにされるのは初めてやで。外人さん、あんた、人を怒らせたらあかんで。ええ加減にせえよ」
林は左の掌で両目を拭いながら言った。
「・・・仏は宇宙に遍満する力をもって我々凡夫の苦悩を打ち砕きます。人の生死にかかる一大事において、仏は明確にその仏力を施されます。死の淵に立つとき尚も人は必死のもがきの中で永遠なる命を求めるものです。命尽きれば死が待つのみです。誰しも死は避けて通りたいのです。我々凡夫には死は孤独と絶望の世界の入り口のように思えます。それ故、そのもがきの中で仏を求める祈りが脈打つとき、それは新たな蘇生への第一歩となります。命を天秤に掛けられるとき何を賭しても再起を願う、その深き想いをして御仏に額ずくとき、仏は虚空に遍く満ちるその仏力をして不可能を可能にするのです」
「あんた、そんな難しいことを言うて俺に何をせえというのや。俺に腕が生えてくるとでもいうのか」と男は言葉を荒げて言った。
「何をどうするのではない」
アーネスト氏は男に取りつく亡霊を叩き出すように声を大にして諭した。
「腕がないことを嘆くのではない。腕がなくとも歩ける足があるではないか。腕がなくとも語る言葉があるではないか。人の嘆きを受け入れる耳があるではないか。人の苦しみを癒す時間があるではないか。無いことを嘆くのではない。有ることを喜ぶのでもない。我が身が如何なる状況にあっても、その身の不遇を厭わずに苦悩に咽ぶ人に自らの時間も力も財をも用いること、その中に歓喜の神髄があるです。腕が無くとも、腕の代わりに両肩に翼を羽ばたかせ天を舞う、そんな自在の境地が湧現するのです。それが仏法の凄さなのです」
「俺が人を癒すやて。人のために金と時間をつかうやて。何でやねん。俺に使こうて欲しいわ。何で俺みたいな人間が人のために施しをせなあかんのや。欲しいのは俺や。ちゃんとした身体も金も今まで苦しんだ分、欲しいのや・・・」
そう言うと男は声を押し殺して泣いた。
「林さん、今までご苦労をされた分、これから幸せになりましょう。あなたのことを何も存じ上げないのに分かったような口を利いて申し訳ありません。しかし私は御仏を信じております。御仏が衆生に約束したことを信じています。善人であれ極悪人であれ、病人であれ心の曲がった人であれ、どのような人であっても御仏を求めるならば必ず幸せになると御仏は約束しています。仏様の仰せのままに道を歩むとき、どんな迷いがありましょう。この世の誰一人として不幸な姿でこの世を終えることはありません。その人は人生の勝者です。そしてこの私も生きることに勝つために御仏に仕えているのです」
この日から林は養世寺で起居するようになった。この寺の小間使いをしながら、その後の人生を仏に仕えて生きる道を選んだ。仏と共に起居することに喜びを見出した男は、老境に入って生きることの真の意味を悟ったのである。
養世寺での講話は、一方的に僧侶が参加者に教説を垂れるものではなかった。ここは参加者が自由な立場で発言をし、心にある問いかけを発する場であった。アーネスト氏は仏の教えのもとに参加者の疑問や悩みを受け入れ、仏教的な立場から社会や世間を観る助言を与えていたのである。
養世寺を後にして、風作と三井はしばらくの間、亡霊のように故なく歩いた。
「人生に勝つための宗教・・・宗教は人生に勝つ生き方を教えてくれるのか」と風作はつぶやいた。
「仏教いうたら何や葬式やら法事のときだけ重宝がられて、日頃は坊さんたち、ボーっとして何してんのやろと思とったわ。陰にこもった何か線香くさいイメージしかなかったんやけどな、今日のはだいぶ様子が違ごたなあ。何や迫力があったなあ、あのアーネストちゅう坊さん。だいぶ仏教ちゅうもんを見直したわ」
三井が感慨深げに言った。
とぼとぼと歩く二人の影は命を抜き取られた枯れ草のように頼りなげに揺れていた。日中に温まった空気は逃げ場を失い、どんよりとその場に居座っていた。
突然、三井が歓声を上げた。
「うわー、何じゃこれは。薔薇や。庭じゅうが薔薇や。おい、こりゃ、ローズガーデンちゅうやっちゃで」
三井の声に引かれて左手を見ると、10坪程の庭を焼き杉のトレリスが囲い、蔓薔薇の花々が咲き誇るようにして初夏の日差しを浴びていた。その花々は青みを増した葉の中で
美しく照り映え、決して大きくはないその庭にひときわ重量感を与えていた。
「綺麗でしょ」
可憐な声が琵琶の木の下から聞こえた。声がする方を見ると先程の大きな土管の最上段に小柄な少女が一人で座ってこちらに微笑みかけていた。
「お兄さんたち、アーネストさんのお講話にいってらしたのでしょう」
少女は細身でポニーテールがよく似合っていた。瓜実顔で目鼻立ちのはっきりとした女の子だった。中学生ぐらいの年恰好に見えた。
「えっ、はあ、そやけど」
柄にもなく三井が照れて返事に困っていた。
「アーネストさん、私のとこにもよくいらっしゃるんですよ」と言って何かを思い出したように少女は微笑んだ。微笑むと鼻の背に小さな皺が入り、それが少女をいっそう可憐に見せた。少女は青い目をしていた。白地に空色の縦縞の入った綿のワンピースを着て、まるで彼女の周りにだけ涼風が吹いているかのように、とても涼やかな印象を与えた。ブランコにでも乗っているように両の足先を上下させリズミカルな動きを取るたびに、少女が履いている真白いソックスとサイズの小さな茶色い皮靴が陽光に照らされて輝いて見えた。
「アーネストさんを知っているの?」と風作が尋ねた。
「ええ、とっても」と言って少女はクスッと笑い右手で口元を覆った。
「アーネストさんはワインがとってもお好きで・・・お酒に酔うとうちのパパと腕相撲なんかなさるんですよ。それも真っ赤な顔をなさって・・・まるで闘牛場の牛みたいに恐い顔をなさって」と言いながら少女はとうとう吹き出してしまった。
風作たちは薔薇の絡まるフェンスに立ち止まって、少女の一人笑いが収まるのを待った。
「シェリー、家の中に入りなさい。おやつの時間よ」と少女の母親が手招きしながら薔薇の葉陰から少女を呼んだ。それから、風作たちを見て小さく微笑まれた。
「はーい」と大きな声で返事をするが早いか、少女は「エイッ」と掛け声を上げ鞠玉のように土管から跳び降りた。
「お兄さんたち、また今度お会いしたときにお話ししましょう。今日はこれで、さようなら」と言ってシェリーという名の少女は小さく手を振ってツル薔薇の絡まるアーチ扉の中に消えて行った。
あまりに突然の出会いに戸惑いながらも、シェリーという名の少女が去った後、二人は何やら言葉にならぬ切ない感情に捉われた。少女は二人に爽やかな薔薇の香りを残し微風のように通り過ぎて行った。
(三)
その夜、一乗寺の下宿で風作は「仏教の生命論」の章の続きを読み始めた。西側の窓の外ではカエルの鳴き声が滑稽なほど一面に響きわたり、時折、湿った夜風が風作の頬を撫でた。仰ぎ見る大文字山はそしらぬ顔で黒い山の輪郭を浮き立たせていた。
「誰しも『生』とは何か『死』とは何か、『死後の世界』とはどのような世界なのか、
と思い煩う時がある。特に身近な人の死により一層この問いかけは心に迫ってくる。しかし、世界の何処にも、この問いに的確に答えられる者はない。如何なる大学者であれ如何に高名な哲学者であれ政治家であれ、この問いの前には為す術がないのである。我々には生死のあり様を知る手がかりさえないのである。犬猫のような畜生であれば『生死の理』など問題ではない。しかし我らがその理を了解せぬままこの世を去るのは、人間が人間たる証を放棄するのと等しく愚かなことである。
学校に行けば読み書き、数術、倫理、道徳まで教えてくれる。子供が機械工になりたいと言えば師は機械の扱いを教える。生徒が語学を修得したいと思えば、師は様々な差異を乗り越えて未知の文化を理解することの大事を説くだろう。学生が世界の歴史を学びたいと言えば、師は世界中のその躍動する人間模様を語るだろう。もしも子供が師に「生」と「死」の意味とその在り様を問うたとき、その問いを真摯に発する子供達を絶望から救える師がこの世に何人いるだろうか。師でなくともよい、人間としよう。その問いに明確な回答を出すことができる人間が何人いるだろうか。『生』を真に理解するためには『死』が了解されなければならぬ。『死』を了解するためには『生』を知悉せねばならぬ。それ故、人間はどこまで行っても解明不能なこの謎を背中に背負い真っ暗な闇の中で迷い続けねばならないのか。奥深い洞窟に住む蛮人が光をその掌中にするときに闇はすでにたち消えており、闇に久遠の眠りを求めるとき、すでに光は閉ざされているように、生死は相見えることがないのであろうか。生死の実相は、我ら凡夫の知見を凌駕しており、我らの虚ろな眼には生死そのものが了解できぬ世界だと映るのであるが、しかし仏の両眼には、始むべき『生』はなく終の『死』もない、生死不二と映るのである」
「生死不二か」と風作は呟いた。曇ったガラス窓の向こうに桎梏の闇が広がる。大文字山の稜線と空の見分けがつかぬほど夜は沈んでいた。深い闇夜を仰ぎながら風作は、自分が生きていることの不思議を思わずにはいられなかった。これまで、己が生を、生かされている、と考えたことはなく、自分が本然的に生きている、と考えたこともなかった。自らの生を「ここに在る生」として、自然の理のように受け止めていたことに、いささか躊躇いを感じた。
「生と死は物体の実体と影のように不即不離の関係にある。生を離れたところに死は無く死を厭離するところには生は無い。生と死は不二であり、生を究めるならば死が信解され、死を了解したければ己が生を生き切るより他にない。すべては道理であり、道理を窮めるならば自ずと道が指し示される」
風作は「自分の人生を生き切るとはどういうことなのだろう」と考えた。そして、大なり少なり自分と同じ生き方をしている大学の同志や、クラス仲間の姿を思い浮かべた。頭に浮かぶのは、自分とさほど変わらない、何の変哲も無く、さほどの不自由もない生活を送る友人達の姿であった。彼らの姿に「己が『生』を生き切る姿勢」が伺えるものはなかった。「『生』を生き切る」とはどのような『生』のあり方を云うのだろうか、と風作はしばし考えた。
翌朝、風作は1講時の「英語表現」の始まる教室で講師の到着を待った。昨夜は例の仏教書に熱を上げて夜更かしをしてしまった。寝過ごしてはまずいと、余り睡眠を取らずに大学に向かったのである。G館、3階東側の大教室では学生達が重い足を引きずり集まり始めていた。
「森さん、ですね」
小さな声に振り返ると、昨日、養世寺で出会った冴子という女性が目の前にいた。
「昨日、養世寺で会った・・・」
「ええ、片山冴子といいます。お隣に失礼してもよろしいでしょうか」と冴子が微笑んで言った。
「ええ」
風作は突然の再会にいささか動揺しながら答えた。
冴子は風作の横に座り、鞄を机の脇のフックに掛けた。その後しばらくの間、肩を並べて会話を交わした。
「そういえば、昨日あのお寺でお会いしたとき、前にどこかでお会いしたことがあるような気がしていました」と風作は昨日のことを思い浮かべて言った。
「ええ、私も森さんが、ここの大学の英語学科の方であることは気づいておりました。だから、昨日とても緊張してしまって・・・」
そう言いながら冴子の頬が赤らんだ。初対面ではないとはいえ見知らぬ男性と親しげに会話をすることで、冴子の心の糸は張りつめていた。その掌は汗で濡れていた。
「昨日の話はとても良いお話しでしたよ。あなたの真剣な話し方には少し意外な感じがしましたが」
「意外な感じ?」
冴子が首をかしげて尋ねた。
「何て言うのか、最近の女子大生の言うことじゃないなって思ったんです」
「えっ、そんな、私、変なこと言っていましたか?」
冴子が目を丸くして尋ねた。
「ううん、そうじゃなくて・・・ほら、見てごらん」
風作が投げかけた目線の先には、机の上に小さな手鏡を立てて小さな鏡面を覗き込んでいる女子学生がいた。なりふり構わず化粧に熱中するその姿は滑稽でさえあった。
「あんなんじゃなかったってことです」
冴子は微笑んだ。
「でも私、変なこと言ってませんでしたか?」
「変なこと?」
風作は左横に座っている冴子を怪訝な面持ちで見た。冴子は細い肩をすくめ、両腕をこわばらせて風作を両の眼で凝視していた。透き通ったガラス細工のような瞳が風作の返答を身構えるようにして待っていた。
「いいえ、そんなことはありません」
風作がそう言うと、冴子の硬い表情が溶けるように笑顔に変わった。風作の一言が冴子に、世のすべての人に受け容れられたかのような喜びを与えていた。その緊張は解き放たれ、冴子は拘泥ない自身の感情を露にすることを許されたように感じた。
風作は自分の言葉に反応するように冴子の表情が変転するのを見て、不思議な印象を抱いた。
「森さん、昨日のお講話の後、アーネストさんがご提案なさったでしょう。今度のお講話は食事会を兼ねたものにしようって。みんなで食材を持ち合って、調理して、一緒に食事をしながら語り合おうって。私、今からとっても楽しみにしておりますのよ。どんなに楽しいお食事会になるだろうって・・・あの、森さんはいらっしゃいますの?お忙しくなければお出で下さいませ」
冴子は風作の顔を覗き込んだ。風作は冴子を見つめた。冴子の顔は生きることに適さない水中花のように、可憐さの中に美しさと脆弱さを閉じ込めていた。深く傷ついた心の持ち主だけが見せる潤んだ作り物のような瞳を冴子は風作に開いていた。
「はい、そのつもりです」と風作は事も無げに答えた。
風作がそう言うと、冴子は窓外の青空に浮かぶすじ雲を見上げ目を細めた。
「あっ、雲が、きれい・・・」
その横顔に前髪が流れ、冴子はそれをか細い左の人差し指で耳に掻きあげた。白い首筋からは穢れなき乙女の清純な香りがした。
そう呟くと冴子は風作に目を移し、目を細めて囁くように言った。
「森さん、もしもお差し支えなければ二人でお話しをさせて頂けませんか。どこかでお茶でも頂きながら・・・」
そう言って冴子は少女のように頬を染めた。風作は事の意外な展開に戸惑い、次に言う言葉を飲み込んでしまった。
「今度の土曜のお昼過、1時頃はいかがでしょう。学生会館前でお会いするのは・・・」
冴子は潤んだ両の瞳で風作を見つめて言った。いささか強引な申し出ではあったが、風作には何かを伝えようとする冴子の真摯な思いが伝わってきていた。風作は冴子の願いを聞き容れた。
いつの間にか教室に登場した担当講師がマイクを握り講義を始めていた。大教室は知らぬ間に学生で埋まり、エアコンがない空間をすぐさま熱気が包んだ。先ほど化粧を終えた女子学生はプラスチック製のファイルを団扇代わりに使い、汗にじむ顔に緩やかな風を送っていた。整髪料の甘い芳香を乗せてその風は風作達の元にも届いた。
風作はこの「英語表現」の講座が好きだった。この講座では、これまで文化や風習といった言葉で片付けてきた、この国特有の生活様式や価値観に真正面から向き合うことができた。そうすることで、これまで当然のように受け止めてきた「日本らしさ」という文化の諸相を再認識することができたのである。
この講座の担当講師は山本という名の40代前半の小柄な男性であった。山本講師はこの講座の研究目標を「和語翻訳」とし、学生に多くの欧米の文献を日本語に直させた。欧米の文献といっても、それは欧米人ジャーナリストが欧米と日本の文化を比較し、その差異を論じている文献に限られていた。手術台に乗せられた死体を解剖するように日本文化に容赦ない分析の眼をあてることでジャーナリストたちは日本文化の実態に迫ろうとしていた。彼らの目の覚めるような分析的論法は曖昧模糊とした日本文化の灰色部を白と黒の二律背反の論理で明確に分離していた。彼らの甘えのない論法を学ぶことで、この講座の受講生はこれまでとは異なる次元で日本の文化や社会の特異性を認識する眼を養ったのである。そのことで受講生たちは、欧米人がこの不思議の国を眺める視点で、日本という奇異な国家を見ることになるのであった。
山本講師はチョークの粉よけにいつも白衣を着ていた。痩せて、知的な顔立ちが小さな丸眼鏡でひょうきんな印象を与えていた。額の汗を白いハンカチで拭きながら山本講師は学生達に言った。
「今日はみなさんに一つ質問をさせて下さい。中学生でも分かりそうな問題です。しかし、正解を期待するのは難しいですが・・・‘ HISTORY ’という英語を日本語に直して頂けますか」
そう言って講師は少し間を置いた。
「さあ、よろしいですか。どなたか分かる方がいらっしゃいますか」
講師は講義室を見回し、目の前に視線を落とした。
「それでは、あなた、いかがですか」
彼は、教卓の前に座って自信無げに視線を投げかける女学生に答えを求めた。彼女は指名されると、小声で隣の女学生に助けを求めた。彼女たちはお互いに顔を見合わせ、こそこそと相談し始めるのだった。前髪を指でいじりながら小さな声で「歴史でしょうか」、と答える声が聞こえた。講師はその隣に座っている女学生にも答えを求めたが同じ答えが返ってきた。
「私達は、‘HISTORY’は『歴史』だと教えられてきました。しかし、そこに大きな見落としがあることを忘れてはなりません。親日派のアメリカ人の中には‘HISTORY’を『歴史』と置き換えることに疑問を感じるという方が多くおられます。クリスチャンの中に多く見られます。西洋の文化的観点では彼らのいう時の流れは『神が語るお話し(HIS STORY)』となるのでしょうが、日本に住む私たちが時の流れを俯瞰するときには、必ずしも神の視点を意識しつつ時間の流れを眺めているわけではありません。私たち日本人にとって、時間は、誰から与えられたものではなく、自然にあらゆる事象を支配しながら、悠久の時を刻み無始無終の大河のように淘々と流れているのです。「歴史」という日本語には、人間の思惟を越えた『神』という巨大な絶対者の陰は微塵も感じられないでしょう。ところが彼らが‘ HISTORY (HIS STORY) ’と言う言葉を口にするとき、彼らは自分の心象風景の背後に『神』という巨大な絶対者の吐息を感じているのです。それは極めて無意識のプロセスの上に成り立っています。また、そのことは決して彼らの言葉で説明されることはありません。表象には表れない彼らの宗教的信念と文化を感じ取ることができる、その瞬間に、一つ一つの言葉の重みが明らかになるのです。私たちが学習を続ける中で、それぞれの言葉の重みと、その背後に隠された彼らの生の営みのあり方が次第に見えてくるのですが、それは途方もなく長い旅になるのです」
‘HISTORY’を例に挙げ山本講師は西洋と日本の言語・文化の乖離を指摘した。風作には欧米と日本の間に横たわるその大きな乖離が、決して埋められぬ深い海溝のように思えていた。
長い講義が終わり教授が退室した後、風作はふと考えた。‘HISTORY’が『神のお話し(HIS STORY)』となるのであれば、人類史に「仏のお話し」も残されているのだろうかと。もし在るとするならば、仏は人類に何を語り残したのだろうか、と思った。そして、それは人類史に如何なる道筋をつけたのだろうかと考えた。その道のりを思い浮かべるとき風作は一本の太く巨大な知恵の大道が螺旋状に果てしない虚空へと繋がっている様を思い浮かべた。風作はその答えが例の書物の中で秘宝の如くに燦燦と輝き放っているのを想像した。銀河宇宙の大渦の中で、独りその鼓動に耳を傾けている自分がいた。
「森さん、どうなさったの」
冴子が風作の横顔を見つめて言った。
「恐い顔をなさって、どうなさったの。ご気分でも・・・」
風作は我に返り冴子の顔をちらと見て言った。
「えっ、いや、何でもないんだ」
冴子は風作を不思議そうに見つめ「クスッ」と笑った。
「それじゃ、土曜の1時に、学館前で・・・」
そう言って、風作は思い詰めた表情で大教室を後にした。
烏丸通りを越え、西に構える如月学舎の学門を抜けると「シュンジュン」という瀟洒なカフェがあった。風作の行きつけの店だった。そこは講義の合い間に立ち寄るには都合の良い店だった。店内で学生達は談笑をしたり、一人で授業の予習をする者もいた。その広い空間には、いつも静かで心地よいシャンソンが流れ、深いソファーに腰掛け読書に耽る者もいた。如月学舎から近くにあるため知人に出会うことも多かった。風作は見慣れた店のガラス扉をゆっくりと開けた。店内はエアコンの効いた快い空間だった。
「よっ!」
マイケル・ダグラス似のマスターはいつでも、訪れた学生にそのように声を掛けるのだった。この店に初めて訪れた学生達は、キョトンとした表情をマスターに投げかけるのが常だった。しかし何度か足を運ぶうちに、彼らもこの店の醸し出す雰囲気に安らぎを感じてしまうのだった。
マスターは物静かで、いつもただ微笑んでいるだけで「よっ!」と声を掛ける以外ほとんど何も話さない。黒ズボンにダンヒルの黒ベルト、白いカッターシャツに黒い蝶ネクタイ。オーダーが混んでいないときは、彼はいつもの姿で出窓の縁に寄りかかり窓外を眺めている。出窓には色とりどりの花が添えられており、その可憐さを背にした男の姿は、まるで洋館の壁にもたれ、来るか来ぬか分からぬ恋人を待ち続ける青年詩人のようだった。
風作はマスターの前のカウンター席についた。
「いつものブルマンだね」
マスターはコーヒー豆をグラインダーに入れながら尋ねた。彼は一人一人の客の好みを心得ていた。カウンターの湯気の向こうでマスターの黒ネクタイが光った。
「ええ、いつもの」
風作は例の書物をショルダーバッグから取り出しながら答えた。手の平に包み込めるほど小さな書物が、今は風作の心を捉えていた。虚空より広大で深遠と説かれる人の心が、僅か数百頁の古びた書物の中に収まっていた。風作は逸る心を押さえ、目の前の赤茶けて所々剥げ落ちた背表紙を玉手箱の蓋を取るように開けた。ゆっくりと「生命の扉」が開かれた。
「宗教が無意識の領域で人の思惟を支配するときに、その宗教に深く根ざした巨大な思想や文化が創出される。仏教が世界に流布し始めて、およそ二千五百年。その時流の中で仏教文化が華麗に花開いたのは、信仰者がその教えを骨髄で受け入れたが故である。それは、その教えに生死を厭わず信伏随従することを意味する。仏の教えには人を魅了して止まぬ力がある。宗教を信仰するとは、自らの生死への躊躇いを乗り越えることを意味する。自らを圧搾し、すべての事象を具象化し有限化する二つの壁、生と死。その巨壁を仄かな灯火で打ち砕くのだ。それが信仰である。生死への拘りが失せるとき、生死を凌駕する生命観を感得するとき、その時にありとあらゆる苦悩こそが銀河の渦中に煌く星辰のように自らを荘厳するのである」
風作は震えた。自分が深いジャングルに迷い込み、暗い洞窟の中で複雑な迷路の岐路に立っているような思いがした。風作は心の中で再びこの巨大な問いを自らの心に問い掛けた。
「生とは何か。死とは何か」
「あら森君じゃないの。どうしたのよ恐い顔をして。ポーの小説でも読んでいるの?」
声に隣を見ると、口紅に濡れた厚い唇が風作の目の前で真紅に光った。英会話講座のクラスメート、藤野 瞳だった。彼女については、幼少期から長くアメリカ東部に住んでおり高校のときに帰国した、という噂を聞いていた。なるほど、彼女の話す英語は日本人離れしており、スピード感のあるアメリカンイングリッシュだった。セミナーなどでの彼女の積極的な発言は論理的で説得力があった。しかし風作は瞳の言い回しの中に自己中心的で傲慢な響きがあるのを見抜いていた。そのため彼女とは距離を置き、クラスの中でもわざと心に入れずに過ごしていたのである。その彼女がカウンター席の隣に座ってきたのである。
「やあ、今日はポーじゃないんだ。ちょっと調べたいことがあって・・・」と風作はつくり笑いをして答えた。
「何よ、調べごとってぇ」
瞳は覗き込んで言った。風作の腕に頬を近づけて、まじまじと例の書物を見つめた。その唇が風作の腕に触れてルージュの跡を微かに残した。気付かぬ素振りで、瞳の目は開かれたページの上を泳いだ。風作の鼻先に瞳の生温かな体温が届いた。
「ねえ、マスター。私、この人にふられたのよ。随分と前のことだけど。デートを申し込んだのに答えてもくれなかったのよ。失礼だと思わない?もうどうでもいいことだけど・・・」
マスターは大きな手の平でコーヒーカップを拭いて微笑んだ。風作も俯いて苦笑いをした。
「ねえ、マスター。マスターはご結婚なさっているんでしょう。さぞ素敵な奥様がいらっしゃるのでしょうね」
彼の左薬指に光る指輪を見つめて瞳が言った。マスターは何も答えず俯いた。
「ねえ、マスター。奥様もこのお店にいらっしゃるの? できたら一度お目にかかりたいわ。どんな方なのかしら」
マスターは何も言わずにコーヒーカップを拭き続けた。瞳が話しかけるごとに、その沈黙は深まるようだった。その様子に構わず瞳は話し続けた。
「マスターはいつも、あまりお話しにならないけれど、お家でもそうなの?奥さんといらっしゃるときも黙り込んだままなの?」
「藤野さん、失礼だろ。そんなこと・・・」
風作が小声でそう言いかけると、マスターが顔を上げて静かに言った。
「私には妻はおりません。結婚もしておりません」
「えっ、じゃあ、その指輪は・・・」
瞳が意外な口調で言った。風作も同じ思いだった。
「これは・・・」
マスターは左薬指をちらと見た。
「へぇ、どんな?どんな訳があるの?」
好奇心に満ちた顔をマスターに向けて、瞳が尋ねた。しばらくの沈黙の後、マスターが口を開いた。
「こんなこと、今まで人から聞かれたことがないもので・・・」
そう言って彼は一つ深呼吸をした。そこには、不器用で照れ屋の少年がいた。
「昔、恋人がいました。10年以上も前のことですが・・・」
「離婚されたんだ。奥さんに捨てられたのに、今でも忘れられないんだ。図星でしょ?」
瞳は小悪魔のように、男の心の傷を弄ぼうとしていた。
「いえ、そうじゃないんです」
「じゃ、何なのよ」
瞳は頬杖をついて、じれったそうに言った。
「結婚を間近に控えたある日、彼女は亡くなりました、事故で・・・」
「えっ、そんな・・・」
瞳は驚いて、あんぐりと口を開けたままマスターを見つめた。風作は、聞いてはならぬことを聞いてしまった瞳に苛立ちを感じた。
自らの浅はかさを打ち消すように瞳が言葉を継いだ。
「ごめんなさい、変なことを聞いて・・・」
「いえ、いいんです。昔のことですから」
そう言って、彼は黒い蝶ネクタイを右手で摘んだ。
「今もその人のことが忘れられないのでしょう、マスター」
「そう・・・ですね」
男は言葉を濁した。
「それからマスターはどうなさったの」
「いや、何も・・・」
「こんな言い方、失礼かもしれないけれど、なんかドラマチックだなぁ」
「いえ、そんなんじゃないんです」
いささか自嘲気味に彼は言った。
「人を本当に愛するって大変なことなんだ。でも、10年は長いよね・・・」と瞳はポツリと言った。
「かけがえのないものがあるって素敵なことですよね。本当に誰かを愛するとか、何かを信じるとか・・・それだけで生きていける・・・そんな気持ちになりますよね」
思わずマスターが口を開いた。
その言葉で二人は、その寡黙な男の切ないまでに深い孤独を知ったのである。
日頃、無口な男が、自らの心の傷を明かしたその勢いで今日はいつになく饒舌になっている。そんな男を風作も瞳もじっと見つめた。
「その瞬間だけでも本当に生きているという実感でしょうかね・・・相手がかけがえのない存在に思えてくることって、その瞬間っていうのは本当はとても幸せなんだと思うんですよ。この歳になってようやく分かりました」
男は恥らいながら言った。
「でも、一人の男性にそんなに愛されたその方も幸せですね。10年も思われ続けるなんて。うらやましいわぁ、本当に」
「・・・でも、またすぐに彼女と会えるんじゃないかと思うんです。今でも、彼女はいつも私の側にいてくれているんだと思うんです・・・だから今は・・・不思議なんですよ、生きているとか死んでいるとか、そんなことはさほど問題じゃないって思うんです」
「何だかよく分からないけれど、心が溶けていくような感じがするわ。とてもロマンチックだわぁ」
そう言って、うなじに髪を整えて夢見るように瞳が宙を眺めた。
風作には彼が語ることがよく理解できた。その男の話は風作の手の中の書物に説かれていることと符合していたからである。
しばらくすると瞳が午後の講義を受けるため店を出た。他の学生のオーダーを取っているマスターの横顔を見て、風作は再び玉手箱の蓋をそっと開けた。そして待ちかねたようにその深遠な世界を覗き込んだ。
「仏は森羅万象を説き切った。そして仏は大宇宙のありとあらゆる現象を貫く法を説いた。それは生命の法である。生命を宿すものは須らくこの法から逃れることはない。同じく、この太陽系、銀河宇宙が生命で満ちるとき、我が大宇宙も仏の法(生命の法)から外れることはない。生命の法は、川面に棲む小さき微生物から生命の遍満する大宇宙まで、時空を越えて、あらゆる事象、あらゆる現象を余すところなく内包する。それ故、生命の法に則した生き方を選ぶとき、その人の歩みは全宇宙の歩みと歩調を同じくし、壮大な宇宙のシンフォニーが流れる世界で、生命力の弾みのリズムと共に荘厳なる人生を遊戯する。春は花咲き、夏は木の実成る、秋に安らぎ、冬に滅す。あらゆる生命はその中に、この理を抱き、億万恒沙という流転の中で生老病死の真を果てなく繰り返すのである」
風作はふと顔を上げた。美しい花々が飾られた食器棚の隅で小さなフォトスタンドが明るい光を放っていた。その中に、若かりし頃のマスターとその恋人が肩を寄せ合って微笑んでいた。その輝きを見つめながら風作は思った。
「花は枯れる。美しいものは、いつか朽ちて死を迎える。お互いがどれほど深い愛情で支え合っていても、いつか別離の日が来る。永遠の愛、永遠の美、永遠の命を保つことはできない。だから人間は今生きるこの瞬間を愛しみ、今生に限りがあることを忘れようとするのだ。それが凡愚の人間の想いなのだ。しかし、仏は人間にその愚かさを乗り越えよ、と教えている。現象面に現れる四苦八苦の本質を知悉し、その苦しみを乗り越えよと説いている・・・」
風作には、花に飾られた出窓の縁に寄りかかり流れ行く時間を静かに見つめる物静かな男の姿が金色に輝いているように見えた。そのときの風作の心に一つ去来する想いがあった。
「生命の実相に迫る深い人生・・・それが仏の指し示す道ではないのか・・・」
(四)
土曜の午後1時。冴子と約束した時刻の10分前に風作は学館前に着いた。もうそこには冴子の姿があった。今日の学生会館はフォークギター部の創部20周年祭で賑わっていた。その前庭には外国人ミュージシャンをレトロなタッチで描いたペンキ絵が所狭しと立てかけられていた。その立て看板の前では、学生達が切り盛りするたこ焼き屋やリンゴ飴、綿菓子やカキ氷など、にわか作りの露店が活気を見せていた。賑わう声を背にして、独りポツンと土筆のように立って冴子は風作を待っていた。冴子は風作に気がつくと、いつものようにコクリと頭を左に傾け、小さな笑顔を作った。
「こんにちは」
「やあ、早いですね」
照れくさそうに風作が言った。
「森さんだって2番ですよ」
冴子は澄んだ笑顔を返した。
「今日はお天気で・・・ひょっとして、もしも雨が降ったら、と思って傘まで持ってきてしまいました」
冴子は甘えたように俯いた。その両手には花柄の小奇麗な雨傘が握られていた。雲ひとつない青空に雨傘は不釣合いだったが、風作は恥じ入る様子の冴子を可愛いらしいと思った。
「でも夏は天気の移り変わりが激しいから・・・ほら、僕だって」
風作は思い出したようにショルダーバッグの底から押しつぶれた緑色の小袋を取り出した。そのビニール製の袋には、ほとんど日の目を見ない皺だらけのヤッケが収まっていた。
それを見て冴子は「クスッ」と笑った。思いがけないやり取りの中から、冴子は炎天の夏空の下に立つこの青年に優しい少年の面影を見つけた。先程までの緊張感が知らぬうちに紛れていた。
「ちょっと待って」と言うが早いか、風作は学生たちの囃し声が飛び交う露店に駆け込んで行った。しばらくして、奥の白テントから出てきたその手には、シャーベット状の氷に苺の赤いシロップをまぶした二つの大きな紙コップを握りしめていた。風作が冴子に「ストローを」と言うと、冴子は両方の紙コップに挿し入れられているストローの腰を引き伸ばし器用にくの字に折り曲げた。風作が片方の紙コップを冴子に差し出すと、彼女は嬉しそうに両手で受けとめて、わざと京都弁のアクセントで「おおきに」と言った。
その後二人は、その道沿いに建ち並ぶ民家の瓦屋根が作る日陰をつたい足の赴くまま東へ向かった。
「この前はごめんなさい」
「この前って?」
「強引にお誘いしたこと・・・」
そう言うと、冴子の顔がホオズキのように赤らんだ。
「あの日、帰宅してから考えると、私って何て大胆なことをしたんだろうって恥かしくなりました。私、本当は内弁慶なんですよ。だから、いつもは思ったことをはっきりと言えなくて・・・でもこの前は自分でも知らないうちに・・・」
そう言うと冴子は、赤ん坊が母親の乳首に吸い付くように、カキ氷のストローに口を付けた。
「いえ、大丈夫ですよ。僕だって今日は暇ですから」
「それなら良かった。でもあのとき森さん、とても思い詰めた顔をなさっていたから、私、いけない事を言ってしまったのかしら、と心配になりました」
「へえっ、僕、あの時そんな思い詰めた顔してたんだ」
「ええ」
「怖い顔だった?」
「ちょっとだけ」
そう言って冴子は、また「クスッ」と笑った。
プラタナスの並木道は微風の中で陽の光をその葉に泳がせ、二人を涼やかな空間で包んでいた。しばらく歩くと目の前に大きな酒蔵のような建物が見えてきた。堅牢そうな建物の白い土壁が真昼の太陽を眩しく照り返していた。
「ここです」と突然、冴子が言った。そう言った唇と舌はカキ氷のシロップで真っ赤に染まっていた。可笑しくなって風作は「フッ」と笑った。それに気づいた尚子は「まあ、森さんだって」と言って左の掌で口を隠した。
「ここはジャズ喫茶なの。落ち着いた感じのお店で、私はお茶を頂きによく来るんです」
冴子は口元を見せまいと俯いて言った。
屋号を示す看板もなく、ただ、のっぺりとした白壁に組み込まれた厚みのある木製のドア、それ以外にここが入り口だと分かるものはなかった。
冴子が力を入れてドアを開けた。二人は中に入った。そこには真っ暗な空間が広がっていた。ひんやりとした空気の中で静かなジャズが店内に広がっていた。足元を確認しながら歩かないと前に進めないほどの暗がりを、冴子は慣れた様子で気に入ったテーブルを探した。
「どうぞお先に」
冴子が風作に壁際のソファーを勧めた。
「ありがとう」と言って風作が腰を下ろすと、冴子は風作の左隣に座った。しばらく、二人で肩を並べて暗闇を見つめた。
「真っ暗で、不思議でしょ」
「ちょっと、驚きました。ドアを開けた瞬間、真っ暗だったので」
「このお店、私、よく一人で来るんです。心が疲れたときに」
しばらくすると、目が暗がりに慣れたのか、広い店内には他の客が来ていることが見て取れた。学生風の一人客ばかりで、瞑想するように目を閉じて流れる音楽に耳を傾けている者が多かった。時折、腰のあたりにペンライトを下げたウエイトレスが店内を行き来する。その光は彼女達の足元を照らしていた。風作が目を閉じると、その輝きの残光が眼の奥で明滅し、不思議な感覚を与えた。
「僕に話って、何ですか」
風作が冴子の横顔を見て言った。冴子は黙ったまま俯いていた。
よく見ると、風作達から7メートル程離れた正面のソファーに腰掛けている長髪の男性はサングラスをしていた。そうすることで暗がりの上に、さらに闇を被せることで完全に閉ざされた自分だけの世界に浸っているように見えた。風作たちには少し奇異な印象を与えた。
「私、穢れてないですか」
意を決したように冴子が言った。
「えっ?」
風作は冴子の言っている事が理解できなかった。
「私、汚れてないですか」
木製のテーブルの天板を見つめて冴子が、もう一度小さな声で尋ねた。
「どういう意味ですか」
目を見開いたまま冴子は黙り込んだ。
「冴子さん、何を僕に・・・」
風作は要領を得ず、再度尋ねた。
「森さん、私・・・」
胸元で両手を固く握り締めて冴子は鉄のように硬くなっていた。細い身体が小刻みに震えていた。
「私、襲われたんです」
「えっ」
冴子の思いがけない言葉に、風作は聞いてはいけないことを聞いてしまった、と思った。
「二年前の夏、お友達と大阪にお芝居を観に行った帰り、京都駅に着いて・・・夜の12時頃・・・お友達と別れて・・・タクシーを探して暗い路地を歩いていると・・・」
冴子の横顔は恐ろしい過去を泳ぎ始めていた。その夜に起こった出来事を長い階段を登るように一つ一つ思い出していた。
店内にはコルトレーンのナンバーが流れていた。物憂げなサックスの響きが冴子の話の結末を暗示しているようだった。
「車に乗った男達が、突然、車から私の方に駆け出してきて・・・」
冴子は両腕を交差させた。それは心の中で再び繰り返される悪夢を拒絶しているように見えた。
「冴子さん」
風作は平常心で聞いてはおれなかった。その告白はあまりに唐突でありすぎた。できれば話を中断し、何事もなかったかのように軽い世間話でこの場をやりすごしたいと思った。
追い詰めるような速いテンポでピアノが鳴り、サックスの闇を切る鋭い響きが耳を突いた。
「私を力ずくで車に押し込んで・・・買ったばかりの白いドレスも引きちぎられて・・・」
冴子は続けた、そして唇を震わせて泣き出した。2年前の悪夢が蘇るのには長い時間はかからなかった。冴子にとってこの悲劇は正に今のことなのであった。
「声が出なくて・・・自分では必死に叫んでいるつもりなのに・・・声にならなくて・・・」
風作は何も言えなかった。こんなとき、どのような言葉を掛けてあげればいいのか分からなかった。何を言っても虚しく響いてしまうような気がした。暗がりの一点をじっと見つめて話す冴子の横顔で、何故、彼女がこんな真っ暗な場所を選んだのかが分かった。
それからしばらく二人は黙ったままでいた。ただ、ドラムスの小刻みな響きが長く二人を包んだ。
かすれ声で冴子が話し始めた。
「それから、どんなふうに家に帰ったのか覚えておりません。家に着いたら誰とも話さず自分の部屋に閉じこもってしまいました。それから何日も何日も・・・そのことは両親にも話さず・・・心配かけたくなかったから・・・自分の中に閉じ込めていました」
悲しみを絞り出すように冴子がそう言うと、ウエイトレスのペンライトの光が眩く冴子の顔を照らした。涙目の眼元が赤裸々な光度の中で露出された。それは、冴子の心の傷の深みを世間の目に晒すような残酷さを伴っていた。
若いウエイトレスが丁寧にコルク製のコースターの上にアイスティーのグラスを乗せた。
氷のキューブがグラスに触れて快い音をたてた。その後、ペンライトの先が蛍火のように青みがかった緑黄色の緩やかな放物線を描いて消えていった。
再び暗闇に包まれて、冴子が呟くように言った。
「その日から、男性が怖くなって・・・私の父親でさえ男性というだけで怖くなりましたから・・・それまで友達だったクラスメートの男の子達にも近寄れなくなり・・・身も心も疲れ果てていました・・・」
そう言って、冴子は風作の顔を見た。冴子は長い間、閉ざしていた心の扉を自分の力で開け放とうとしていたのだった。
「それから・・・私、歩けなくなって・・・外に出ることもできなくなって・・・長い間、苦しい思いをしました。母に連れて行ってもらい、自宅からバス停2つ離れたところの大学病院の精神科にも通い始めました・・・いつもお薬を山ほどもらって帰ってきて・・・そのお薬の袋の山を見ていると、何で私だけこんなんだろうって・・・」
そう言うと、冴子は嗚咽した。大粒の涙がこぼれ落ちるのが風作にも分かった。風作はハンカチを取り出し冴子の頬を拭ってあげた。
冴子は小さく頷いて震える声で「ありがとう」と言った。
「アーネストさんご夫妻にお会いしたのはその頃なんです」
冴子は言葉を詰まらせて言った。
「その頃、週に一度、大学病院まで歩いて通っていました。その道すがら養世寺というお寺があることを偶然、知りました。そのお寺にアーネストというご僧侶がいらして、週に一度お講話をなさっていることも知りました。それは本当に偶然のことだったんです」
「初めて養世寺をお訪ねしたとき・・・初めてお訪ねしたとき・・・」
そう言って冴子は唇を震わせた。両眼からは大粒の涙が溢れ出て、また頬を濡らした。
「アーネストさん、私をじっと見つめて・・・苦しかったね・・・長い間よく頑張ったね・・・もう大丈夫だよって・・・」
冴子は藁人形のようにわなわなと震え泣き始めた。突然、店内にサックスの響きが高鳴り、そのうねりに冴子の泣き声が絡み付いた。
「私のこと、名前も何もご存じないのに・・・そう仰って・・・」
それからしばらくの間、冴子は幼女のように泣きじゃくった。風作の頬にも自然と涙が流れた。アーネスト氏の慈悲が心の襞に触れたのだった。
その後、二人は流れるジャズの響きに時間を任せた。言葉を交わさないことで、お互いの気持ちがいっそう分かり合えるような気がしていた。しばらくの間、冴子は放心状態でいた。何も言わず闇の中で天井を見上げていた。
ふと、風作は冴子に聞こえるように耳元で言った。
「冴子さん、どうしてこんな大切なことを僕に話したの」
はっ、と風作に向き直って冴子が言った。
「だって、私には森さんは特別な人に見えたのです。だから・・・」
「特別って?」
「空とか海とか・・・そんな大きな心の人に見えたから」
「僕が?」
「はい」
冴子は小さく頷いた。
店を出て二人は来た道を歩いた。立志大学の敷地沿いに西洋風の煉瓦壁が東西に長く伸びていた。その歩道に沿って、大学構内から溢れ出るような青葉が生命の輝きを放っていた。二人は不思議と車の往来のない真昼の仰木町通りを、何気ない世間話をしながら歩いた。河原町今出川の交差点で二人は、明日、食事会が始まる前に学館前で落ち合うことを約束し別れた。冴子が絹糸のように買い物客の雑踏に紛れるまで、風作はその後姿を見送った。
風作は何気なく養世寺の在る方角を眺めた。河原町通り沿いに立ち並ぶ古い家屋の瓦屋根の上に筆先のように杉木立の頭が見えた。誘われるように風作はその方角に歩を進めた。初めて三井と養世寺を訪れたあの日、風作は眩暈がするような感覚に襲われていたことを思い出した。その感覚が今、養世寺を間近にして再び蘇ってきていたのだ。
風作は洋菓子屋の角を曲がり琵琶の木の日陰で立ち止まった。広々とした空き地の向こうに、静けさを守る、その濃い杜は深い緑をたたえていた。その木々の合間から、今日は烽火のような煙が立ち昇っていた。その黒煙は何事か不測の事態を暗示するかのように垂直に昼下がりの夏空を画していた。
「お兄さん」
盛り上がるように茂る蔓バラの葉の合間にピンク色の小さな唇が動いた。
「お兄さん。ここよ、ほらっ」
小さな手が深緑の葉の間で揺れた。よく見ると、そこにはこの前のシェリーという名の少女が立っていた。
「やあ、誰も見えないのに声が聞こえたからびっくりしたよ」
「お兄さん、明日、アーネストさんちのディナーパーティーに行くんでしょう」
白い木綿のTシャツ姿で少女が鉄製の門扉を開けて現れた。
「アーネストさん、その準備で今日は朝から薪を運んだり、大きなお鍋を洗ったりしてとても大変そうよ。一日中とても楽しそうに走り回ってらっしゃるわ」
そう言うと、また何かを思い出したのか、少女はこの前と同じように鼻の背に皺を作って独り笑いを始めた。
「本当に、大きな動物みたいに、のっしのっしと歩いて、まるで熊みたい」
そう言って少女は相撲取りが四股を踏むようなジェスチャーをしクスクス笑い始めた。風作もその様を思い浮かべて可笑しくなった。
「ねえ、シェリー。アーネストさんとはどういう関係なの。ただのご近所?それともお友達?」
「小父さんは私の恋人よ」
少女は誇らしげに言った。
「アーネスト小父さんとは私達がここに住み始めてからのお付き合いなの。小父さんは私の両親ともとっても仲良しなのよ。家族で、よくパーティーをしたり旅行に行ったりするの」
「そうなんだ。それじゃシェリーのお父さんやお母さんもアメリカから来られたの?」
「いいえ、私達はニュージーランド人よ。ニュージーランドのクライストチャーチから来たのよ。お父さんはキリスト教の宣教師で日本で宣教活動をしているの。それで私が幼い頃に日本に移り住んだの」
「そうだったの。でも、キリスト教の宣教師さんが仏教の僧侶と仲の良い友達だなんてちょっと意外な感じがするね」
「どうして?違う宗教を信じている人たちは友達になれないの?」
「いや、そうじゃなくて、その・・・」
風作は自分が感じた違和感を上手く言葉にできなかった。少女にそう問われても彼女を得心させるだけの答えを出せないのが歯痒かった。
「お父さんはいつも言っているわ、キリスト教も仏教も、同じ、人の道を示す教えだと。ただ私達、人間がそうだと分からないだけなんだと。ねえそうでしょ」
少女は風作に確かな答えを求めるように尋ねた。
確かにシェリーの言う通りだった。しかし今の風作には、水と油のように決して混ざり合わぬものが何かの変異により均質に混ざり合う状態を想像するのは困難だった。
「僕にはよく分からないけれど、きっと君のお父さんは正しいのだと思う」
「うん、シェリーもそう思うわ」
二人が眺める杜の中の養世寺は苔生した古城のように、その中に深い時間を閉じ込めていた。創建以来、五百年という時間の中で、その寺は様々なものを観じてきたに違いない。穏やかな庶民の生活から、戦乱に血塗られた時代、その狂乱の中でしたたかに生き抜いてきた庶民の顔一つ一つを見守ってきたに違いないのだ。その在り様はあたかも独楽の軸のように、自らは決して動じることのない普遍性を帯び、世々流転し続ける人の世の瑣事を、それ自体から等距離に置き同じ軌道を遊戯させているように思える。いつ、どこにでも在りながら、決してその存在感を示すことのない大気や水のように、あるがままの姿をそこに見せていた。
仰ぎ見る古寺の高みに、再び、烽火のように太い黒煙が立ち昇るのが見えた。それは本堂裏の大きな炉から噴き出る煙であった。濡れた薪に火がつき始め、湿った煙が舞い上がっていたのだった。黒煙は、解き放たれた双頭の竜が天空を我が棲みかにせんと、とぐろを巻き周囲にその威を誇示しているように見えた。
「アーネストさん、大変そうなら行って手伝ってあげようか」と風作が言った。
「うん」と弾けるようにシェリーが答えた。
二人が境内に入ると、庫裏の横で林と2人の若者が竹箒を手に落ち葉を集めていた。この前の講話に参加していた茂山という男子大学生とその恋人の下村だった。林は集めた落ち葉を、石で組んだ大きな炉の中に差し入れていた。火は弾けながら炎となり黒煙を纏い天上に向かいその身を投げ出していた。庫裏の南側の大きな窓にはよしずが何枚も掛けられており、容赦ない夏の日差しを遮っていた。
風作たちに気づくと林が作業の手を止め「やあ、今日は暑いですねえ。こんなに暑いと頭が変になっちまいますよ」と笑った。そこにはもう以前の林はいなかった。その顔は、御仏に勤労を捧げることの喜びを満喫しているようだった。茂山達も風作に軽く会釈をした。
「小父さんは?」とシェリーが尋ねた。
「先生はあそこにおいででさあ」と林が指差した。
僧侶が本堂裏に佇んでいるのが見えた。僧侶はしゃがんで小さな墓石に水を掛けてあげていた。そこは常緑樹の葉陰が小さなトンネルを作り、そのささやかな空間が小さな墓石を護っているように見えた。
「こんにちは、森さん、シェリー」
僧侶は二人を見て軽くお辞儀をした。
「小父さん、それ、誰のお墓なの?」とシェリーが尋ねた。
「これはメグのお墓です」と淡々とした口調で僧侶が言った。
「メグって誰?」
シェリーが尋ねた。
「小父さんの娘だよ」
墓石に優しく水を掛けながらアーネスト氏が言った。僧侶は墓石に刻まれた墓碑銘を指先でなぞっていた。
「三歳で亡くなったんだ」と言いながらアーネスト氏は再び墓石に水を掛けた。
「この暑さで、こんなにお墓の石も熱くなって、可愛そうだから水を掛けてあげているんだよ」と僧侶は独り言のように言った。
「メグは最期、高熱を出して亡くなったんだ・・・」と言い、子供の頭を撫でるように墓石を大きな手でさすった。淡々とした口調からは感傷のかけらも見えなかった。
「そんな、知らなかったわ」
シェリーは悲しそうに言った。
「それでいいんだよ」
アーネスト氏は静かに言った。それからそのことについて多くは語ろうとはしなかった。
手の平で墓石を丁寧に洗い流した後、「今晩は星が綺麗でしょうね」と大空を見上げて僧侶が言った。
(五)
その夜、風作が一乗寺の下宿に戻ると、二階の自分の部屋の明かりが点いているのに気づいた。部屋のドアを開けると、6畳一間の小さな空間で三井と佐山が寝転がってテレビを見ていた。
「よっ、お邪魔。風作、酒もってきてるで」
腕枕をした三井が口をもぐもぐさせて言った。
「何だよ、勝手に上がりこんで・・・」
風作は疲れていたので邪険に言った。三井はその言葉を気にする様子も無く、テレビのお笑い番組に下世話な笑い声を上げた。
「まあ、そう言うなよ。今晩は、お前と飲もうと思ってさ・・・」
佐山が上体を起こして言った。佐山も同じ大学のクラスメートで、物静かで心根の優しい青年だった。静岡県の名家の出で、幼少期から親戚縁者に期待され父親のような立派な名医になるべく育てられた。しかし、その期待に添えず京都の大学に進学し文学を専攻したことを恥じているようだった。現役のときに東京の名門大学の医学部を受験したのだが叶わず、一浪をして京都に来たのであった。そのことを「都落ちの野武士だから」と言って自分を卑下し、哀しげな表情を見せるときがあった。
佐山にそう言われると風作も怒ってばかりはいられなかった。
「まあいいけどさ、来るんだったら前もって電話ぐらいしてくれよ。僕んとこにも電話ぐらいあるんだからさ」
そう言う風作を無視して三井が酒を勧めた。
「おい、風作、飲めや。遠慮すんなや。今日は俺らの奢りや」
そう言って三井は空のジョッキを風作に差し出した。
三井はかなり酒が回っているようで、顔が真っ赤になっていた。
「最近は、どうや?仏さんの方は」
「仏さん?」
佐山が興味深げに尋ねた。
「こいつな、最近、仏教に入れこんどるのや。ナンマイダー・ナンマイダーや」と言って三井が風作のジョッキにビールをなみなみと注いだ。
「おい、三井、いい加減にしろよ」
風作は酔ってふざける三井が苛立たしかった。
「せやけど、あのアメリカ人の坊さん、すごかったなー。なかなかの迫力もんやった」
腕白坊主のような顔つきで三井が言った。
「森君、仏教って、どういうことなんだい」と佐山が真顔で尋ねた。
風作は自分が仏教を学び始めた経緯について、デイビッドとの出会いから今日に至るまでを言葉を選びながら丁寧に説明した。説明しながら、我が事ながら奇妙に思えてきたのである。つい最近まで、仏教とは何のつながりも関心も持たなかった自分が、知らぬ間に何か見えない力でその教えに引き寄せられているのである。そのことが不思議でたまらなかった。まるでそれは敷かれたレールの上を予め定められた目的地まで走る列車のようであった。『何か見えぬ力が自分を導いている』と風作は感じないではなかった。
「だから、あのときデイビッドに話しかけていなければ、こんな展開にはなっていないんだけど・・・」
思い出すように風作が言った。
「でも何のためにそのデイビッドとかいうアメリカ人に話しかけたんだい」
佐山は右手で缶ビールを持ち上げて言った。
「ディべートをしたいと思ったんだ。英語で」
そう言って風作はジョッキを傾けて一気にビールを飲み干した。
「ディベート? 何について?」
「何でもよかった・・・生命倫理、遺伝子操作、中東問題、北朝鮮の核武装、・・・何でもよかったんだ」
三井がウイスキーのボトルを傾け造作なくガラスコップに注いだ。それを風作の目の前に差し出し
て「風作、飲めや」と言った。コップを受け取り風作は話し続けた。
「これまでにも多くの外国人と色々な話題について論じてきたけれど、みんな何時間も割いて真剣に議論してくれた。彼らは議論好きなんだと思う。ほとんどの人が初対面だったけれど・・・中にはディベートした後で親しくなった人もいるんだ」
風作は三井が注いだウイスキーをグッと飲み干した。
「英語がうまくなるには積極性が大事だというけれど、本当なんだなあ・・・」
佐山が感心したように言った。
「英語はインプットが大切なんだ。話題がなければ何も話せない。相手が取り上げる話題について一通り理解していなければ議論にならないだろ。相手がどのような話題を取り上げるか前もって予測できない。だから、いつも広範な知的関心のアンテナを張り巡らせておくんだ。国内外の新聞や様々なジャンルの書物に親しむことが大切なんだ。そして例えその話題について知っていたとしても、それを英語で表現できなければ元も子もない・・・そういった土俵の上に立って初めてディベートに持っていけるんだ」
ウイスキーの酔いに任せて風作も饒舌になっていた。
「なぜディベートなんだい?」
佐山が2缶目の缶ビールの蓋を開けながら言った。
「心の中にある本音や物事の本質を聞き出そうとすると、インタビューでは時間がかかりすぎる。それでは相手が心の扉を開放するまでに長い前置きが必要となる。無駄が多すぎるんだ。ディベートは社交辞令や無駄な前置きを省き、相手から短時間で、かつ具体的に本質を引き出す最高の方法なんだ。本質を本音と置き換えてもいい。相手との交渉の上で、相手の本音が分かれば、後は事を進め易い・・・ただ、悪くすると相手の心証を害することもあるけれど・・・」
「なぜ?」
「社交辞令抜きだから、ディベートは」
三井が氷を頬張りながら再び風作のグラスにウイスキーをなみなみと注いだ。ウーロン茶でも飲むように風作はグラスをあおった。
「せやけどお前、この前の寺では・・・黙っとったやんけ。仏教の本質が知りたいんやったら、なんであのアーネストとかいう坊さんにディベートを吹っかけんかったんや。そしたら、もっと速うに仏教が分かとったんとちゃうのか。そういう理屈やんけ。ちゃうか」
酔った三井の大阪弁は何か喧嘩腰に聞こえた。
「そうなんだ実は」
風作は言葉を濁らせた。
「あの時はそのつもりであの寺に向かっていたんだ」
「ほな、何でやねん」
風作はそのときの情景を思い浮かべた。僧侶と理論的に対峙しようと身構える自分と自然体で仏の慈悲を説くアーネスト氏との隔たりを思い出していた。
「言えなかった」
「何でや」
「何も言えなかったんだ・・・」
「せやから何でやねん」
「・・・」
風作は酒で意識が朦朧としてきた。琥珀色の液体がグラスの中で揺蕩うているいるのが見えた。目を瞑ると地の底に落ちていきそうになる自分がいた。
「あの時・・・」
しばらくして風作達は酔いつぶれて、沈み込むように寝入ってしまった。
深夜3時、電話が鳴った。けたたましい音で風作は目を覚ました。ひょいと起き上がると、頭が割れるように痛い。吐息が吐き気がするほど酒臭い。他の二人は獣のように眠っている。窓外には夜を押し潰したような暗闇が広がっていた。風作は受話器を取った。突然、若い女の叫び声が耳に突き刺さった。必死に何かを叫んでいる。心臓が脈打つたびに頭に激痛が走った。風作は額を右手で押さえ、朦朧とした意識の中で女の叫び声に耳を傾けた。
「森さん、大変なの!」
その叫び声を聞いて、風作は自分を取り戻そうとした。
「どなたですか」
しどろもどろの口調で名前を尋ねた。
「私です、冴子です!」
「ああ、冴子さん・・・どうしたの、こんな夜中に」
「森さん、大変なの!養世寺が燃えているの!火事なの!すごい勢いで燃えているの!」
「養世寺が燃えている?」
風作は心の中で反芻した。
「アーネストさんのお寺が、お寺が大変なの! 急いで、急いで来てください!」
冴子は電話口で叫んだ。
「お願い、早く!」
やっと風作の心に冴子の叫び声が届いた。
「分かった、すぐに行く!」
そう言って受話器を下ろし、部屋の明かりを点けた。その後、風作は三井の頬に容赦ない平手打ちを加えた。目を覚ました三井の胸倉を掴み、大声で怒鳴った。
「養世寺が火事だ!俺は行く!オートバイを借りるぞ!」
そう言って、座卓の上に置かれたオートバイの鍵を握り締めた。床に転がっているガラスジョッキに水を流し込み一気に飲み干して、部屋を出た。
一瞬にして夜の深みに包まれた。生温かい風が酒で火照った身体に纏わりついた。下宿の前に無造作に駐車されたカワサキ750CCにまたがりエンジンをかけた。深い眠りにあった森林の顔が、その爆音と容赦ないライトの明かりに晒された。風作は、下り松町の長い坂を滑り降り、森を抜け、夜の闇にまどろむ集落を後にした。そして、白川通りまで疾駆した。大通りに出ると、所々に街の明かりは蛍火のように生きていた。それから何処をどう走ったのか分からない。兎に角、一刻も早く養世寺にたどり着くことだけを考えた。スピードを上げて走り続けていると、国道の左右に建ち並ぶ風景は一様に溶け始め、どこも同じような街の顔に見えた。黒塗りのタクシーを数台、追い抜かした。あまりのスピードに驚いたのかタクシーの運転手がクラクションを鳴らした。右手にちらりと加茂川が見えた。対岸に建つビルの窓灯りをその川面に乗せて、ゆっくりと川は南に流れていた。
百万遍にたどり着き、交差点で信号が変わるのを待った。風作には西の方角に粉塵の如く舞い上がる火の粉と闇夜をえぐり出すような巨大な炎の揺らめきが見えた。
「何てことだ!」
想像していた事態よりも悲惨で大規模な火災だった。風作は西に進路を変えた。エンジンを荒々しく吹かし巨大な魔物の心中に飛び込んで行くように走った。大量の熱気を帯びた黒煙が、狂った暴走列車のように今出川通りを吹き抜けている。河原町今出川の角を南に曲がると、そこではすでに多くの警官が車両の通行制限をしていた。消防車が15台、救急車が10台現場の中心に停車していた。何人かの消防士がアスファルトに埋め込まれた消火栓の口を開け太いホースをかみ合せていた。深夜であるにも関わらず、夥しい数の見物人がその場を取り巻いていた。彼らの存在が京都の大通りを完全に麻痺させているようだった。風作は急いでオートバイを歩道に上げ、民家の壁際に停車させた。洋菓子屋の角を曲がると多くの警官が見物人達を抱囲していた。そこには、群集に揉まれるようにして冴子の姿があった。風作は大声で冴子の名を呼んだが、その声は冴子には届かなかった。見物人達は多くの警官に両腕で遮られ目の前で広がる惨劇を様々な思いを抱き見つめていた。
杉の木々から、まるで花火のように無数の火の粉が夜空に舞い上がっていた。炎は魔物の如く、その舌で仏の宮殿を飲み込もうとしていた。大炎は多くの見物人が見つめる大舞台で焦らすようにして、ゆっくりと仏の慈悲を焼き殺し始めていた。この瞬間こそが、この夜叉が堪能する快楽の本質であるかのように、炎は杉木立を焼き尽くし、庫裏から本堂にいたるあらゆる仏閣を火の海に晒していた。
風作は勢いをつけて人込みに割り込んだ。力ずくで見物人をかき分け、警官の腕を押しのけた。
「俺を中に入れてくれ!」
こう叫ぶと、風作の目に林の姿が飛び込んで来た。林はコンクリート製の土管の脇でうずくまっていた。
「林さん!」
そう叫ぶと風作は林のもとに駆け寄った。
「アーネストさんと奥さんはどこに!」
風作は林の顔を覗き込んで言った。
「俺のせいなんじゃ。俺が悪いんじゃ・・・」
林は頭をかかえて言った。
「どういうことです!何があったんですか!」
風作は林の腕を掴んで大声で言った。
「昨日の焚き火の火が移ったんじゃ。今日の食事会に使うと思って火を残しておいたんじゃ。それがよしずに燃え移り・・・」
林は泣きながら言った。
「何でこんなことになるんじゃ・・・」
「それで、アーネストさんと奥さんは!」
「奥さんは、奥さんはあちらにおいでじゃ」
林は力なく、蔓薔薇の絡まるフェンスの向こう側を指した。シェリーの両親が、泣き喚き今にも炎の中に駆け込んで行きそうな勢いの信子の身体を力ずくで押さえている。信子は子供のようにもがいていた。その狂気を帯びた両眼は崩れ落ちようとする養世寺を大蛇のように見据えていた。
風作は両手で林の肩を揺らして叫んだ。
「アーネストさんはどこなんだ!」
林は地面を見つめて何も言わない。
「アーネストさんはどこだと聞いているんだ!」
林の胸倉を掴んで叫んだ。林は案山子のように力なく、炎上する養世寺を指差した。
「何だって。まだ、寺の中に」
そう叫ぶと、風作は立ち上がり養世寺に向かって駆け出した。放水している消防士の間をすり抜け、燃え盛る炎の大城に挑みかかって行った。
「おい、君、何をしてるんだ!」
延焼を防ぐため寺の周囲に林立する杉や檜を切り倒していた一人の消防士が風作を認めた。彼は風作の前に立ちはだかり、その行く手を遮った。
「馬鹿なことをするんじゃない!」
「行かせてくれ!まだ、ご住職が中におられるんだ!」
消防士は風作の身体を押さえた。
「放せ!人を見殺しにする気か!」
消防士は力ずくで風作の身体を地面に投げ飛ばした。風作は畝高になった畑の中に倒れ込んだ。唇が切れて血が流れた。右手で血を拭った。背後に盛る大炎で手の甲に付いた鮮血が揺らめいて見えた。風作は獣のような形相で消防士に跳びかかろうとした。風作の後を追い駆けてきた林と冴子が風作の身体を抑えた。
「森さん、あきまへん。行ったらあきまへん」
息を切らせて林は風作に言った。
「森さん、よーく聞いてもらえまっか。先生は、先生はもう生きておいでやおまへん・・・」
「何だと!なぜ分かる!」
風作は林の襟首を掴んで怒鳴った。
「先生は、ご自分で・・・ご自分で死を選ばれたんです・・・」
そう言うと林は風作の腕にしがみついて嗚咽した。
「どっ、どういうことだ・・・」
風作は燃え上がる養世寺を見上げた。
夜中の1時、僧侶は異変に気付いた。鼻を突く異臭があたりに立ち込めていた。何かが燃える臭いと木材が熱を持って弾ける音が遠くから忍び寄って来ていることに気づいた。僧侶は隣で眠る妻を起こし、身に迫る危険を告げた。そして妻に、自分が戻るまで部屋に残るように言った。寝室の扉を開けると、すでに南側の家屋は火の海に包まれていた。氏は林の部屋に急いだ。熱気を帯びた黒煙が眼や喉に絡みつき息を塞いだ。腕を口に当て呼吸を制限し、西側の長い廊下を走った。林が慌てふためき、こちらに駆けつけて来るのが分かった。アーネスト氏は、林に急いでこちらに来るようにと大きく手を振った。
林が夫妻の寝室に駆けつけるとアーネスト氏は二人に言った。
「落ち着きなさい。まだ時間はある。何も心配することはない。大丈夫だ」
そう言うと氏は二人の肩を両手で叩いた。そして妻に言った。
「あなたと私は今からメグの遺骨を取りに行く。林さんも一緒に来て下さい」
氏がそう言うと、信子は深く頷いた。
「さあ行きましょう」
僧侶は北側の窓を開け放ち、二人を戸外へ連れ出した。そして火の粉を避けながら信子の手を引き娘の墓にたどり着いた。墓は燃え盛る本堂の脇に小さく建っていた。忍び寄る業火に煽られ墓石が熱く焼けていた。アーネスト氏は熱を帯びた墓石を素手でさわり、中から小さな骨壷を取り出した。その骨壷に口づけし強く抱きしめた後で、信子にゆっくりと手渡した。そして、妻をじっと見つめて言った。
「信子さん、メグのことを頼みます」
そう言うと、氏は信子を強く抱きしめた。そして林に、寺の敷地外に事なく出る方法を指図した。その後、僧侶は林の両肩を掴み言った。
「林さん、妻と娘のことをよろしくお願いします」
そう言うと僧侶は、もう一度信子を抱き寄せた。そして先ほどの北側の窓に向かって走り出した。
「先生、先生は・・・」
林が叫んだ。
「あなた。あなたはどうするの」
信子の叫びが業火に掻き消された。信子は氏の後を追いかけた。その右肩を林が掴んだ。
「奥さん、急いで。さあ、行きましょう」
林は信子の腕を掴み、業火を遠巻きにしてようやく沿道に出た。
信子には夫の心が分かっていた。この瞬間が今生の別れになることも分かっていた。しかし、夫が生きて返れるものならば、と一縷の望みを仏に祈った。炎が勢いを増せば増すほど、その願いは刹那的なものとなった。養世寺の伽藍の頂きに立つ鳳凰が、大炎の中で今世と来世を行き交う不死鳥のように飛翔するとき、信子の眼にはこの業火が自分と夫の一切の宿業を燃して大火に変じているかのように感じられたのである。林は信子の不穏な心のありようを感じ取っていた。彼女を守り通すには右腕のない自分は力足らずであることを思い、彼女をシェリーの両親に委ねた。
アーネスト氏は境内の北側にある古池から木桶で水一杯を汲み上げ頭から被った。そして僧房の北窓をくぐり抜け、再び寝室に入った。恐ろしいほどの熱気がこの小さな部屋にまでにじり寄っていた。本堂がその骨組みごと灰になる、その断末魔の叫びが耳に響いた。僧侶は床の上に寝かされたままの夏蒲団を頭から被り、回廊に面した襖を開けた。一面、火の海だった。人の背丈の数倍はあろうかと見える炎の魔性が自分めがけて食指を伸ばしていた。僧侶は表情を変えず、炎に包まれた本堂に向かって板葺きの回廊を走った。
駆け抜ける僧侶の髪は「ジュッ」という音をたて一瞬にして枯れ草のようになった。本堂に近づくと発火点に近づいた回廊の敷板は薄い煙を立てながら足の裏の皮をプラスチックのように溶かした。寝間着は溶けて皮膚にへばりついた。身体中の皮膚は木の皮を剥ぐように一気にめくれ上がった。上半身を覆っている夏布団に火が点いた。すべてが一瞬の内に起こった。突然、勢いのある大きな炎が講堂に続く回廊から砲弾のように噴き出し僧侶の上半身を襲った。僧侶は獣のような唸り声を上げ、熱で燻された畳の上に倒れ込んだ。その勢いで上半身を覆っていた布団が剥がれた。内部に熱を籠もらせた畳が僧侶の背中を瞬時に焼いた。男は床を這いながら燃え始めた黒檀の仏壇に近づいた。指先と膝頭が炭化した畳表に鍬のようにめり込んだ。その度に指先は溶け膝は軟骨を露出させた。炎は今、男の肢体そのものを焼き始めていた。僧侶は仏壇の縁を、指が溶けて団扇のようになった手で掴んだ。殆ど視力を失った眼球で御本尊を仰ぎ見ると、あの伸びやかで女性的な美しさを秘めていた観世音菩薩が今、内に熱を籠もらせて瞋恚に満ちた真紅の表情を僧侶に投げかけていた。それは正に不動明王の体であった。
御本尊の悲愴な御姿を前にして、僧侶は声にならぬ声で叫んだ。苦悶の涙が一粒落ちた。その涙は潰れた眼球から流れ出で焼け爛れた頬に落ち、瞬時に消え去った。最期の力を用いて、僧侶は燃え上がる仏壇に両の手を伸ばした。そして、ひと思いに御仏を両手に挟んだ。「ジュッー」と肉が焦げる鈍い音がした。御仏の両肩に、あたかも陶土を薄く引き伸ばすように僧侶の両の手がめり込んだ。その瞬間、僧侶は仏身を己が腕に引き寄せて自らの胸の内に収めた。僧侶は天を見上げ、力ない呻き声を発した。体液と血液が熱に逆らうように「ジュッ、ジュッ」と音を立て、方々に飛散した。印を結んだ観世音菩薩の左手は僧侶の下腹部を貫通し腰骨の上部を突き破った。その右手は手刀の如く左脇腹を切り裂いた。僧侶は仏を抱きしめたまま仰向けに倒れ、口から大量の血液を吐いた。仏は絶命した僧侶の上で、尚もその肉身を焼き続けた。
(六)
冴子は部屋に閉じこもったままだった。アーネスト氏の死から一ヶ月が過ぎてもなお心を閉ざしたままでいた。風作は時折、そんな冴子を訪ね、励ましの言葉を掛けてあげていた。彼女に確かな生きる指針を与えていた恩師の壮絶なる死、それが冴子にどのような衝撃を与えたのかは想像に難くなかった。冴子は以前の冴子に戻ってしまったように見えた。笑顔をなくした硬い無機的な表情は、精神の拠り所も生きる希望をも失った老女のそれのように見えた。
アーネスト氏の死から四十九日を迎えた日の朝、風作は冴子の自宅を訪ねた。玄関先に姿を見せた冴子は風作に少し微笑んだ。風作は努めて笑顔で話しかけたが会話はすぐに途切れた。冴子は風作の言葉に、力なく頷くだけだった。
冴子の家を後にして風作は養世寺の跡地を一人で訪ねた。その日は朝から晴れ渡り陽光は地上に盛るあらゆる生命に輝くような光を放っていた。その場に横たわる寺院の大量の残骸が未だに、かの火災の悲惨さを物語っていた。アーネスト氏の生血を吸い込んだ黒く爛れた畳の上にも等しく陽光は降り注いでいた。黒々とした建具の燃え炭には今も火がくすぶっているように思われた。風作はあの大きな黒檀の仏壇が安置されていた位置を探した。
炭化して割れた木材や焼け朽ちた畳や瓦などを一つ一つ丁寧に拾い上げ脇に寄せた。そうしながら風作はいつかの日、いつかの時間を探した。三井に連れられて初めてこの寺を訪ねたあの日、僧侶と出会ったあの返らぬ瞬間を探した。すべては一瞬の内に始まり一瞬の内に終わりを迎えたのである。
風作はアーネスト氏が絶命した場所に立った。
― 風は止み、青葉の震えが消えた。小鳥のさえずりが遠のいた。小川の流れが止まり、せせらぎが消えた。流れていた雲が立ち止まり、青空にくっきりとした輪郭を与えた。すべてが静けさの中に風作を置いた。足下に生温かい気が動いた。整えられた呼吸のリズムに呼応して全身に気が流れ始めた。爪先から百会に至るあらゆる部位に電流が走った。そのとき風作はこれまでに実感したこともない巨大な実体が身近にあることを感得した。その実体は想像を越えた力と慈悲を備えていた。その瞬間、風作は心と精神の所在を認識した。肉体と精神の統一を見、因果の律動を感得した。生死不二を了解し、時空の超越を体得し、「我即ち宇宙」の理を認識したのである。自らの生命が巨大な生命の渦中にあり、大河のように時間が流れ行くのを観じた。あらゆる神性、諸仏、諸菩薩がその大渦そのものであり、大宇宙もその中で微細な点として遊戯しているのを見た。そしてその大渦の核には慈悲が揺蕩うていることを了解した ―
風作の額に雨粒が落ちた。風作は、はっ、と眼を開けた。目の前には焼け落ちた養世寺の残骸が、やはり生々しく横たわっていた。今しがた目の前で繰り広げられた世界は一体何だったのかと、頭を振った。ほんの一瞬の想念が、まるで宇宙の果てに旅に出て帰還してきたかのような現実味を伴っていた。それは長遠な物語であるようにも思えた。
「気のせいか・・・」
風作は迷い子のように心許ない顔つきでその場に立ちすくんだ。
先ほどまで、晴れ渡っていた空が曇り、ぱらぱらと雨粒が落ちてきていた。降り始めた雨は急に激しさを増した。風作は容赦ない驟雨の中に置かれた。風作はこの雨がすべての人の苦悩と迷いを洗い去ってくれることを願い、雨の中で独り合掌した。形なき巨大な実体に向かい祈りを捧げた。慈雨は静かに風作を悟りへと導いていった。
風作はデイビッドに電話をした。一週間後、立志大学、図書館地下1階の談話室で再会することを約した。
2人の再会の場となる大学図書館の談話室は、全体の照明を落とし室内を薄暗く仕立てていた。この空間の至る所に檜材が用いられ全体に芳しい香りが漂っていた。ここは訪れる者に心落ち着く癒しの場を提供していた。広いフロアーに厚みのあるソファーが円を描くように配置され、その中央には檜材を天板に用いた丸テーブルが置かれていた。学生達は小声で話し合ったり、窓外に植え込まれた夾竹桃が微風に小さな桃色の花を揺らす様を眺めてコーヒーを楽しんだりしていた。談話室の入り口の両脇には小さなブースが4つ設えてあり、それぞれに4人掛けのテーブルが置かれていた。
風作は約束の10分前に談話室を訪れた。大きなドアを押し開け中に入ると柔らかな檜の香りが風作を包んだ。少し薄暗い室内を見回しデイビッドの姿を探したが、彼の姿はなかった。デイビッドが現れるまでコーヒーでも飲みながら時間を潰そうと思い、入り口の脇にある自動販売機に近づくと、彼の姿が見えた。デイビッドは入り口に近いA1ブースの中で腕を組んで風作を待っていた。
風作は手を上げて合図をした。デイビッドも、ブースの向こうで手を振っている風作に気付いた。風作が中に入りガラスドアを閉めると、一切の音が遮断され密閉された空間が出来上がった。
「やあ、デイビッド。二ヶ月ぶりだね」
風作は明るく声を掛けた。デイビッドは立ち上がり風作に握手を求めた。
「ええ、お元気でしたか」
デイビッドはそう言って風作を正面に座らせた。風作は目の前のデイビッドを見て、アメリカ人と英語で会話をするのは久しぶりのことだと思った。
「日本の生活にはもう慣れましたか?」
風作が尋ねた。
「ええ、OKです。しかし、日本の夏にはまだちょっと・・・湿気が多くて少し気持ち悪いです。日本の夏を楽しむには時間がかかりそうです」
デイビッドはTシャツの胸元を摘み、少し眉をひそめた。その額には汗が滲んでいた。
「でも、あなたに、また、お会いできることがとても楽しみでした。二ヶ月前のあの日から今日まで、ずっと日本のことを自分なりに研究してきました。今日、あなたから日本の仏教について教えていただけるのはとても嬉しいことです」
デイビッドは子供のような曇りのない笑顔を見せた。
風作は、これまでに仏教について学んだことをデイビッドに真摯に語ろうと思った。二ヶ月というと何かを学び取るには短い期間ではあるが、風作は自分が間違いなく仏教の真髄を掴んでいることを確信していた。
「仏教を学ぶのに二ヶ月は短すぎましたか」
デイビッドが尋ねた。
「いいえ。短いとは感じませんでした。大切なことは時間の長短ではなくその密度ですから」
風作が答えるとデイビッドは頷いた。
「仏教について、どの程度理解できましたか」
「基本と応用です」
風作は軽く冗談を言った。
「では始めましょう。物事の基本は入門書を読めば大方のことは分かります。今日は基本をよりも応用からお伺いします。よろしいですか」
「ええ、結構です。望むところです」
「では、先ず『仏の悟り』についてお伺いします・・・『釈尊の悟り』について、それがどの様なものであったのか、そして、それがどのような意味を持っていたのか、説明して下さい」
風作は、デイビッドの顔がこの前と同じ表情を帯び始めるのを見て取った。好奇心に満ちて、未知なるものをすべて吸い取ろうとする両の眼が風作を見つめた。
「釈尊の悟りとは『縁起』と『正しい生活の実践』に尽きます」
「『エンギ』とは何ですか」
「『縁起』とは、この世のあらゆる事象が『因』と『縁』が相対的に関与しあうことにより存在するという考えです。そのため、その事象は『因』と『縁』が変化すれば異なった様相を呈するのです。『空』とは絶対的な存在を否定し、あらゆる実体は『縁起』により相対的に存在している、という思想です。それはまた、この世には無常の理を免れた永遠不滅の存在はありえない、とする考えです。『空』とは否定です。絶対的、独立的、固定的な存在を否定するのです。私たちには『存在』を否定することは『無』を意味しますが、『空』とは『無』ではなく、また『有』でもない・・・この宇宙のあらゆる実体は『空』であり、あなたも私も『空』なる当体なのです」
デイビッドは顔をしかめた。
「エンギ・・・クウ・・・ちょっと難しいです。初めて聞いた言葉で、分かりにくいです。もう少し、分かり易く話してくれますか」
「ええ、例えば、今ここにリンゴが3つあって、子供が3人いる。一人が一つづつリンゴを食べると、最後にはいくつ残りますか」
「リンゴはなくなります。ゼロになります」
「でもリンゴは食べられて無くなったのに、私たちはその無くなった状態を『0』という数字、または概念で表現しています。リンゴは『無』になったとしても『0』は『無』とは異なります。だといって『0』は『有』でもない。『0』は有無を越えた考え方なのです。このような概念を『空』だといって良いでしょう。このように、この世のあらゆる存在は、この『0』のように『空』だと釈尊は説いているのです」
「なるほど。しかし何のために釈尊は『縁起』や『空』といった概念を説いたのでしょうか。大切なことは言葉の意味ではなく、その言葉にはどのような教えが込められているかです」
「その通りです。釈尊が『縁起』を説いた理由は、釈尊は人生の実相は『苦』であるとしています。その『苦』を回避し人生をより楽しく実り多いものにするための方途を説いている、と言えます」
「『苦』の回避?」
「そうです。この世にあるすべてのことは相対的であり、絶対的、普遍的に存在するものは一つとしてありません。ところが人間は自分が欲するものを永遠に我が物にしたいと願い、それに執着するのです。執着することにより人間は苦しむのです。人間が執着すること、それを仏教では『愛』と呼び、苦しみの『因』とするのです。その執着を断ち切ることにより『苦』を滅し平静な心を回復する、そういった賢明な生き方を説いているのです」
風作はさらに続けた。
「欲望を断ち切るのは困難なことです。しかし、欲望の対象が、永続するものではない一つの現象に過ぎないと諦観するとき、執着する心、つまり煩悩は菩提へと転じる可能性をもつのです。煩悩を菩提へと転じゆく繰り返しの中に釈尊は不壊なる平安を見出したのです」
デイビッドは風作を見つめ直して言った。
「しかし、断ち切り難い欲望があります。それ以外の欲望には蓋をできても、蓋をすればするほど燃えたぎる欲望があります。性の欲望です・・・釈尊は性の欲望について・・・どのように説いていますか」
風作は明確に答えた。
「釈尊は性欲の本質をも知悉しておいででした。欲望は油と同じです。火を点ければ引火しメラメラと燃え始めます。しかし、火を近づけなければ燃えることはありません。性欲は愛情を確かめ子孫を残すための無くてはならない重要な欲望です。しかし、自らを氾濫した性の情報に身を置くことで、無用に油に火を近づけてしまっていることに気づかねばなりません。そのことに気づき、性の欲望を無用に煽らぬように努めること、そういった生き方を選ぶべきなのです。それが悟りなのです」
「悟りとはそんなに身近にあることなのですか」
デイビッドが困惑したように尋ねた。
風作はいつか養世寺でアーネスト氏から教わったことを、その言葉通りに語った。
「『悟り』とは何も遠い世界の物語ではなく、私たちの日常にある、心の賢明な有り様といっていいでしょう。逆に言えば、『迷い』とは自分の足元に寂光土(悟りの世界)があることを知らず、どこか遠くの世界で幸福が自分を待っていると錯覚することだといえます。釈尊の教えは2500年経って恐ろしく拡散しかつ深化しました。そのため、その教えは難解な形而上学であるように思われていますが、それは誤解です。釈尊は私たちの日常にある身近な事象を通して悟りの極意を子供にも分かるような平易な言葉で説いているのです」
「なるほど。『空』・・・私たち欧米人には想像もつかない概念です。私たちキリスト教者には『神』が宇宙の核であり、『神』こそが、この宇宙の森羅万象の創造者だと考えます・・・そうすると、『空』という概念にはキリスト教の『神』という絶対的実在は内包されると考えていいのでしょうか」
「私はキリスト教については無知ですが、般若心経に説かれた『空』という思想のあり方から云うと、『空』はその中に絶対的な存在を認めません。というより、絶対的存在は『空』の概念にはそぐわないのです。だから、キリスト教的『神』と仏教の究極の知恵である『空』の思想とは決して相容れないものだと言えます」
風作はさらに続けた。
「これまで世界はヨーロッパやアメリカの思想的中核をなすギリシャ哲学やキリスト教の影響を大きく受けてきました。二律背反の原理に従い、対象を容赦なく白と黒に分け隔て、事象を分析的に把握するために細分化してきました。そのことにより、問題とする事象についての論理性が保たれ問題解決の効率性が高まりました。政治、経済を初めとする世の中の様々な分野で、欧米のこの発想法は絶大な貢献を成したのは周知の通りです。しかし21世紀に入り、このギリシャ哲学やキリスト教の考え方だけでは決して解決の糸口が見えない、ある巨大な存在が立ちはだかってきたのです。それこそが、『生命』と『宇宙』なのです。これらの人類的命題を解決する方途が『空』を根本とした世界観にあるということを理解するときが来たのです」
「仏教を基調とした世界観、ということですか」
デイビッドは確認するように言った。
「そうです。この世のすべてのものは生々流転を繰り返し、何一つとしてとして常なるものはありません。川の流れ、空行く雲、人の生死も、時間も、空間も、宇宙も、すべてがこの瞬間にも激烈な変化を繰り返しているのです。実は、その『無常』にこそ人間の『苦』の本質があり、同時に救済があるのです。それを『空』として森羅万象の本質を解き明かしたのが大乗仏教なのです。私たち日本人の心の中には意識的であれ無意識であれ、この『空』という仏教の本質が深く根を張っていると思われます」
「ということは、欧米人と日本人は宗教的に思想的に、まったく異質の礎の上に生きているというのですか」
「その通りです。あなた方の『神』と仏教で説く『仏』とは決して相容れることはありません」
風作は断言した。
「そうですか」
正直なところデイビッドは驚いていた。たった2ヶ月間で目の前の青年が凄まじい変貌を遂げていることに言葉を失くしていた。デイビッドは2ヶ月前に立志大学前の喫茶店で語り合ったときの風作の様子を思い浮かべた。
『2ヶ月前、あの喫茶店の片隅でこの青年はネイティヴ並みの英語力を披露してくれていた。アメリカ訛りの日本人離れした英語だったが、アメリカ人の自分にはそれは大した意味は持たなかった。確かに、この青年は時々刻々と変化するグローバルな情報に精通しており、それらに対する自分の考えをも持ち合わせているようだった。所謂、ロジカル(論理的)でリーズナブルな(理にかなった)物の考え方ができる、日本人には珍しいタイプの青年だった。その時は率直に、良い日本人に出会えたと思えた。ひょっとしたら、この青年が不思議の国、日本という国家の特異性を紐解いてくれるのではないかと期待もした。しかし、話していくうちに、この青年も英語が上手いだけの不思議の日本人に過ぎないことが分かった。日本について何を問うても、この青年はもじもじと黙り込むばかりだったではないか。英語で意気揚々と海外の出来事は話せても、自分の足元はぐらついている、そんな頭でっかちの大学生だった。そんな不甲斐ない姿に私は落胆し不満を露にしたのだった。それでこの若者にこう言ったのを覚えている。
「フサク、世界を識るとは自分を知ることです。自分自身を知らずして世界は分かりません。あなたの足元を固めて下さい。そこから真の異文化理解が始まるのです」
そう言われるとこの青年は蝸牛が小さく縮み込むようにうなだれた。そんな若者が今、驚くべき整合性と論理性をもって仏の教えを語っているではないか。仏教の知識のみならず、その教えそのものへの絶対的確信を漲らせて「生命」の本質を語っている。一体これはどうしたことだ・・・この青年に何があったのだ・・・』
デイビッドは目を見開いて尋ねた。
「フサク、この二ヶ月であなたに何がありましたか。あなたはどのようにして仏教を学んだのですか。この二ヶ月間で、どこかの仏教寺院で特別な行を修めたりしたのですか」
「いいえ、ただ、多くの人に出会ってその苦しみを観ました。それで、例外なく、どんな人であれ人間は苦しむのだと知りました。病人だけでなく、不幸の人だけでなく、幸せそうな人でも、強そうな人でも、大人も子供も・・・人の生き様を観ることが実は仏教を学ぶことになるのだと知りました。仏教の教えを観念的に説く書物は多くあり、それらを手にとることは易しいことです。しかし、書物の文字は生きている人間の苦しみをそっくりそのまま伝えてはくれません。春の温かみは厳しい冬を耐えた者のみが分かるのです。実り多い秋の恵みは酷暑の夏を乗り越えた者のみが、その有り難味を知るのです。生きてこそ初めて分かる人生の極意。春先の蕾を、味わい豊かな果実に育てるのは、大いなる人生の知恵なのです。それこそが仏の知恵なのです」
「大いなる人生の知恵・・・」
デイビッドは心揺れた。人生の意味を、今日この青年から耳にするとは思っていなかった。しかも青年は「生」について、ポケットから飴玉でも取り出すように淡々と語ったのである。
デイビッドは動揺を隠すために話題を変えた。
「フサク・・・では仏教の基本について質問します。仏教の歴史について教えて下さい。仏教はいつ、どのようにして日本に伝わったのですか」
「分かりました」
風作は、日本に仏教が伝えられた6世紀から、奈良、平安、鎌倉と歴史を追って平明に説明した。
「なぜ、6世紀になって日本に仏教が伝えられたのですか。釈迦滅後千年以上もの時間が経っていますが」
「仏教史を見抜いた鋭い質問だ」と風作は内心思った。ここに来て風作は、デイビッドが彼なりに仏教を研究していることを悟った。それでも風作は彼に誠実に答えることが肝要だと思い、次のように説明した。
「時間が必要だったのです。インドから海を隔てた遠い異国で、その国の文化として栄えるには千年という、所謂『熟す』時間が必要だったのです」
そして更に次のように付け加えた。
「インドで発祥した仏教の経典は梵語(サンスクリット語)で書かれていました。その経典を紀元2世紀以後に登場した多くの訳経僧が中国語に翻訳しました。また、4世紀に登場した鳩摩羅什などの天才的翻訳者が多くの経典を漢語に翻訳しました。その後、中国は南北朝時代(紀元439年~589年)の僧、天台大師が仏教の八万法蔵ともいわれる膨大な経典を、その書かれた時代と、教義内容の高低浅深により分類しました。それらの教えが中国大陸から韓半島を経て日本に伝わりました。平安時代の名僧、最澄はその天台思想を修学し、天台の教えを根本として比叡山延暦寺を建立しました」
風作は高度な英語力を駆使し、難解な仏教概念を難なく英語で言い表すことができた。この二ヶ月間、自分を追い詰めるように学習した成果だと思った。
「なるほど、日本に伝わった経典というのは大乗仏教の経典のことですね」
再び、デイビッドの顔つきが変わり始めた。その顔は、次第に、正確な知識を追い求める狩猟家のような表情を帯び始めた。
「そうです」
「大乗仏教と小乗仏教の相違点は?」
「大乗とは大きな乗り物のこと、多くの人を悟りへと導く教えです。小乗とは小さな乗り物で、出家して厳しい修行を乗り越えた者のみが悟りを得る、とする教えです。大乗仏教では宇宙仏が認められています。宇宙仏とは宇宙の真理そのもの(法身仏)です。仏教の創始者、釈尊は応身仏です。人間の姿になって真理を説く仏のことです」
「フサク、仏教経典にはなぜ数多くの仏が現れるのですか。仏とは何なのですか」
デイビッドは間髪入れずに尋ねた。
「仏とは『生命』のことです。あなたの中にも私の中にも仏はおいでです。仏とは宇宙生命であり私たちの生命そのものでもあります」
風作が答えた。
「宇宙生命であり私たちの生命でもある、とは?」
「如来は宇宙生命です。およそ150億光年の広がりを持つ宇宙には直径10万光年もの銀河系が1000億から2000億存在すると言われています。また、1つの銀河系には1000億から2000億の恒星が存在します。その数を見れば、この宇宙には地球のように生命を生み出す条件を満たしている惑星は無数に存在することが分かります。この想像を絶する広大な宇宙はそれ自体が生命を生み出す巨大な生命の揺籃なのです。その意味で、宇宙は生命を生み出す力を持った母の慈悲を備えていると言えます。私たちは宇宙の片隅で生まれ宇宙の慈悲心に抱かれながら存在しているのです」
「分かります。しかし、仏とは何か・・・こう・・・超自然の・・・キリスト教でいう神のような存在ではないのですか。日本の寺院には人間をかたどった仏像が多く安置され、仏として崇められていますが」
「釈尊の入滅後、人間は偶像を崇拝しはじめました。宇宙に遍満する御仏をかたどり目に見える形で仏を常住する実体として顕わしたのです。尊敬する対象を目に見える身近な存在として捉えることで『生と死』に対する漠とした不安が癒されたのです。御仏の生命は偶像のみに宿っている訳ではありません。あくまでも御仏は衆生の生命に、大宇宙の生命の中に遍満しているのです。また、キリスト教やイスラム教でいう『神』と仏教の『仏』には根本的な差異があります」
「その根本的な違いとは?」
風作は深呼吸をして言った。
「デイビッド、あなたにどれほど深い信仰心があっても、あなたは『神』にはなれません。あなた方にとって『神』になると考えること自体、畏れ多いことでしょう?『神』は人間が近づくことのできない絶対的存在なのです。しかし、あなたは『仏』になることはできるのです。何故なら、あなたの生命の中に御仏は実在するからです」
風作の意識の深部ではアーネスト氏が絶え間なく仏の世界を説いていた。風作にはその声ならぬ声が聞こえていた。その言葉通りに風作は語った。
しかし、デイビッドは僅かな論理の飛躍をも見て取るように身構えていた。
「では、その仏は、どうすれば現れるのですか」
風作は話が核心に来たことを悟った。
「祈りです」
「祈り? 何を祈るのですか?」
「祈りは希望です。祈りは慈悲です。祈りのない世界は絶望です。苦しみのない生活を望み祈るのではなく、祈ることで苦しみを乗り越える強さを得るのです。そして、苦しみを招くことのない生き方を自らが選び取るのです。その絶え間ない実践の中で、御仏は泉が湧き出るように現れるのです。私たち自身の中から」
「祈り・・・しかし、この国には多くの仏教宗派が存在し、それぞれの宗派は異なることを説いているように見えます。宗派が異なれば祈りも異なり実践する行も違ってくるのではないですか」
「確かに、この国には多くの仏教宗派が存在します。それぞれの宗派は釈尊の説いた膨大な大乗経典の一部を依経(拠り所とする経典)としています。それぞれの経典はその中でそれぞれの成仏法を説いています。そのため宗派により、その成仏法は異なってくるのです。各宗派により様々な差異が存在するのはそのためです」
この説明を聞いてデイビッドは露骨に眉をひそめた。
「釈尊の説いた大乗経典?」
「はい」
風作が軽く返した。
「釈尊が大乗経典を説いた?」
「そうです」
「そんな馬鹿な!」
デイビッドが眼を見開いて言った。
風作は不可解な表情で目の前のアメリカ人をじっと見つめた。
「フサク・・・今、分かりました。あなたの仏教観は根本から間違っています、残念ながら。大乗仏教を説いたのは釈尊ではありません」
デイビッドは風作の目を覗き込み、強い口調で言った。
風作はデイビッドが何かを聞き間違えたのだと思った。
「デイビッド・・・」
デイビッドは背筋を伸ばし風作を見下ろすようにして言った。
「いいですか、フサク、大乗経典は釈尊滅後五百年以後に創作された教えです。どこの誰が説いたのかさえ今でも分かっていない経典なのです。どんな人物が何の目的で創作したのかさえ、まだ分かっていません。これは歴史的事実です。確かに大乗経典には、私たち凡人には思いもつかない深い真理や物事の道理が巧みに説かれているように思えます。しかも、その数は膨大です。しかし、だからと言って、これが釈迦如来の説いた教えだと断言することはできないのです。誰が説いたのか分からぬものであれば、私たちは、その創作者をどのように形容することもできるのです。例えば、それは『狂人』であるとか『誇大妄想狂』であるとか『大嘘つき』とか・・・何とでも言えるでしょう。そうです、この国に深く根を張っている大乗仏教は釈尊の直説ではなく、創作者不明の虚妄の教義なのです。それをあなた方、日本人は知るべきなのです」
「何を言ってるんだ、デイビッド! そんなこと、ある訳がないじゃないか」
風作は顔を歪めて言った。
デイビッドは呆れたように風作を見据えた。
「私はあなたがこのことをご存知なのだと思っていました。だから先程から大乗経典の魅力を説くあなたが不思議に思えていました。この日本という国の不思議は正にそこにあります。自分の国の柱である教えが、どこの馬の骨が説いたのか分からないものであるのに、日本人はその経典が釈尊の教えであると思い込み、後生大事にしています。それが釈尊の経典ではないと証明されても、それでも尚、それが釈尊の教えであると思い込もうとしています。自ら嘘を本当らしく丸め込み、集団催眠にかかっている国民。それが日本人なのです。違いますか?」
デイビッドは悪鬼のように風作を追い詰めた。そして、風作がこれまで展開してきた論理の糸を断ち切ろうとしていた。悪鬼は風作の息の根を止めようと最後の刃を向けた。まさにこれは、知的な格闘であった。
「デイビッド、君は自分が何を言っているのか分かっているのか!」
風作は叫んだ。風作は日本人としての尊厳を根本から否定されたように感じた。偉大な釈尊の教えを容赦ない言葉で誹謗する目の前のアメリカ人が許せないと思った。風作の心は混乱し、突如として怒りが込み上げてきたのである。
「フサク、あなたは以前、私に日本仏教について教えてくれると約束しました。しかし今もあなたは日本仏教の基本さえ理解していません。これは明らかなことです。これ以上あなたとこの件について話し合っても時間の無駄です。私、思うのですが、外国人がこの国を理解することはほとんど不可能です。何故なら、自分の周りの当の日本人でさえこの国を理解していないのですから。これは、本当にとても残念なことです」
風作は息ができなかった。
『まさか、そんなことが・・・』
風作は心の中で叫んだ。
風作は将棋盤の隅に追い詰められた「歩」のように身動きが取れなくなっていた。身体は硬直し、それ以上、何も言えず黙り込んでしまった。自分の中で何かが瓦解して行くのを感じた。地殻変動により自らの精神が拠り所とすべき地所が崩壊していくような恐ろしい感覚が走った。
気がつくと、目の前にデイビッドの姿はなかった。風作は魂を抜き取られた藁人形のように一人、A1ブースに取り残されていた。どれほどの時間が経ったのかさえ見当もつかなかった。ただ、静かに自分の心が落ち着くのを待っていた。
風作はブースを出て、談話室の太いガラス扉の向こうに渦巻く螺旋階段を見上げた。それは図書館員専用の木製の階段だった。風作は談話室を後にして「立ち入り禁止」の札が付けられたロープを跨ぎ螺旋階段を5階へと駆け上がって行った。その階では宗教、哲学関係の書物を閲覧することができた。書棚を見上げると膨大な冊数の書物が非常な重量感を湛えていた。閲覧室の中は薄暗く、壁際に設えられた小机で書物に向き合う学生達の横顔を蛍光灯の明かりが無造作に照らしていた。
風作は仏教関係の書物を書棚から手当たり次第に抜き出した。そして、それらを急いで壁際の小机に積み上げ、これらの書物でデイビッドが指摘した事の真偽を確かめようと焦った。最初の一冊を手に取った。15cm程の厚みのある仏教大辞典の目次を調べ「大乗仏教」の項目が記載されているページを探した。急いでページをめくると黴臭い臭いが顔を扇いだ。微細な文字が紙面全体を覆っていた。「大乗仏教」の項目を探し当てた瞬間、風作の額に滲んでいた汗が引いた。硬直した蝋人形のように風作は紙面を見つめた。風作の心は微細な文字の中をさ迷い、その中にデイビッドが語っていた仏教史のトリックを見つけ出してしまったのである。
「デイビッドの言っていたことは本当だった・・・」
風作は全身の血が引いて行くような脱力感を覚えた。小机に積み上げた書物をすべて調べ上げたが結果は皆、同じだった。風作は異常な喉の渇きを覚え飲料水を求めて席を立った。通路沿いに数歩、歩いた瞬間、足元が覚束なくなるほどの眩暈に襲われ、慌てて手すりにしがみ付き腰を落とした。眼下には先程、駆け上がってきた螺旋階段が大きな口を開けて渦を巻いていた。その渦はゆっくりと周囲の空間を飲み込みながら自分の方ににじり寄って来ているように見えた。風作はなす術もなく迫り来るその大渦をじっと見つめた。
「聖徳太子、空海、最澄も・・・親鸞も日蓮も道元も・・・大乗経典は釈尊直説の教えだと信じて疑わなかった筈だ!だから彼らは釈迦仏法を極めようとしたんだ。その信念が彼らに、諸難を乗り越える勇気と大地をも揺るがす力を与えたんじゃなかったのか。そうじゃなかったのか。どういうことなんだ。彼らは時代の波に翻弄されていただけの、ただの愚鈍なる凡人だったのか・・・これは、一体どういうことなんだ!教えてくれ!誰か教えてくれ!真実はどうだったんだ!何処に真実があるんだ!アーネストさん、あなたはどうだったのですか。あなたは、真実を知っておられたのですか。教えて下さい、アーネストさん・・・あなたは何処に行ってしまわれたのですか・・・」
風作は混沌の大渦に巻き込まれ、脱出不能の迷宮の奥深くへと沈み込んでいった。